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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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小説にゆるされる偶発/小説「砂の女(安部公房)」

読書

小説のことを好き嫌いでいってしまうことは元も子もないことで、ぼくがブログでよく書評をみたとき、いやだな、とかんじるときはいつも好き嫌いで小説が語られて読者が読者である自覚を持ってしまって小説の自由さが奪われてしまっていることだった。ただ、そんなことをいいだせば、感想、というものをどう持てばわからないし、こんなブログを書きながらも果たしてレビューなど呼んでいいものか、個人的にもちょっと困っている。

 

きょうはとても暑い日で、甲子園が休みなのが不思議だった。日陰にいてもクーラーがなかったら汗をかいてしまって、スマホで小説をかいていても変換をとても間違えてしまう。午後、読書ブログを書いているひろこさんと会った。

quelle-on.hatenadiary.jp

会うまえに安部公房の「砂の女」について話をしたい、ということを聞いていたので、お盆に実家に帰ったときに新潮文庫のものを持って帰ってきた。五年ぶりに読んだ。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

ひろこさんは安部公房がわからない、といった。

 

 

小説と意味

ぼくとひろこさんの小説観は、ひとことでいうならば真逆だった。

彼女は安部公房をどう読めばいいのかわからないといい、それは細部に使われる大量の比喩や表現として使われたことばの意図をはかりかねる、というものだった。安部公房はむずかしい、そういうひとはとてもおおい。それは安部公房はとてもかたくてつよいロジックを持つ作家であるのかもしれない。

「砂の女」では、「砂」というもののイメージを科学的(あるいは辞書的)な意味からはじめ、そこに女の生活と経験によるイメージがぶつけられることにより、「砂」というものの意味が解体される。そして、「砂」というものに対しての一意的なイメージを喪失した状態で、男は女との生活を経験する。テクスト化された生を生き直すことで、その世界でのみ機能するとくべつな「砂」のイメージを得ることができる。

 

しかし、ロジックのかたさとつよさが、画一的なものにテクストを限定するかといわれればそうではないような気がする。たしかに安部公房の小説のロジックのかたさとつよさは、指向性の高い「意味」を目指した小説であるからこそのようにおもわれ、最終的に読者に提示される小説は、明快であり同時に複雑で、どこか無機質な構築性をかんじられる。ただ、小説が「意味」を目指したものであり、その意味から逆算され、寸分の狂いもない必然(ある種の決定論的な)をもってすべての文章が書かれているというふうに、ぼくらは考えるべきなのだろうか。ひとの手により、そして作り手ではない第三者を想定して書かれたもののすべては「意味」により回収されなければならないのか。分厚い雲が頭上を覆う日に、楽しいことをしてはいけないのか。世界のいたるところで起こるあらゆる現象を、メタファで生け捕りにできてしまうのだろうか。

 

偶発性、「書くこと」と「読むこと」の接近

複数の他者が一意的に了解可能なテクストを「意味」と呼び、小説が「意味」へ向かうものであれば、主人公きっと世界よりも強くなってしまい、なにが起こっても意味と等価な「運命」というもので解決されてしまうだろう、しかし、小説というもののなかで「偶然」が、書くことはおろか、おもうことすらもゆるされないことになってしまうんじゃないか。

たとえばAという場所にぼくらがいて、Bという場所へ向かうとする。そのAとBの途中でCを通る日もあれば、Dを通るかもしれない。当初のおおまかな「意味」がAからBへの移動のことであれば、Cを経由しようがDを経由しようが、AからBへの移動が持つ「意味」は保たれるだろう、しかし、そのCを通ったということ、Dを通ったということが、AからBに向かうということ以外のあらゆる細部とあらゆる大陸、その地点の前方と後方へおよぼす影響というものを、ぼくたちはどのくらい考えることがゆるされるのか。ぼくは、昨日書いたことを今日書けない。去年書いたことを今年書けないし、一時間前の筆跡を厳密に取り戻すことはできない、今書いているものは厳密には今しか書けない。そういう偶発の積み重ねにより「書く」という行為、「読む」という行為、そしてテクストとそれに向かうものの関係性が色濃く表れるようになる。テクストの偶発性を認知することで、「読む」という行為は限りなく「書く」という行為に近づく。

ぼくが安部公房という作家が実践した表現はそんなものだとおもう。そして、それは「箱男」により、かなりラディカルに提示された。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

ぼくにとって安部公房はものづくりのすごいおじさんで、ちいさい頃に竹とんぼを作ってくれた死んだおじいちゃんによく似ていた。

 

あと、引用でもない限り、はてなスターを複数つけるのはやめてください。

 

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