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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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【感想】物語の背後と特異点、理解から遠ざかった場所で/小説「氷」(アンナ・カヴァン)

読書

【広報】町屋良平くんのこと。

先日、河出書房新社が主催の「第53回文藝賞」の結果発表があり、ぼくらのサークルの一員である町屋良平くんの作品「青が破れる」が受賞しました!

www.kawade.co.jp

かれの作品はこれまでにたくさん読ませてもらっていて、何としても評価されてほしかったというのもあり、それだけでなく、創作以外にも「芥川賞受賞予想ツイキャス」をしたり、もっと素朴に飲み友だちでもあり、ここ3年いろいろ一緒にやってきたことを思いだすと、やはり感極まるおもいでいっぱいです。

また、たとえアマチュアであっても驚くような作品を書いてしまえる方というのは、決して多いとはいわないけれど、たしかにいます。「そういう方々がおもしろいんだ」ということはぶっちゃけ誰かにいっても、誰も信じてはくれない。けれど、こうして誰でもないひとが「誰か」になる瞬間に立ち会えたことが、いまはひたすら嬉しいです。

受賞作は10月7日発売の「文藝 2016年冬号」に掲載されます。

 

(アンナ・カヴァンの話は以下からはじまります)

 

 

理解からとおいところへ

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 

私にはわかっていた。安全な国などどこにも存在しない。眼前の危機からいかに遠く逃げようと、厄災は果てしなく広がっていき、最終的にこの惑星の全域を覆いつくしてしまうのだ。

アンナ・カヴァン,「氷」

  

この世にあるほとんどの小説を、ぼくは理解できない。

しかし、「理解できない」ということはむしろよろこびに近いものを感じるし、そもそもぼくみたいな取るに足らない人間が理解できてしまうような本にどんなよろこびを抱けばいいのかわからない。理解できるものを読んだところで、それは読書したという経験にはとおい。

いかに理解から遠ざかったところで小説を読むか。物語はほんらい的に「意味しようとする意思」を持たない。おそらく、物語の背後にいる「何者か」がいて、それによる「意味しようとする意思」というのは小説や物語を小説や物語らしくする特徴なんかじゃなくて、それはフィクションをフィクションにする特徴でしかない。ただ、むずかしいのは、小説や物語がフィクションであることをやめようとする動きを、そのように(あるいは「そのままに」)とらえることができるかという問題。

 

終末を北極星に。

本作「氷」には、そもそも確固とした意味(あるいは設定)を持った世界がそもそも存在していない。主人公である私や、私が求める少女、その他にも長官であり、通り過ぎる町々さえも、唯一のものとしての存在を許されていない。一文単位で私や世界が作られ、そして解体され、あらゆるものが流動的に描かれている。そこに意味を掬いとろうとしても、その流動性のゆえ、意味は読者の指の隙間からするりとこぼれてしまう。手元には何も残らない。あるとすれば、掬いとろうとした行為のことを肉体だけが覚えているような筋肉痛だった。

私は理解しようと努力した。彼は人間だが、それ以上の存在とも言える。少なくとも私が今あるような意味での人間ではない。より高き叡智を、究極の真理と言うべきものを知る能力を持っている。そして、その特権を付与された世界の自由を私にも与えようと言っている。私の最も奥深い自己は、心からその世界を知りたいと願っていた。私は想像を超えた体験の興奮を感じた。人間によって破壊され、死に瀕しているこの世界から、新しい、永遠に生きつづける、限りない可能性に満ちた、もう一つの世界の姿を捕らえたように思った。一瞬、その素晴らしい世界での、より高い次元の生を生きる能力を私自身持っていると思った。しかし、少女を、長官を、広がっていく氷を、抗争と殺戮のことを思った時、同時に私は、それがいかに遠く、私の力の及ばないところにある世界であるかを悟った。私はこの地上世界の一部だ。この惑星の出来事と人間に結びついており、そのつながりを断ち切ることはできない。私の自己の一部が最も欲しているものをあきらめるのは、心が引き裂かれる思いだった。だが、私は、自分の場所が死の宣告を下されたこの世界にあること、ここにとどまってその最期を見届けねばならないことを知っていた。

アンナ・カヴァン,「氷」

ゆるぎないものがあるとすれば、ひとは死んで、世界が終わるということ。

はじまりは不鮮明で、ぼくはぼくの生まれたときのことを覚えていなかった。いちばんふるい記憶のなかで、ぼくはこたつのなかに入って、おばあちゃんとみかんを食べていた。

ひとがはっきりと見つめることができるのは「終わり」で、すべての出来事がその北極星のもとでぐるぐるまわっている。終わりに向かって迷うけれど、その目指す場所である出口は、そもそも歩いていける場所なんかじゃないのだとしたら、私はきっと世界との心中を望むにちがいなかった。 

この小説には明快なロジックや、起承転結といったようなものはなくて、そもそもそういったものというのはすべてが終わった場所からの視点によってはじめてえられるものだ。それがない、ということはそういう視点が不在であるということになっていて、ぼくらは死ぬまでは死ねないみたいな、そういう発生し続ける「現在」の反復だけしか信じられない。

ときにじぶんのありかたすらもなかったものにして、あたらしい身体で現在にあり続けることは、この小説において執着ではない。そうする以外の術をもっていなくて、ねじれた時空にある終着地点を見つめながら、けっしてただしいとはいえない道をゆくことを余儀なくされているにすぎない。しかし、道がただしくなくても、その道をゆくことがただしくないというわけではない、とぼくはおもう。

 

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