カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
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ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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不在の「ヤックデカルチャー」/アニメ「マクロスΔ」の感想

※このレビュー・エントリーはアニメ「マクロスΔ」のネタバレを含みます。

 

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ここのところおもうように書きものがすすまなくて、気分転換に撮りだめしておいたマクロスΔを一気にみた。とうぜんのようにアニメとしての魅力をたくさんそろえていて、苦痛もなくあっというまに視聴できた。お風呂のなかで「一度だけの恋なら」とか歌ったりもした。

 

でもやっぱり、このおもしろさは表面的なおもしろさにすぎず、傑作というにはいくつも不足しているものがあるようにおもわれた。嫁氏は「後半があまりにもとっちらかってる」といっていて、そうかもしれなかった。けれどぼくのおもうところはもっと別のところにあって、この物語の最大の長所が物語ぜんたいの自由さを損なっていたり、真に迫るべきとおもわれるものをみつめていないという問題を浮き彫りにしているとどうしてもかんじられてしまう。きょうはそのことについてかいてみる。

 

 兵器としての歌、そして「表現」

まず、この作品のいちばん優れているとぼくがかんじたものは、とにかく「戦術音楽ユニットワルキューレ」というものの存在だ。

4人組(のちに5人)のアイドルユニットだけれども、これはマクロスにおける「歌姫」を安直に展開したものではなく、あきらかにマクロスの文脈における必然がもたらしたものだとかんじた。

それは「戦術音楽ユニット」ということばが象徴している。

これまでのマクロスでは、歌は〝結果的に〟戦いの結末にかかせないものとして機能していたにすぎなかったけれども、マクロスΔでは物語の開始当初から歌に兵器としての意味づけを自覚的におこなっている。これによりワルキューレはマクロスの文脈の最先端を物語の最初からたくさん引き継いだかたちで歌いはじめることになり、戦うことと表現することのキャラクター内での葛藤が顕在化される。

事実、この「戦い」と「表現」の葛藤は、ヒロインであるフレイアだけでなく、飛行機乗りとなったハヤテにもあらわれる。ハヤテが所属するデルタ小隊はワルキューレの護衛のみならず、いわば「バックダンサー」的な意味付けもなされている。そして隊員それぞれにも多かれ少なかれ「飛ぶ」ということに対して「表現」という価値観をつよくもっている。歌姫と飛行機乗りが「表現」という価値観を共有することに、マクロスΔの最大の魅力とオリジナリティがかんじられた。

それをとくにつよく象徴するのがフレイアの歌に自由を得たハヤテがみせる「インメルマン・ダンス」だ。生にみちたうつくしい惑星の空で歌声にあわせて機体が踊る光景は、マクロスの到達点なんじゃないだろうか。ぼくはこの光景をみれた物語前半にとても感動した。

 

消えゆく「ヤックデカルチャー」

しかし物語が進むにつれ、表現が戦いによってうばわれていく。

なにかと風風風風うるさいウィンダミア王国の「風の歌い手」と「ワルキューレ」の歌を主軸とした戦いはさまざまな要素によって複雑化していく。そして最終的にはワルキューレのエースである美雲が、「星の歌い手」なるものの遺伝子からつくられたクローンであることが発覚し、それをウィンダミア軍を指揮するロイドに利用され、銀河のひとびとを美雲の歌を通じてひとつの集合知性体へと進化させる計画が発動しはじめる。これはほとんど前作「マクロスF」とほぼおなじながれにおもわれる。

このストーリーの流れは同時にマクロスFの最大の欠点をも引き継ぐことになってしまっているようにおもわれた。

マクロスFやマクロスΔの世界では、歌が戦闘に不可欠である理由が科学的に証明されている。マクロスFでの侵略者となったバジュラはバジュラの遺伝子をもつ人間の歌声に反応することがあきらかになり、それにより人類はかれらとの和解(?)にいたった。マクロスΔにおける「ホールドレセプター」は、ヴァールシンドロームという人間を凶暴化させる現象を歌により沈静化することができ、それはバジュラが宇宙にのこしたものにあたる、と終盤で明かされる。

つまり、マクロスFとマクロスΔでは歌そのものが真に兵器としての意味をもつわけではなく、あくまで特別な人間がもつ物理的な挙動が戦いのなかで意味をもっているにすぎない。極論をいえば、マクロスΔでは歌なんかなくても生体ホールド波の効果が発現している状態をつくりだせることができれば問題はない。こんなことをいってしまうと元も子もないのだけれど、マクロスFやマクロスΔでは、歌というものは究極的に意味などもっていないとぼくはおもう。

この元も子もないことが、マクロスという作品系の根本的な価値におおきな疑問を投げかけている。それが「ヤックデカルチャー」である。これはいったいどこへいってしまったのだろうか。シリーズをかさねるにつれ、作品内での科学技術は進歩している、けれども歌はどうだろうか?ヒロインの歌声に科学のメスがはいって、それで歌が物質的なものになってしまうかもしれない可能性にどうしてだれもなにもおもわないのか。マクロス7とくらべたらちょっとどうなのかとおもう。ホールドレセプターというとくべつによってしか歌が兵器になりえないのだとすれば、それは「ヤックデカルチャー」の否定になるとぼくはおもう。そしてマクロス作品のなかでぼくという視聴者がいちばん期待するものは、この「ヤックデカルチャー」の一瞬以外にありえない。

 

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