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【感想】あさはかさは嘘臭さをうむ/小説「匿名芸術家」(青木淳悟)

 

匿名芸術家

匿名芸術家

 

 

大学生のときのいつかの飲み会で、友だちと早口ことばをつくってみた。そのときできあがったものは、

「あさはかさは嘘臭さをうむ」

であったのだけど、なかなかどうして、これが難なくつるりといえてしまう。酔った口であってもだ。

件の早口ことばだけれど、当然ながら(!?)、このことばに意味はない。意味があるとすればこのことばがつくる音だけであって、それ以外の意味とおもえるものはことばの外側から「それっぽく」取り繕われたもので、「このことばじたいがあさはかであり、嘘臭い」と感じてしまうこともはたしてどうだか。ともあれ、音であってもなんでもいいのだけれど、意味を離れ、ある一方向に特化した運動をもつことばが、その特性ゆえに意味を軽々とこえていくという現象はおもしろい。むろん、そういうものは他人には伝わらないのだけど。

 

このことを思い出したのは、青木淳悟の小説「匿名芸術家」を読んでいたときだった。

青木淳悟の小説は好きは好きなのだけど、じつはこれまで確信のある「好き」ではなくて、読んでいてとても不安だった。そのことをさいきん友だちと話していて、かれはぼくが抱えてくれる不安をかなり的確にしてきしてくれて、ひさびさに読んでみることにしたら、これがまたおもしろい。

 

じぶんのことばを持たないこと

すこし慎重にいうべき内容ではあると自覚しているけれど、青木淳悟はいわゆる「じぶんのことば」というものを持っていない作家だ。

「じぶんのことば」というのは、その書き手に特有の比喩であり文体であり、そういった視覚的に明確にあらわれる筆跡のようなものなのだけど、青木淳悟にはそれがない。ただ、青木淳悟の小説は1ページも読めば「あ、これは青木淳悟」とすぐにわかるくらいにはじゅうぶん特徴的だ。小説というよりは伝記的であり、広告的であり、新聞記事的であり、ともかく、文章のなかにひとが出てきたとしても、それが「ひと」として描かれることはない。感情の起伏をもたらすような表現やドラマがすべて切り捨てられていて、なにもかもが文章表面で発生する「現象」として、徹底した無機質さで描出される。

本人自身も「あんまり文章を書くのが好きじゃないんっすよねー」とインタビューでたびたび答えているのだけど、それはたぶん、かれ自身が「文章を書く」ということを「小説を書く」ということと等号でむすびつけて考えてはいない。もちろんどう作家があがこうとも最終的にはなんらかの手段で文章を書かねば小説は完成しない。しかし、文章を書くことから離れた場所から創作をみつめているぶん、(広義の)文章と小説の境界について、かなり敏感である印象をもっている。

 

日常で作られた小説をモチーフに日常を作る

小説「匿名芸術家」は青木淳悟のデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」(以下メルヘン)の外側をフィクション化した小説だ。この「メルヘン」がどんな小説かといわれれば、熟読したひとほど答え方に困ってしまうふしがあるのだけれど、ちょっと貧乏なひとりぐらしをする女性が、一駅離れたスーパーで買い物をしたり、チラシ配りのバイトをしたり、フランス語を習ったり、小説を書いたりする話。この「小説を書く」が語りにも大きな影響を与えていて、その創作の種になる日常は「チラシの裏」に「日記的」に記されている。しかし、日記が4日以上続くことはなく、いつも7月3日から7月6日までの4日をひたすら反復してしまう。日常の細かな描写の堆積が、自身の書く小説の破綻と重なっていく。

 「匿名芸術家」は、「メルヘン」の設定を物語の種にして描かれた「メルヘン」を書く小説だ。メルヘン内で語られるエピソードの「元ネタ」に当たるものが、作者「田中南(筆名)」の日常として描かれる。

青木に限らず、創作の多くは作家の日常のなかから着想が得られるという

「日常→小説」

という構造が、この小説では逆転し、

「小説→日常」

というように、小説をもとに作家像(そして彼女の生活)を作りあげる。だいたいにおいて、日常生活というものに大した意味はないし、作家の(それも無名の!)生活なんて単調きわまりないだろうし、おもしろいことはない。「日常を鮮やかに切り取った良作」みたいな小説はもちろん世の中に多いのだけれど、青木淳悟はそういうエピソードの連ね方は「配慮はしている」けれど「特にこだわってはいない」という感じだ。「メルヘン」という作品がエピソードに背後は確かにある。つまり「そこじゃない」。

エピソードとその背後に執着して「読み解こう」とすると、本作に限らず、青木作品を通読することはおそらくできない。それ以上に大事なことが「いま、文章でなにが起こっているのか」ということで、それは文章の背後ではなく表面で起こっている。

文章の背後を想起してしまう知恵を捨てて、いかに「あさはかに」読書をするかが、実はめちゃくちゃ大事なんじゃないか、とぼくは最近おもっている。

 

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