カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


体温計とモデリング/議論が成り立つということ

保育所に息子うぇい太郎を預けるために、毎朝かれの体温を計らなければならない。

しかし毎朝体温計を腋にはさんで5分待つのはさすがにだるかろうということで、嫁氏がぼくに10秒ほどで測れる(べつにいまの時代めずらしいものではないけれど)すぐれものをわたしてくれた。

「っていうか、これってなんではやく測れるん?」

と聞くと、お前はアホか、みたいな感じで嫁氏は説明してくれた。

 

ちなみにぼくも嫁氏もともに理系ではあるけれど、志向が全然ちがう。

嫁氏は学問がどのように実生活に応用されているかということへの好奇心が強いけれど、一方でぼくはそれについてほとんど興味がない。(ここははっきりいうとぼくの悪いところだ)

 

曰く、体温計には「実測式」「予測式」のふたつがある。

実測式は腋にはさんで5分待つむかしながらのアレ。

予測式は、最初の数秒の温度変化を測定し、理論式か臨床で得た統計データを参照して最終温度を予測するやつをいうらしい。

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引用:テルモ体温研究所HPより(実測式と予測式|体温計入門|テルモ体温研究所

 

気になったので調べてみると、やはりというか、予測式体温計にはネガティブな見解を示したひとが過去にいたみたいで、その話が個人的におもしろかった。

 

 

予測式体温計の否定意見

みんな大好きWikipediaで知ったのだけれど、どうやらいまから30年ほど前に(むかしすぎじゃね?ということはここでは立ち入らない)数学者の西山豊というひとが「電子体温計の研究」という本を出している。

電子体温計の研究―微熱や低体温で悩むあなたに

電子体温計の研究―微熱や低体温で悩むあなたに

 

 そして問題の予測式体温計の批判はこの本のp33〜p67にある。

結論から言えば、(予想はつくだろうけれど)予測体温計には誤差が大きすぎるということだった。

西山さんは実測式のなかでも「水銀のアレ」を超推していたので、実測式はそれにならって水銀式を比較対象にする。測定をはじめてから実際に数字が出てくるまでの流れは以下のような感じ。

実測式:測定を始める→水銀が熱膨張する→温度が出る

予測式:測定を始める→サーミスターが熱を感知→統計モデルを参照→電子回路→予測値

 誤差原因のいちばん大きな問題は「統計モデルの妥当性」にある。

体温を測定するうえで1回ごとにバラツキは当然生じる。そしてそれは「腋ではさむ」か「口に入れる」か、検温部がうまく体に接しているか、またはその角度など、条件面の要素が多々ある。

そしてもうひとつが「工程の複雑さ」。実際に数値を出すまでに複数の工程を必要とするので、各ステップでの誤差を溜め込んでしまうことも無視できない(これは「電子体温計に対する水銀体温計」という比較の意味が強い)。

ざっくり要約すると、こんな感じだった。論点がすっきりしてる。

 

議論が成り立つ条件

実はこの議論の内容は別にどうでもいい。ぶっちゃけ、精度もだいぶん改善されているだろうしね。体温計マニアでもないし。

断っておくと、ぼくは別に「予測式体温計」に反対なわけじゃない。というか、これからも朝は予測式を使って息子の体温を測る。

おもしろいのはなんでこんな議論が起こってしまうのか、ということだ。

もちろん、出発点は「体温計の精度」だ。

そしてそこにもう少し踏み込んでみると、

「体温という個別の振る舞いを見ようとするのに、統計という集団の特徴をベースに算出している」

という視点のギャップから生じていることがわかる。

雑多に想定される誤差要因を平均値としてまるめこむのは汎用性を考える上でとても大切だけれど、個別対応しようとするとモデルが複雑化を避けられず、使いにくくなったり、コストが高くなったりする。モデルを高い精度であらゆるものに当てはめようとすると、そういう課題がつきまとう。

この「個別を扱うのに集団を参照する」

という方法に対して異を唱えるのが、

「個別を扱うのには個別を(=実測)」

という方法で、「方法v.s.方法」だからこそ議論が成り立つ。同じ次元にあるものじゃないと比較にならない。

このことは竹内薫「99.9%は仮説」でも詳しく書かれている。

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

 

