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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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意味という総体、あるいは「なにか」が起こるということ/短編集「大聖堂」(レイモンド・カーヴァー)

読書 日記 育児

一週間にいちどは病院にいっている。

息子が保育所から風邪をもらってくるからだ。そのうえ各種の予防接種のかねあいもあって、風邪をひくたびに延期になる。風邪、予防接種、風邪、みたいなかんじでここ一ヶ月、毎週病院にいくはめになったというわけだった。

今週は格段にさむくなった。息子にも長袖を着せることにした。なにかと歳のちかい親族が多い家のせいか、服には困ることがない。西松屋で買ってきただろう普段着はあっちこっちからなにもしなくてもあつまってくるし、なかには出産祝いだろうラルフローレンの服も紛れている。三年か四年に一回アウトレットでしか服を買わないぼくよりもはるかにうちの息子はおしゃれだったりもする。が、さむくなった瞬間にばっちり風邪をひいた。いつもいくお医者さんは通っている保育所の担当医でもあって、

「あそこの子たち、みんないっつも鼻垂らしてますね」

といって苦笑いしていた。

 

いわゆる「バカは風邪をひかない」

さすがに毎週毎週病院にいくというのは多いのではなかろうかとおもったけれど、お医者さんや友だちがいうに「そんなもの」とのことらしい。そういわれてみれば、免疫もクソもない赤ん坊は、風邪をひいてあたりまえといえばたしかにそうだという気がする。なにかの本かブログかは忘れたけれど、ちいさいころによく風邪をひいていると、小学生以降めったに風邪をひかなくなるらしい。うちの息子はとにかく寝相がわるく、かけたふとんはすべからくけっとばすし、どんなに熱をだしていても力のかぎり一人遊びをする(おとなしくねむっていればいいのに……)。うつろな目でつかまり立ちをしてわーきゃーさわいでいるかれをみると、たぶんもうすこしおおきくなると風邪などひかなくなるのだろう、という不思議な安心も、不安のなかにあるといえばある。なるほど「バカは風邪をひかない」というのはたしかにそうかもしれないという、ほんのすこしの納得。

 短編中心の読書

そういうことで、最近は子どもにつきっきりの日がおおいこともあって、それにあわせて読むものも短編が中心になっていた。そしてきのう、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」をよみおえた。そうじておもしろかった。とくに「羽根」と「ささやかだけれど、役に立つこと」がすばらしかった。

 

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

カーヴァーはとにかくクレバーな作家だとおもった。とにかく無駄のない小説を書き、作品内で「なにが起こっているか」につよい自覚をもっている。その簡潔で指向性の高い文章というのは、このブログでもなんどもとりあげたのだけれど、ほんらいのぼくの好みとは対極の位置にある。ぼくは無駄がすきだし、意味というものからできるだけ遠ざかった場所での語りというものがなによりもたいせつだとかんがえている。それでもぼくはカーヴァーの作品がすきだとおもえた。

じつはぼくのなかにあるこういった矛盾というのに、ぼく自身もずっとまえから気がついている。でも、矛盾というものにかんがえを進めていくというのはすごくおそろしいことで、できるかぎりさけてとおりたいものだ。カーヴァーの作品は全体を俯瞰してみるとあくまでなにかひとつの意味のかたちをしているようにおもわれるが、完全な意味になることをかわしている。というのも、カーヴァーの小説の語り手は、たとえ一人称であっても物語のなかでなにかをもっていることもなく、主人公ですらないからだとおもう。物語は語り手の身体の外側から常にやってきて、語られることで語り手をするりと通り抜けていく。そして、意味、という総体はこの過程で見出されるものだった。カーヴァーは意味を拒んでいるわけでもなく、また求めているわけでもない。ただ勝手にあらわれた物語を、語るということで認知し、立ちあがった意味をもあるがままに受け入れている、ただそれだけだった。この淡白さが、きわめて清潔にかんじられた。そしてそれは小説というかたちをとること、ひいては語りというものについての自由そのものだとおもう。意識的な編集はもちろん避けがたくなされてしまうけれど、それはいかに物語を見せるかというよりは、物語を探す行為といったほうがおそらくはちかいだろう。ただ友だちの家に遊びにいく、子どもが事故で死ぬ、電話がかかってくる、そういった(究極的には)ささいな物事ですら丹念な語りがもたらされることで語りのないものとはまったくちがう現象としてぼくらは日常に異質さをえることができる。そういう手触りというものは、おそらくぼくがもっともこのんでいる小説群とおおきなちがいはないようにおもわれた。

 

薬をのんだ息子がいまねむっている。ぼくのよくないところは、そういうことにすらかんたんに慣れてしまえることなのかもしれなかった。

 

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