カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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【感想】ひとには天国を見る視力がないのか〜秋の夜長に名作を/ダンテ「神曲」

今月は集中的にダンテの「神曲」を読んだ。

 

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

 
神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

 
神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

 

 

ダンテの神曲といえば、大学受験生であればルネサンス文化史で「トスカーナ地方の方言で書かれた」ということをおさえてはいるだろうけれど、その内容について知っているひとは意外と少ない。

ただ、現代においても世界的な評価はいうまでもなく高く、ロンドンの「タイムズ」紙によれば、『過去1000年の最高傑作は何か』というアンケートで堂々の第1位に輝いている。これはアンケートの対象となった集団の宗教的偏りも多少は影響していそうに思われるけれども、そもそもこの世界自体が宗教的に偏っている事実を考えるならば大した問題にはならないだろう。ともあれ、名作名作とうたわれる文学のだいたいは読まれていない。なんでも、イギリスの学生が最も読んだ"フリ"をする小説の第1位はオーウェルの1984だっていうネタもあるくらいだから。

 

以下、神曲の内容について。

 

3篇と100の歌

そもそもこの詩篇は、ダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて「地獄」「煉獄」をめぐり、煉獄の山の頂上でダンテが偏愛する(!?)女性ベアトリーチェに誘われて「天国」をめぐるという1本の物語がある。そしてその物語のなかで、ダンテは古代の偉人やちかしい友人、神々とことばを交わしてこの世界の真理を垣間見る。

ちなみに「煉獄」というのは、地獄に落ちなかった死者が天国へ登るために魂を清める場所。ここで七つの罪を清めることで天国への道は開かれるのだという。キリスト教のなかでも宗派によってはあったりなかったりするらしい。

 

聖書と神話と現実が混交した世界観

神曲の主人公はダンテ自身であり、それゆえにダンテが生きる世界が極めて主観的に描かれている。

この「主観的」というのは、この物語の世界に「何がある」のかという配置に顕著に現れる。例えばまずキリスト教の絶対に支配された世界観であることは前提に、古代ローマの偉人の大半は洗礼を受けなかった(=キリストを知らなかった)ために地獄の入り口にいて、過去の法皇たちも実名で登場する。そしてダンテの好き嫌いによって地獄に配置されたり天国にいたり、自殺者でも地獄に落ちずに煉獄の門番をしていたりする。それでも独善的に陥っていないのは、ギリシア神話の怪物が登場したり、現実の事件への言及が多くあったり、とにかくキリスト教を主軸としているものの、キリスト教の外側も積極的に取り入れいる点なのかもしれない(イスラム教に関しては悪魔の象徴として描かれているが)。

ただ、やはり普遍的なものとは己の外側にだけあるわけではなく、深い自己の内を見据える力強さによって普遍への道が切り開かれる。地獄の門の前で亡霊たちの耳を聾さんばかりの呻きを聞くダンテとウェルギリウスの会話が、その示唆をしている。

私がいった、「先生、いったい何に苦しめられて

 ああひどく彼らは泣き喚かねばならぬのですか?」

 「おまえにそれを簡単に説明すると、

こいつらには死の希望さえないのだ。

 その盲目の生活は実に低劣きわまるから、

 それ以外ならどんな運命でも羨ましく見える。

現世はこうした奴らの名が世に伝わることを許さぬ。

 慈悲も正義も奴らを馬鹿にする。

 彼らについては語るな、ただ見て過ぎろ」

 

地獄篇,第3歌より

この箇所で呻く亡霊たちは、神の信仰を持たず、自らの存在のためだけに死後も生きようとする「邪悪な」魂だ。そして引用した会話がなされる情景を思い描くと、ダンテ(=読者)は、この呻きに耐えずさらされながら地獄を進まなければならないことを忠告しているように感じられる。地獄とはどこだろうか。「ダンテがこれからどこへ向かうのか」ということが実はとても興味ぶかい。ウェルギリウスとの会話では「死後の存在」にとらわれることでは決して救われないことを意味している。求められているのは「存在を捨てて、無になること」だろう。ダンテの旅を「無への旅」というように捉えると、これが神曲全体にわたって、その思想がことばの身振りとしても現れてくる。

 

けっして視認できない天国の情景

神曲は見かけは3部構成だけれども、本当は2部構成のように感じられる。この世の常識にとらわれないとはいえ具体的に緻密に記述される「地獄篇」「煉獄篇」と、上述の「ことばの身振り」が明らかに変質する「天国篇」には明らかに一線を画したものがある。事実、天国篇の序盤ではこんな記述がある。

おお君たち小さな船にいる人よ、

 君たちは歌いつつ進む私の船の後から、

 聴きたさのあまりついて来たが、

君たちの岸を指して帰るがいい、

 沖合に出るな。君たちはおそらく

 私を見失い、途方にくれるにちがいない。

 

天国篇,第2歌より

 これは読者への天国篇の難解さを訴える記述として一般に知られている。

天国篇がなぜ難しいか。その理由は上記で引用した箇所の次の一文に現れる。

私が乗り出す海はかつて人が走ったことのない海だ。

 

天国篇,第2歌より

つまり、天国の風景は人には見ることはできない。そして同様に「人が思い描ける(具体的な)天国の情景」はここから 存在しないということを示している。事実、天国篇には「情景」というものは存在しない。ひたすらクソ偉い人が説教を垂れて、せいぜい光がピカッとひかるくらいだ(←これは乱暴)。

そしてペテロに「信仰とは何か?」と問われたダンテはこう答えるに至る。

信仰とは望みの実体であって、

 まだ見ぬものの論証であります。

 

天国篇,第24歌より

目に見えるものと見えないもの、それが逆転する場所として天国がある。

肉眼的には天国は「無」かもしれず、天国にいる限りは物質的な欲望など無意味になるのだとすれば、天国こそが地獄以上に死の象徴であるようにおもえてしまったぼくは、やはり俗物すぎるのだろうか? 

 

秋の夜長には名作を

読書の秋なので、みんな普段よりちょっと背伸びをするくらいの読書をしようぜ!

 

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