 

モデリングの有用性/大局的にとらえる

こんなことを例にとってしまうと統計屋さんの立場が弱くなってしまうので、話の進め方としてあんまりよくないのだけれど、集団の振る舞いをベースとしたモデリングは大局的に物事をとらえるには欠かせない。

モデリングで大切なのは「なにが結果に寄与するか」という要素分解で、複雑なものを簡略化することにある。なにを注視して、なにを無視するかを決めるセンスって結構重要で、シミュレーションとかやっているひとは抜群にこの能力が高い。というか、数学が得意なひとですかね

簡素なモデルというのは、(適切に設計されていれば)その素朴さゆえに、全体として起きていることを端的に指し示すことができる。

しかし割と抽象的な話になるので、その概念を具体例を挙げて説明しようとすると「恣意的」になりかねないことには注意しなくちゃいけない。

 

実は作家でもこの「モデリング」という能力に長けているなぁというひとが多くて、いちばんわかりやすい例でいえば(名前を出すのに抵抗があるけれど)ドストエフスキーだ。(←前述の「恣意的な具体例の提示」がこれ!テストに出るよ!)

はずかしながら、ドストエフスキーを全作読んだわけじゃないのだけれど、主要作品といわれる「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」は個人の物語をベースにしながら、ロシア社会を見事にモデリングしているように感じられる。

それを可能にしているのは膨大な情報量であり、それを凝縮させる圧縮力だ。これによって、「個しての詳細情報の緻密さ」「ある集団を象徴したような特徴」の両方を獲得している。

「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」では有神論者と無神論者が配置され、かれらが「神の有無」という土俵で激しく対話する。対比的な人物の配置自体は珍しくもなんでもないけれど、この構造を導入し激しく議論させることで「小説自体が恣意的である」ことに陥らないようになっている。

これは「論v.s.論」という、体温計の話でした同次元にある比較(議論)になっている。まぁ、「ずっとイワンのターン!」感あるけどね。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 
罪と罰(下)(新潮文庫)

罪と罰(下)(新潮文庫)

 

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 
カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

 
カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

 

 

認識のズレから起こる意思疎通の不具合

最近、「読まずに文学作品を分析する(=作品の内容的細部には立ち入らず、統計的に文学作品を分析する)」というコンセプトのこんな本が出た。

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

 

いうまでもなく、「集団として物事を大局的にとらえること」と「個別に細かく分析していくこと」はどちらもおなじくらい大切だ。けれど、ぼくの個人的な経験だけど「個別に細かく分析すること」を重視するひとが多すぎるんじゃないかって感じる。特に、人に関わる分野については結構敏感にそういう傾向が見られる。文芸系とかコミュニケーション系とか、そういうところで特に。

営業をやっているときとか「お客さんによって全然ちがうから」とかしょっちゅういわれた。そりゃそうなんだけど、なんだか「人間」ということを特別視しているようで、それで変なバイアスかかってるんじゃない?とかおもえてしまう。ひとひとり、作品のひとつひとつの尊さは間違いなくあるけれど、それにこだわりすぎると見えるものも見えなくなる。「個の権威」みたいな。

この「個の権威」が強すぎると、認識のズレを引き起こすことが割と多い。

たとえば、ある分野について巨視的な視点から物事を言っているひとに対して、その主張に対する個別の反論を1つ挙げてはい論破、みたいなネットで日常的に行なわれているやりとり。あれを見るとけっこう他人事でもつらいのだけど、それはだいたいそもそも議論として成り立ってない。

そもそも議論しているスケールがちがう。集団に対して個をぶつけたところでもう悲しみしか生まない。集団について言及してくる側が話を合わせようと例を出してくるともう泥沼で、何をいっても「恣意的」といわれる。

まぁこんな泥仕合いになる時は往々にして双方が相手に対して無理解で炎上しているんだけど、議論を吹っかける側は相手の土俵で質問するのが礼儀だし、吹っかけられた側は相手の土俵にホイホイ上がらない、というのが鉄則だとおもう。

というか、ぼくは議論なんてできればしたくないんだけどね……。

 

えらく自己言及的な内容になってしまったけれど、自戒としたい。

ストップ!無用な争い。

 

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