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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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【感想】私より私を知る/映画「トータル・リコール(2012年版)」レン・ワイズマン監督

映画

※このエントリーは映画「トータル・リコール(2012年版)」と、フィリップ・K・ディックの小説「トータル・リコール」の内容についての言及を含みます。

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トータル・リコール (ディック短篇傑作選)

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ぼく、というのは完全じゃなくて、ここでいう完全というのは、どれくらいじぶんを正確に把握しているかという精度についての話になる。

知らない駅まで仕事へ行ってそこから会社に戻るとき、会社へのルートなんて全然覚えてなくても、通る道の風景が正しい道を教えてくれるような見間違いをするとき、数時間前の忘れていたじぶんがそこに立っているような気がしてしまう。過去のじぶんは未来のじぶんに出会うだなんておもうことはないし、そういうことは実際におこらない。しかし、ぼく以上に場所がぼく以上に信頼できるぼくを覚えていてくれる安心が、ぼくを会社に帰らせてくれる。

 

 

私を私にするもの

映画「トータル・リコール」を見た。2012年の新しいやつ。シュワルツネッガーが出ないやつ。

ディックの短編とはちがって、気の利いた小話では終わらず、地球がまっすぐ貫かれていたり、むずかしい争いがあったり、爆発したり、ひとがたくさん死ぬ、いわゆるハリウッド仕様の映画だった。

ほんらい経験できないことを経験するために、擬似記憶の売買が商業として流通している世界で、主人公のダグラスもまた擬似記憶を買おうとする。しかし、その過程でじぶんが有名な諜報員であり、いまのじぶんが擬似記憶をベースに生きている架空の人格であると知らされる。しかしこの時点で、ダグラスはじぶんが何者であるかを知ったことにはならない。ひとつであるはずのじぶんという存在の可能性が枝分かれし、それが過去の方へ向けて投射されたに過ぎず、「過去の私の痕跡」が、諜報員的に暗号化されていたり、戦いというシチュエーションとなって、「現在の私」に次々と語りかけてくる。そして、かれの肉体が眠らない運動をする現実さえも不確定なものへと変えてゆく。

この物語(映画にしろ、原作にしろ)は終始アイデンティティの問題が見え隠れするのだけれど、記憶が持ち運び可能な情報になることであらゆる過去が可能になってもなお、「一意的な私」というものを強迫観念的にもとめ続ける。擬似記憶を題材にした物語は他にもあって、攻殻機動隊などがその典型なのだけれど、それらに見られる狂気の根源はここにあるように感じた。私が、ありえなかった私をつよく恐れる。そして過去というものだけでなく、いまここにないものすべての信憑性を奪いとって、「現在」のみを信じるに値するものだという道へ、ひとびとを導いていく。ただ、この「現在」がそもそも「夢」である可能性を示唆していることが、ある意味でこの映画の良いところに感じられたが、その「夢(=いま、ここにないもの)」を偽の私で終わらせるならば、それはあまりにも「意味すぎる」。過去の私や、擬似記憶が作る私を、常に特異点であり続ける「現在」で統合し自己を見出そうとするのであれば、物理的な空間に限定された認知というのは都合がよすぎる気がしないでもない。

ただそれは示唆的なこととも感じられて、おびただしい数に増殖する「私」をユニークに決めるのは、おそらく「私」自身ではないということだった。きっと、「私」というのもはどれだけがんばって多数の「私」を発見し、あるいは捏造し、それを張り合わせたところで、きっと「私」というもののなかで像を結ぶことはない。「私」という像が映されるのは、他者というスクリーンであって、それが「私」。もっとも、それは機能的な意味での「私」なのだけれど。

 

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