カプリスのかたちをしたアラベスク

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創作に孤独が必要十分だという奴は21世紀を生き残れない/「ガーリッシュナンバー」「俺ガイル」の考察補足

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先日、KAI-YOU.netさまに現在放映中のアニメ「ガーリッシュナンバー」と渡航の出世作品「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(以下『俺ガイル』)」についてのレビュー記事を寄稿させていただきました。

 

kai-you.net

 

 

お話をお受けして、初稿を書き上げた段階では実は論旨にまとまりがなく、担当の編集さんに何度もアドバイスを受けて、何度も書き直しをしたこともあって割と思い入れのある記事になりました。

最終版(=公開版)ではうまく着地できたかな、と思う反面、やはりちょっと「意味すぎる」と感じないでもなく、それについては自身の力不足を感じています。

いままで今回のような批評の色が強めのアニメ記事を書くと、必ずと言っていいほどいわゆる「アニメ警察」の取り締まりを受けていたのですが、今回はあまりそういうこともなく、Twitterとかエゴサしてみると好意的に受け取ってくださった方がちらほらいて、それがとても嬉しかったです。ありがとうございます。精進します。

 

この記事では寄稿記事の補足、というほどでもないのですが、というよりも渡航からも離れた内容になるのですが、「創作」と「孤独」についてちょっと考えてみたいとおもいます。

 

目次

 

ぼくらは果たして何を食うのか?

まず、以下の文章についてぼくはアイドルにしろ声優でもお笑い芸人でもなんでもいいのだけれど「人前に出る人気商売全般」を便宜上「アイドル職」と呼ぶことにする。

寄稿記事「渡航は幻想を信じない」で、ぼくは最終的に主人公・烏丸千歳と大衆の関係を「カニバリズム」ということばをあてがった。何というか、どれだけ忙しかろうと暇だろうと、そういうことに関係なく日々何らかの営みをしている以上、「消費」という概念から逃れることはできない。経済とかビジネスとか、そういうものに詳しいわけじゃないけれど、これらの発展というのはまちがいなく消費によって促されている。

そして経済やビジネスは「消費により発展を促される」という事象の一例でしかなく、消費ということばで解釈が可能なおそらくはすべての事象は、やはり消費により何らかの発展を「してしまう」のだとぼくはおもう。

『ガーリッシュナンバー』を見て直感したのは、「欲」と「消費」だった。

もちろんこの「欲」ということばもまた「消費」ということばと同じレベルで一般化された概念であって、大衆目線で該当するものとアイドル職目線の具体的な次元ではいささか異なっている。『ガーリッシュナンバー』でいえば、大衆は「娯楽」を、千歳は「承認」を求めていたようにおもう。そしてその欲を満たすためのベクトルは互いの方を向いていて、ぼくがいった「カニバリズム」とはこのような図式を指していた。

この議論を先に進めるのならば「果たして大衆と千歳はそれぞれ”何を”食うのか」という展開になるだろう。そして大衆が具体的に声優のイベントや出演作品・作品内のキャラクターに耽溺すること”だけ”を消費というのはいささか乱暴すぎる気がする。

ネットが当たり前になって、ブログやSNSによって大衆とアイドル職の距離というのはこれまで以上に近くなった。

ステージの上や作品の中でしか知ることができなかった、「アイドル職をつとめるわたし」という顔が見えるようになって、「アイドルに共感する」ということに違和感がなくなった。ぼくはこの「アイドルに共感する」ということに狂気的なものを感じる。うまくいえないけれど、これが大衆の欲望を肥大化させているんじゃないか?

