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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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貧困とヒマの創出

ライフハック

貧乏ヒマなしとはよくいうけれど、貧乏であろうが金持ちであろうが、ヒマなひとがヒマだし忙しいひとは忙しい。

慣用句を無条件に受け入れたいいわけから外に出て、そんなあたりまえのことに気がついてみれば時間とはなんて平等にあるのだろう!とおもったりする。豊かさとは、忙しくしたいとおもうときに忙しくでき、ヒマにしたいとおもったときにヒマにできる、そういう融通のことだとぼんやりおもういま、ぼくは発注を受けた仕事のことをかんがえることをいったんやめて、ヒマをしている。豊か!

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お金がない、ということ

いろんなことはそう甘くはないのだと知ることと、そういう現実に身をおくことはぜんぜん意味がちがってくるのだけど、これまで約30年の人生において、ぼく個人は常にお金がなかったような気がする。大学院生のときや会社員のときなど学部生のときやいまなんかよりはずいぶんお金を持っていたとはいえ、それでも同世代の平均年収を下回る。が、じぶんのなかでの「比較的」金持ち時代というのは、なにかとつまらない散財を繰り返していたようにおもうし、いまでさえその名残として「くっそストレスが溜まったら加古川名物かつ飯を食う」ということをやめられない。完全に負の遺産となる習慣で、これをなくすためにはもう現金やカードを持ち歩くことをやめてしまうしかない。

 

いっぽうで、むかしをふりかえってみるとなぜあれだけお金がなかったというのに、飢えにくるしんたことというのはない。もちろん、ほんとうに食べるものがなくて学食のお茶しか飲まなかった時期もあるのだけど、なにかにつけてたすけてくれるひともいた。先輩のバイト先にいってかれのまかないをめぐんでもらうために、京都市の左京区から下京区までチャリを転がしたり、のちに嫁になる彼女が実家から野菜を持ってきて料理をつくってくれたりもした。これはほんとうにありがたいことなのに、当時のぼくはどこか「そうしてくれることがあたりまえ」だとおもっているふしがあった。なんという傲慢。

 

が、お金がない、という状況は独身であるあいだは総じてたのしかった。じぶんの家族ができると話はまったく変わってくるのだけれど、とりあえずお金がないとあれこれかんがえる。まあ、どれもクズみたいな発想にはかわりないのだけど、そのクズみたいな発想をおもしろがってくれるひとが、ぼくのこれまで生きてきたなかでは意外とおおい。会社員時代というのは、かんがえることをしなかったし、なにか嫌なことがあればお金を使っていた。読みたい本があればためらいなく買ったし、昼飯もちょっといいものを食べたいときはちょっといいものを食べた。飲み会もスピリタスをいろんなジュースで割って低コストで自宅で行うなんてせず、仕事終わりに居酒屋へ入った。

えてしてそういうものはつまらない。

コミュニケーションというのはたぶん、表面上の身振りや会話のみで行われるのではなく、おそらくひとがいて、そこでなされる一過的な発想のなかでつよくおこなわれるような気がする。仕事の愚痴を吐き出すことにたいして否定もする気はないし、必要なことだとおもうけれど、貧困が生む切迫した発想にはとうていかなわない気がする。そしてその発想は、ヒマをしているときにこそ生まれる。何日とか何時間とか、そういう長さのヒマじゃなくても、一秒でもいいから、ヒマである、という状態をじぶんでいかに創出できるか。お金があると、あんまり「ヒマ」をつくろうとしなくなる。ヒマを嫌って、生活をなにかと意味で満たそうとしてしまう。

 

そういえばゴダールの「さらば、愛の言葉よ」では「想像力のない者は現実へと逃げ込む」といっていたけれど、そういうこともあるかもしれない。

 

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