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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

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【感想】「物語」という呪縛/舞城王太郎「Would you Please Just Stop Making Sense?」(新潮2016年9月号)

※このエントリーには小説「Would You Please Just Stop Making Sense?(舞城王太郎)」のネタバレを含みます

新潮 2016年 09 月号

新潮 2016年 09 月号

 

新潮が気満々のラインナップだ。

先月はまたしても高橋弘希が掲載されていて、今月は高尾長良と舞城王太郎の中編が掲載されている。

 

そのほかも津村記久子や金井美恵子、円城塔などが個人的には読みたいなーっていう作家で、なけなしの金をはたいて買った。

 

すると息子が、前職の給与明細を和室で振り回していて、とても示唆的な行動だなぁとおもいました。

 

きょうは舞城王太郎という作家のことと、新作「Would You Please Just Stop Making Sense?」のレビューを書きます。

 

 

「物語作家」としての舞城王太郎

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 

「煙か土か食い物」でメフィスト賞を受賞しデビューした舞城王太郎は、独特の軽さと不謹慎さを持つ文体や、オカルト、ミステリ、アドベンチャーなんでもありのポップな作品構成から人気を博し、純文学とか大衆文学とそういう垣根をこえて活躍している作家だ。

デビューから強い個性を放っている作家だけれども、その物語にあきらかな傾向がみられたのは芥川賞候補作「好き好き大好き超愛してる」だったようにおもう。この小説は、恋人を病気で亡くした若い作家の短編がメタ的に挿入され、その作品の合間合間に小説の外側の世界でのコミュニケーションが描かれる。「小説を書く」ということと「日常を生きる」ということの時に意識的で、時に無意識的である関係性を中心に据えた作品だ。

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 

ぼくらが生み出すすべてのことばが現実の生活の経験に由来するものであれば、すべての創作はすべて私小説的な様相を帯びることになる、というか、私小説であるということから逃れられなくなるだろう。物語が発生した根源を、物語の外側に問うことへの嫌悪をぼくは感じた。

 

以降、舞城王太郎の作品では登場人物たちが「物語」というものに対して強い自覚を示すようになったとおもう。これまでの作品でその到達あったとおもわれるのが、「淵の王」だ。

淵の王

淵の王

 

短編連作の構成をとったこの小説で、舞城王太郎は主人公に背後霊のような語り手をとり憑かせ、2人称で語りを展開している。これにより物語の内と外を仮想的に移動することが強調され、主人公たちに起こる出来事が過剰に予言的(伏線的)に描出している。そしてそれをことばとして主人公たちが自覚してしまうことで、「物語」が発生してしまう。このように主人公たちの生が暴力的に「物語化」され、呪いのような不気味さや息苦しさ、恐ろしさが感じられた。「破滅的な想像力」を力強く描いたい1作だった。

今回、新潮9月号に掲載された「Would You Please Just Sto Making Sense?」は舞城作品のなかでもこの流れにあるもののようにおもわれた。訳すと「たのむから理解をやめてくれないか?」あたりが妥当かもしれない。

 

物語の「理解」

あらすじはこんなかんじ。

リオデジャネイロの日系ブラジル人の警官「スポンジ」が主人公で、ひょんなことから友人のアンジェリーナと彼女のふたりの娘と生活を共にすることになる。そこに、4人の男がひどいありさまでバスタブにぶっこまれているという事件が起こり、3人が死亡、ひとりが生存する。生存した男「ドミンゴ」も警官で、かれとともに事件の犯人(マザー・カナダという女)を追う。

アンジェリーナの娘ジーナの、

「ヘクターがキャベツ畑で羊の背中に乗って傘をさしていたら隣の町の歯医者さんが見つけるの」

ということばがきっかけに、小説のなかには「予言的」「暗示的」なものが節々に現れる。殺された3人の男は生活において全くの共通点がみられないのに、みんな名前がロベルト・アルフォンスであったり、マザー・カナダは「私は羊」と口走ったりする。

予言や暗示となる出来事はかならずじぶん以外の「何者か」から与えられるものだけれども、その出来事を予言や暗示として解釈するのはじぶんの思考だ。そしてその予言的ないし暗示的な出来事というのは、なにかが起こるまでは大きな注意を払われずにある。

たとえばぼくに「なにかよくない出来事」が起こったとき、「因果応報」というやつを想起する。まったく別の場所でぼくが行った「よくないこと」の代償として今回のことが起こってしまったんじゃないか、と考えてしまう。この想像力と、自身にふりかかった雑多な出来事を物語として理解しようとする思考が、あらたな出来事の予言や暗示となり、また別の場所で別の出来事が発生する。その連鎖によりものごとが「ほんとうに」物語になってしまったような不気味さを感じる。

このパラノイア的な思考は、統合失調症を患った方にも見られるという話を聞いたことがある。

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記―(新潮文庫)

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記―(新潮文庫)

 

小林和彦「ボクには世界がこう見えていた」では、あらゆるものが1つの因果として回収できてしまうという強迫観念にかられて発狂したと記してあった。

ぼくは最近の舞城作品を読むと、いいことであっても悪いことであっても、どうして多くのひとがじぶんの生に大なり小なりの物語を見出したがるのだろうとおもえてしまう。そういうものを排除したいとおもっているぼくでさえ、不条理とおもえることが起こってしまったときに、関係あるはずのないことを瞬時に考えてしまうのだから、(という理由は変だけれど)、物語そのものにある種の呪術的な力を感じずにはいられない。

そしてその外側をさらに考えようとすると、さらなる予言と暗示をぼくらはあらゆるものから見出してしまうだろう。

物語の呪縛から逃れるためには、理解することをやめなくてはならないのだろうか?

 

事務連絡

そういえば、はてなスターの事をスパムメール(!?)みたいなもんだとおもって理由で外していたんですが、最近よく「はてスタぶん投げたいのにできない」というお声を頂いていたので付け直すことにしました。

でもぶっちゃけブコメくれた方が喜びます(必死か!)

 

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