ちなみに欲望の肥大化については、第111回文學界新人賞受賞作「ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ(吉井磨弥)」ほどうまく描けているものはないんじゃないかっておもってる。

この小説の主人公は音楽という夢を持っていたデリヘル嬢で、様々なクセを持つ顧客の性的な欲望やそして自分自身の表現欲をすべて飲み込むようにメシを食い、猛烈に太っていく。(具体的な作品を他に思い出せないけれど)2010年前後の当時は「食べる」ということと「欲望」や「消費」を隠喩的に重ねた創作をよく見かけた。ぼくはそういう作品はもう「やりつくされてしまった」ように感じたのだけれど、『ガーリッシュナンバー』を見てそうでもないような気がした。

 

いまやぼくらは孤独にすらなれない

特に小説とかがそうなんだけど、創作においてほとんど無批判のまま肯定されている概念が「孤独」だとおもう。

去年と今年の文藝賞の選評やインタビューでも保坂和志や藤沢周といった作家が「孤独の必要性」を主張したり、「作家は孤独だ」といったコメントが見られる。

さいきんぼくはこの「孤独」に対して批判的なスタンスを取っているのだけれど、ぼく自身の過去の記事を読んでいると最果タヒの文章の感想に「孤独は必要」など書いている始末。

読み直して、過去にじぶんがいったことを訂正する気はなかったし、たしかに「孤独は創作に必要」という考えを持っていた頃の文章の方がいまよりもはるかに良いので、きっとそうなのだろうとはおもう。だけど、「孤独」に対して無批判でいることはかなり気持ちが悪い。

創作と孤独について、誰だったか忘れたけれど(なんとなくこのひとかな?と見当はついているけれど誤情報だったら嫌なので書きません)、それは「文章を書くということが物理的に独りでしか行えない行為であるから、創作は孤独なのだ」という主張をしていた。たしかにそうだとおもうし、同意する。ぼくはものをいかに捉えるか、どのような思考が生まれるかというのに「ペンの問題(=物理的な拘束条件により生じる影響)」は絶対に考慮されるべきだとおもうし、「じぶんの筆跡すらじぶんには真似をできない」というような、主体を取り巻く環境さえも「ペン」として機能するという円城塔的な発想は、もっと深く議論されてしかるべきだとおもう。

 

そして「環境もペンである」という風に解釈を拡大化することで、ぼくははじめて「ほんとうにぼくらは孤独なのか」という問いを見出すことができる気がしている。

ペンは増えた。ぼくは小説をiPhoneで書くし、作業中もTwitterのタイムラインは結構すぐに目に付く場所にあったりする。もちろん、「小説を書いている瞬間」というのはやっぱり小説以外のすべてから物理的に切り離されているし「孤独」ではあるとおもう。しかしそれはあくまで「小説を書く」という行為に特化したものでしかない。

小説を書かかず、そしてTwitterなどのSNSのヘビーユーザーを想定したとき、ぼくは話が随分と変わってくる気がしている。タイムラインが流れるそばで短い文章を書き、書いたそれは即座に不特定多数の文章に紛れ込んでいく。タイムラインはうっすらとつながりが見える空中リプで満たされ、それを感じ取ってしまうことで不安になったりしてしまう。そういう物理的には他人と切り離されていながらも、特定の文脈において人とつながること余儀なくされてしまう感覚というのは、果たして「小説(創作)にとって考慮するに値しないこと」なのだろうか? ぼくは2010年以降に「小説家が孤独だと主張し、その孤独と向き合い、小説の推進力とするという考え方」をする作家の思想は、議論する価値もないくらいに古臭く、くだらないとおもう。現代において、ほんとうにもっと考えられるべきことは「孤独である」というナルシズム混じりのくだらないアイデンティティ論なんかじゃなくて、「孤独にすらなれないという自覚」なんじゃないだろうか?「孤独にすらなれない」ことと「創作する」ということは、ここでぼくが書いてきた文脈では相反するものになってしまう。しかしそれはあくまで「小説を書く人間(創作する人)」にとってのみの話で、一般性などどこにもない。だからこそ難しいし、真剣に取り組まれなければならない、なんてことを書いている。

 

ともあれ、そういうことを『渡航は幻想を信じない』の原稿を書きながらぼんやりと考えていた。

 

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