カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


【感想】現代という戦場ではシーザーサラダを取り分けない/小説「スタッキング可能(松田青子)」

ぜんぜんちがった。仕事は誰にでもできることだった。ちょっと覚えれば、慣れれば、ちょっと突き詰めれば、仕事なんて造作もなかった。ちょっと真面目になればいいだけだった。続ける意思をほんのちょっと持てばよかった。

スタッキング可能(松田青子)

 

スタッキング可能 (河出文庫)

スタッキング可能 (河出文庫)

 

 

職場に復帰した嫁氏だけれど、上司である課長代理がほとんど入れ替わりみたいなかんじで退職することになったらしい。その課長代理とはたしか一度、嫁氏の職場の飲み会にさそわれたときに会ったような気がするけれど、顔も、そのときなにを話したかもまったくおぼえていない。かれはとても優秀なひとだった、と嫁氏はいった。

ともあれ、「課長代理がやめる」である。

ぼくの勤めていた中小企業では、課長代理というのはだいぶ上の役職になる。社長・専務・常務と三役があり、営業部部長は社長が兼任していたので、その下が課長となる。なので課長代理がやめるとなると、三役のほかに、グループ会長も出てきて「マジかよ」みたいなことになる。

しかし、会社というのは意外とだれがやめたところでそう簡単につぶれない。

起業してから5年生き残る会社というのはかなりの少数ではあるのだけれど、逆にそれだけ残ってしまえば顧客財産をしっかり守りきれば生き残ってしまえる、という性質はどうもあるらしい。経営に関してはまったく詳しくないけれども、サラリーマンのときは経営者のおっちゃんと毎日お話をしていて、みんな「きついわー」「金くれー」といいつつ、「まぁ、なんとかなるやろ」とあっけらかんとしていた。

嫁氏の会社はいわゆる大企業だから、課長代理というポジションにあるひとはめちゃくちゃいる。席の多さはそれだけ対会社でみたときの個人の寄与が小さいことになるけれど、会社といものを見る限り、そもそも個人対会社でものを見るという発想自体が自意識過剰なのかもしれない。東京都知事ですら、あっというまに交換可能なのだ。

 

 

「コンビニ人間」に現代を感じたひとに読んで欲しい感

「個人の交換可能性」「没個性」「画一的に用意された意味・地位」……

そういうものが戦後から高度経済成長を潜り抜け、いま日本がたどりついた世界という解釈をする書評を、直近の芥川賞作品「コンビニ人間(村田沙耶香」)」でよく見られる。

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

ただ、その日本の姿が2016年の日本として「最新」かといわれれば疑問は残るのだけれど、過激でありながらあざやかに描いているとはおもう。

(ただ、そういった舞台は「コンビニ人間」にとっては非常にささいな要素でしかないとはおもうのだけど)

そして「コンビニ人間」をそのように読むならば、松田青子「スタッキング可能」もあわせて読んでほしいとおもう。良いタイミングで文庫化した傑作だ。

 

三人称に対抗する戦術

「簡単なことだ。これだけわかっていればいい。誰も理解してくれない。それに加えていうならば、誰のことも理解できない」

スタッキング可能(松田青子)

この小説には主人公らしい主人公というものは存在せず、あるオフィスビルのなかで労働に従事するひとびとの生活が切り取られ、無機質に積み重ねられているように描かれている。業務、休憩、ロッカールーム、追憶、飲み会…それらの社会生活のなかでのコミュニケーションはどれも表面的であり、そして「だれ」が「どのように」それらが行われたとしてもそこには全く意味がない。三人称的な世界のなかで、個人はいかに一人称で世界とかかわれるのだろうか。

A田、B野、Cちゃんというように登場人物たちの名前は抽象化され、主語は特定のだれかでありながら、同時に主語はだれでもありえてしまう。自身に与えられた役割(職務)だけでなく、その体験、果ては人生までもだれのものでもありえてしまう。個人が受け入れられようとするほど、個人は巨大な「一般人」というクラスタに瞬間的に吸収され、顔や名前のない「一般人」が肥大化していく。

シーザーサラダを取り分ける『わたし』は「シーザーサラダを取り分ける」という行為のために、『わたし』ではなく『女子』になる。「スタッキング可能」の世界で示される現代という戦場は、シーザーサラダを取り分けないことが戦術になる。

そこがはじまりだった。

 

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