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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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【文学ってなに?】ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞についてどうして批判するひとがいるのか?

日記 読書

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先日13日に歌手として世界的な人気を誇るボブ・ディラン氏のノーベル文学賞の受賞が発表された。その受賞理由は、

「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」

とのことらしい。ボブ・ディランのような歌手の受賞には前例がなく、ネットを見回してみるとちらほら否定的な意見が見られる。

news.livedoor.com

このデヴィ夫人の否定意見はさっきたまたまTwitterで流れてきたものだけれども、そもそもこういう意見が出てしまうというのはどういうことなんだろうか、と素朴におもった。ぼくにはわからないし、その原因についてもかんがえるつもりはない。

きょうは、ノーベル文学賞とか文学ってなんだろうってものをかんがえてみることにする。

※このエントリーではノーベル文学賞というものについてのみの言及にとどめ、ボブ・ディランの文学性についての言及は行いません。ご了承ください。

 

ノーベル文学賞は「作品」でなく「ひと」に与えられる

そもそも、ノーベル文学賞は数ある文学賞のなかでもかなり特殊な賞だ。ほとんどの文学賞というのは作品に与えられるものなのだけれど、ノーベル文学賞は作品でなくひとに与えられる。ノーベル文学賞のことをかんがえるうえで、これを見落としてはならないとおもう。

学問はなにかひとつの仕事によってなされる点的なものではない。学問は多数の点が集合をなした線的なものだとおもう。そして作品というものはいうまでもなく点的なもの、そして集団であれ個人であれ営みと呼べるものは線的なものになるだろう。文学という分野において、特定の小説や詩に関する点的な評価をなされる場は非常に多くある。文学という概念は線的なものだ。もちろん、特定の作品単体が点的であるがゆえにそれを文学と呼べないなどということはありえない。ある作品をぼくらがなんらかの文学と呼べてしまうのは、それまでに文学を作った多数の先行作品の文脈があるからだ。その文脈というのは多数の実作者だけでなく、それを丹念に批評・体系化するひとたち、そしてその作品を愛するひとたちが作品を後世にのこそうとする意志、そういう数えきれないひとびとの営みによって存在し続けている。それゆえに、現代では実作者はなにかの作品を作り上げることで何らかの文脈のうえに(望む望まざるに限らず)自身の位置付けが可能になっている。

そしていわゆる「偉大な文学者」というものは、その文脈をほぼ独力で作りあげることができてしまったひとのことを指すのだと、ぼくはおもう。単なる読み書きにとどまらない、文学の実践。おそらくノーベル文学賞というものは個人の線的な営みを世界文学の立場で価値付けを行う唯一の賞だとおもう。

 

「文学」とはなにか?

ぶっちゃけ、「◯◯とはなにか?」という慣用句を見るたびにもう辟易しちゃうぐらいなのだけれども、けっきょくのところ、ボブ・ディランの受賞に賛否が出てしまうのはひとによって文学観が個々に異なっているからだ。

たとえば先に挙げたデヴィ夫人の主張する文学観はこんなかんじだ。

文学とは「何百ページのもの」「非常に高貴な流れ」「場面、場面が表現力が素晴らしいもの」「読む人は頭の中に情景を描く」ものなどと、とらえているからだという。

引用:http://news.livedoor.com/article/detail/12150232/

他人の文学観をどうこういうつもりはないけれど、個人的にはこういう意見をためらいなくいえてしまうことにはため息がでてしまう。ただどれだけ優れたものにせよ稚拙なものにせよ、文学賞についてを文学観なしで語ることは不可能だろう。熱心な読書家にしろ、本をあまり読まないひとにしろ、「え、ノーベル文学賞にボブ・ディラン?」と少しでもおもったひと全員が、大なり小なりの文学観を持ち合わせている。ぼくは「文学」というもののおもしろさはここにあるのだとおもう。

ここで日本の文学賞の話になるけれど、前回の三島由紀夫賞は元東大総長の蓮實重彦氏の「伯爵夫人」が受賞した。これはこれでパンチの効いた記者会見が話題にもなったが、この時の候補になっていたもので山下澄人氏の「鳥の会議」という作品もある。山下澄人はたしか候補になったときに「元東大総長と高卒が隣に並ぶなんて病院か文学でしかありえない」といった。

文学の良さのひとつは、この「誰にでも門戸が開かれている」という風通しの良さだとおもう。そして同時に、あまりにも多くのひとが自由に出入りでき膨大な作品数や形式、実験が溢れかえっているがゆえに「文学とはなにか?」というものにだれも明確な解答を出せないでいる。おそらくはこの「文学とはなにか?」というものへの個人的な解答こそが文学観にあたるのだろう、しかし、文学という線的な営みは自身のなかの既存の文学観を更新しようとする行為でもあったりする。だから果てしない試行錯誤と、解答の保留ばかりになってしまう。

定型を打ち破り、過去になってしまう時代から抜け出さんとする実践を評価するためには、評価する側にも同様の運動があってしかるべきである。おそらく、小説だの詩だの、歌だの漫画だの、そういう表現形態云々は表層的な問題でしかない。

今回のボブ・ディランの受賞については、「文学とはなにか?」という根源的な問いかけがあらためてなされたという意味で大きな価値があるとおもう。そして、その「なにか」を考えることで、文学の実践がより身近なものになるのなら、それ以上によいことはない。

 

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