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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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目に見える情報だけを価値と呼ぶなら、読書するのはGoogleだけでいい。

きのう、Twitterでこんな写真がまわってきた。

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読書感想文の書き方フォーマットについてなのだけれど、「読書に対して画一的な価値観しか与えなくなる」などの否定派と、「読書して感想を述べることの基本を身につけるには良い」とする肯定派がけっこう顕著に割れていておもしろかった。

ぼく個人としては後者寄りの考えをもっているのだけれど、こういう議論がわりといろんなひとを巻き込んで行われているという点で、読書に対する意識というのはみんなけっこう高いんだなぁっておもった。

 

本なんて、小説だけじゃなくて自己啓発やら教科書やら多岐に渡るのだけれど(ぼくは小説か教科書か資料集しか基本的に読んでこなかった人生だった……)、いまや「出版業界がキツイ」という話もぼくのような下々の人間も聞くようになってきた。

特にヤバいといわれるのが、ぼくが一番好きで読んでいる、いわゆる「純文学」と呼ばれる分野。これらの本って、1万部刷れたらめちゃくちゃ売れてる!っていう世界らしく、初版はだいたい3000部とか、そんな数字らしい。

そのことについて、きょうは考えてみた。

(純文学新人賞の話題はこれ↓)

www.waka-macha.com

 

 

 

「表現する」という速度の上昇

「純文学」だけじゃないところも一部あるのだけれど、小説というメディアの特徴は、だれでも思いつきひとつで書けてしまうというところにある(※日本の識字率はほぼ100%だからね)。むろん、これは良いことだとぼくは考える。

いまさらいうのもバカらしいけれど、そのつくることの手軽さにネットの発達があいまって、「だれでも」「ノーコストで」作品を発表できるようになった。もちろん、これもいいことだとおもう。

じゃあなににぼくが違和感をかんじているかというと、「小説を読みたい」という感情と「自作を読んでほしい」という感情のバランスがかなり悪いんじゃないかということだ。早い話、「小説を書くけれど、たいしてい読んではいない」ひとがすっごい増えた気がする。

ネットがなかった時期、小説を書くというのはとてもはずかしい行為だった。そうかんじているひとは少なくないんじゃないかなぁ。ネットじゃなくてもいい、思っていることをことばにすること、表現することがとてもはずかしかった。小学生のときに流行っていたJ-popの曲をひとまえで歌うのだってはずかしかったし、それはぜんぶ、表現に対するプラスの感情もマイナスの感情もすべてリアルな「ぼく」に直接曝されるからだった。ネットは直接ひとと接することもないし、名前を変えたりもできる、だから表現に先立ってしまっていた「はずかしい」をいい感じに消してくれた。ぼくが小説を書けるようになったのも、これだった。そして、不特定多数が集まる場所に、ぽん、とつくったものを置いておくことができる。

それは「はずかしい」がなくなったわけじゃない。「作る」という行為を、「はずかしい」よりも先にくるようになった。速度の問題だ。そしてぼくを知らないだれかだからこそ、ぼくというものを度外視した視点で読んでくれるようになった。だから、書けば書くほど、表現することをはずかしいなんておもわなくなった。

 

「本が売れない」のはだれのせい?――批評の必要性

きょう、こんなツイートを連投した。

 

しかし、「表現の速度」が速くなるにつれて、表現が表現でなくなってしまったような気がするのだった。

あまりにもたくさんの「表現」がみんなが簡単に見られる場所にありすぎてしまうから、ぼくらはそれを表現の速度よりもより速い速度で「選別」しなければならなくなった。「表現」が「情報」にかわった。

ぜんぶがぜんぶ、読むひとのだれもがそうだとはいわないけれど、ある程度加工されたものを好んで消費するようになったという認識が強い。ブログを書いていてそれを強くかんじた、ぼくのブログで多数のブックマークがついたり、アクセスが多いものはすべて「ランキング」であり、情報をぱぱっとまとめたものばかりだ。

 

「表現」は「意味」じゃない。

ぼくはずっとそう思っていた。

画家のポロックは、なぜ絵を描くかという意味に先立つものとして「絵を描く」という行為を画面にひきずりだした。その荒々しい作品は作者と切り離された瞬間、一見するとわけのわからない模様になってしまう。そして画面と相対する鑑賞者が、画面に現れた表現を咀嚼し、ことばにすることで新たな「意味」を与える。表現にことばや意味を与える行為を、きっと批評とよぶのだとおもう。

表現と格闘することもなく、小説ならばそのあらすじを抽出して簡単な感想を述べるだけのものは、表現に意味など与えやしない。そんなものは情報だ。そしてその情報が大量にあることがあたりまえになってしまって、「いかに大量の情報を限られた時間で摂取するか」が大多数のひとたちの価値になっているんじゃないか?とどうしてもおもえてしまう。ならばこの世で一番読書しているのはGoogleだ。

 

純文学というものが昨今「読まれない」といわれるのは、そのつくりの「消化しにくさ」にある。

「表現に意味を与える」という、読者の能動的な読書をある程度要求してしまう性質がある。

むずかしいとかんじる本があったとき、いつもぼくはそれがじぶんに足りていない「何か」があるものだとおもっていたし、(こんなこといいたくないけれど)だからこそたくさん本をよんで、たくさん勉強して、なによりたくさん考えて、たくさん文章をかいた。

しかし、小説のそんな「表現的意味」を、ほとんどのひとが価値と呼ばなくなっているような気がする。そこには大量の情報もないし、そもそも情報ですらないかもしれないのだ。

書評ブロガーどもはみんな海尋さんを見習えよ。

Danse Macabre!

 

結果的に小説が売れないのはある程度「仕方がない」とはいえ、いまの「読書」という分野では、圧倒的に「表現に意味を与えること」「意味を価値にすること」が足りていない気がする。

その不足分を表現者に対して要求するのは、ちと傲慢すぎやしないか?

 

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www.waka-macha.com

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