カプリスのかたちをしたアラベスク

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【感想(映画・小説)】「究極的にはすべて気のせいです」/アリ・フォルマンとスタニスワフ・レムの「未来学会議」

※このエントリーでは映画「コングレス未来学会議(アリ・フォルマン監督)」「戦場でワルツを(同監督)」と小説「泰平ヨンの未来学会議(スタニスワフ・レム)」の内容に関する言及を含みます。

 

コングレス未来学会議 [Blu-ray]

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泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

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50年後の映画を想像してみて

 今 アーロンがやっているのはそういうことだ

 製作者は観客に電気的な刺激を加え、

 個人の潜在意識を引き出すようになる

 外部から物語だけ与えられ

 ディートリッヒではなく自分の母親や恋人に演じさせる

 観客の脳内に合わせて変わるんだ

 アーロンはそういう状態だ」

 『コングレス未来学会議』より

 

想像というものは、世間と隔離された場所として個人的に所有できるただひとつの場所であるという安心が得られるのは、ぼくらが「想像する」という運動を外部的な手立てなしにおこなえるからなのかもしれない。知る、ということは特定の情報を脳が摂取することに他ならず、どんな知識も快楽も、その論理の上では薬物として摂取することで得られるはずだ。

 

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の神をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。

 ――村上春樹「ノルウェイの森」

 

 たとえばこの文章を読んでわたしたちがある特定の共通の風景を思いえがくことはできないけれど、それは村上春樹の文章がだめだからというわけじゃない。一般に文章は風景を緻密に再現できるように書かれているわけではないし、たとえどんなに書いてもわたしたちはつねにそれとはべつのものを想像したり、あるいはなにも想像しなかったりする。わたしはこの文章を美しいと思うけれど、そのときわたしはかならずしもこの文章が書きだしている風景が美しいと思っているわけじゃないように思う。この風景描写が美しい、たとえばわたしたちがそんなふうに言うことはたやすくことができてしまうはずで、わたしが問題にしたいのは、そのときわたしたちが美しいと思っているそれは文章それじたいなのか、それとも文章それじたいによってわたしのなかに想像された風景なのか、あるいは、文章それじたいによってわたしのなかに想像されなかった風景なのか、ということだと思う。

そのときわたしたちが想像しなかったものをわたしたちが愛するための装置|首吊り芸人は首を吊らない。

 

けっきょくは、ものを正しく見たり、あるいはみまちがえたり、恣意的な補完を行うことというのは、ふつうに生きることとテキスト化された生を生きることでおおきなちがいはない。それを科学の問題ととらえるか、実存の問題ととらえるかも究極的にはどっちでもいい話であって、だいじなのは、そういう世界が常に無数に吐き出され続けているということにある。

 

スタニスワフ・レムが小説「泰平ヨンの未来学会議(以下、泰平ヨン)」で提示した世界は、「すべての知的運動が脳によって認識される物理的な情報であり、それは化学薬品の投与により摂取できる」というもので、ぼくらがとうぜんとして抱いているものを打ち壊す、グロテスクなイメージだった。そのイメージはアリ・フォルマン監督による映画「コングレス未来学会議(以下、コングレス)」でも継承されていて、コングレスでは実写とアニメという映像的な区別をおこなうことで、現実と空想の明確な構造化がおこなわれていた。

 

アリ・フォルマンの描く生き死に

アリ・フォルマン監督といえば、過去作には映画「戦場でワルツを」がある。

戦場でワルツを 完全版 (字幕版)
 

この映画ではアリ・フォルマンの戦争体験をもとにストーリーが作られているのだが、「現実の描写可能性」についての試行錯誤がかんじられた。物語じたいはリアリズム作品の色がつよいのだけれど、切り絵的なビジュアル、数式で与えられたような幾何学的な模様を想起させるキャラクターの動きであり、「アニメ」であることが過剰に強調されているにもかかわらず、最後のシーンでは戦争によって命をおとしたひとたちの実写映像が流される。これはどうしても、フィクションという手法の否定が脳裏をよぎるし、アリ・フォルマンじたいがそもそも「フィクション」というものを全く信頼していないというようにもとれる。そして、現実の死とぼくらが直面することで、はじめて生を生きることを自覚させるような、認識レベルでのグロテスクがある。いうならば、「現実へ真摯なまなざしを向ける」行為にこそ、アリ・フォルマンは生を見出しているのかもしれない。

 

現実の所在

映画「コングレス」がレムの原作「泰平ヨン」と物語の筋以外におおきく異なっていることは、個々人がそれぞれ生きる幻覚のあつかいだった。

「脳が摂取する情報=世界」という等式のなかで、レムは虚実混交した世界をひとつの世界とみなし、所在ない現実を生きる結末を用意した。しかしアリ・フォルマンは過酷な現実(実写世界)を「生」、あらゆる苦痛から解き放たれた幻覚によりもたらされる空想(アニメ世界)を「死」と明確にわけていた。それは、ラストシーンにほどちかい、現実に戻ってきたロビンがもう二度と現実の息子と出会えないことを知るシーンに現れる。医者は、ロビンに幻覚(アニメ)の世界へ戻ることを勧めるが、それは同時に「やすらかな死」の推奨でもある。かれの語り口は、あなたはもうじゅうぶんに生きたのだから、もう生きなくてもいいんだよ、という風にもきこえてしまう。

たしかな現実さえもこの世界にはないかもしれない可能性を示したレムに対し、アリ・フォルマンはたしかに存在する「現実」をつよく肯定していて、そこからまなざしを背けた瞬間を「死」としている。

アリ・フォルマンの提示する世界はたしかに力強い「生」なのかもしれないけれど、しかしその生を生きることには、おそらくいかなる文学も芸術も必要とされないだろう。

 

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