カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


先生みたいな「ぜったい」

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※結婚3周年なので結婚式を挙げた会場でメシを食ってきた

 

結婚しようという話をはじめて切り出したのはSkypeのチャットで、そのときぼくはアメリカに、嫁氏は日本にいた。ぼくは学生で、嫁氏はいまの会社につとめていた。

大学1年のときから付き合って8年で、もう8年経ったのだからいつ結婚しても事情はないかわらないというか、むしろ、遅くなれば遅くなるだけ結婚の遅れというものがそのまま人生の遅れになってしまうし、早い話、子どもが欲しいのだといわれたのは、プロポーズをすることになる1ヶ月前のゴールデンウィーク、有給休暇をつなげてつくった連休にはるばる飛行機を2度乗り継いでやってきた。そのじきというのは、ぼくがこのブログをはじめた時期にあたる。

 

 

コミュニケーションと過剰な相対化

もともとブログははじめてはつぶしてをくりかえしていて、このブログは留学した直後におもいつきでつくったものでしかなかったけれど、最初の写真を撮った時期なんてまだ結婚すらしていなかった。この4年で結婚もそうだし、ずっと目指していた職業や、学問じたいを諦めたり、小説を書く友だちが増えたり、就職したり退職したりして、 うぇい太郎が生まれたりもした。

歳をとることにはなんだかけっこう変な感じがあって、たとえば小学生のときなんて中学生はとても大人!って感じで、高校生なんてとんでもなくすごかった。なのにことし30になるというのに、いまはまわりのひとがみんな、とても幼く見えるのだった。学校の先生のいうことはぜったいで、間違いなどぜったいにありえなかった大人たちから、その「ぜったい」をとることにおもえばぼくはずいぶんかかってしまった。

ささいな間違いや考えの足らなさというものは歳をとればしなくなるはずなんかなくて、それがじぶん以外のひともそうだなんておもいもしなかった、おもい責任をもつ「社会人」というひとたちは「ぜったい」でなければならない、はずだった。

 

けっこうショックだったのが、この4年間でその「ぜったい」を案外簡単にとってしまえたということだった。ぼくがちいさなころから持っていたおとなたちの「ぜったい」はいってみれば補助輪のようなもので、いつかじぶんでちゃんととらなければならないものだっただろう、でも、おとなたちから「ぜったい」がなくなって相対的に幼児化してしまうことについて、それはそれでさびしい。

子どもを持ってようやく知ったことは、学校の先生は大人であるから正しかったのではなくて、かれらのひとりひとりが絶対的に正しいから正しかったわけでもない。

かれらは先生だったから正しかった。

しかし先生が先生である前にひとりの人間だってことがみんなわかってしまったり、先生じゃない大人が先生が「ぜったい」じゃないことをこっそり子どもに教えちゃうようになって、「先生」であることが正しいことにならなくなってしまった。

それとおんなじように、たとえばドストエフスキーやトルストイやトマス・マンといった小説はかつての先生のような「文学」という「ぜったい」をつくっていた。

そしてその「ぜったい」は、「ぜったい」を信じたものだけが得られるものだった。しかし「ぜったい」を信じないものも自由に出入りできる場所としてインターネットが登場すると、「ぜったい」をつくることがむずかしくなったんじゃない?とつよくかんじる。

ぼくは先生みたいな「ぜったい」が欲しいし、必要だとおもう。

 

統一的な価値基準を持つっていう意味をいいたいんじゃない。

ただ、べつに小説の話だけじゃないけれど、たくさんのものが「コミュニケーション」を推奨しすぎることで、過剰に相対化されすぎていることに、ちいさくない違和感をもっている。

 

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