カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


第156回直木賞・2017年本屋大賞受賞「蜜蜂と遠雷(恩田陸)」/「スポ根」と「天才信仰」

※このエントリーには恩田陸による小説「蜜蜂と遠雷」(第156回直木三十五賞・2017年本屋大賞受賞作)の内容に関する言及があります。

 

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

 

 

むかし、無伴奏バイオリンソナタ第1番(フーガ)のレッスンを受けていたとき、先生に「煽情的なバッハはひとりよがりだよ」と注意された。

厳格な理論に基づいて構成されたバッハの音楽を、無知のまま演奏することは恥というよりもむしろ損といったかんじがする。たとえばギタリストにはおなじみの曲、BWV998のプレリュードは緩慢な低音の上に、素朴な単旋律が乗っているだけに見える。しかし、多声音楽という目をもち、調性の動きに耳を澄ませると、単旋律のなかにいくつもの別の声を見つけ出すことができる。あくまでそれは先生とぼくがレッスンのなかで行った解釈でしかないけれど、しかし楽譜や音楽理論によってもたらされる限定的な状況というのは奏者の外部に広がっていたりする。それからこんなこともいわれた。

「厳格な理論に基づくからといって、バッハの音楽に感情がないなんてことはありえない」

 

こんなかんじのぼくの思い出は、クラシックギターをわりとまじめに弾いていた10年ほど前のことなのだけれど、小説「蜜蜂と遠雷」で主要人物の少年が演奏した平均律クラヴィーアが「煽情的」と審査員にコメントされるシーンを読んでいるときにおもいだした。この小説は、とある国際ピアノコンクールの出場者(コンテスタント)の群像劇として構成されている。

コンクールに出たことはないけれど、ピアノであれギターであれ、バッハの曲はテクニックはもちろん、音楽に関する理解、あるいは理解しようとする態度がもろに出てしまう。そういうわけで、へたに人前で弾くことは躊躇してしまうのだけれど、洗練されたバッハ音楽に傾倒するひとはプロアマ問わず少なくない。ロマンティシズムに陥ったバッハはよく多声性を失ってしまって、甘ったるく平板な音楽になりがちで、煽情的と評されるバッハで意見が割れるという状況はぼくにとってはかなり不可解だ。この不可解というのはフィクションの醍醐味でもあって、実は結構気に入っている。

 

この小説は読み方次第で(それこそ楽譜のように)解釈が大きくことなる作品のようにおもえる。そこが読んでいておもしろかったことだ。

白状すると、ぼくは「音楽小説」であるとはおもえなかった。

むしろこの小説は、「テニスの王子様」「ちはやふる」といった、スポ根作品の系譜にあたるものなんじゃないかとおもっている。今日のエントリーはひとことでいえば、この主張に尽きる。

最初に「音楽小説」と「スポ根小説」について便宜上、以下のように定義しておく。

音楽小説:音楽という表現が中心にある小説

スポ根小説:勝ち負けが中心にある小説

 というわけで、以下では小説「蜂蜜と遠雷」をぼくがどう読んだかを書いていく。

 

音楽という競技

まず、ぼくがこの小説を「スポ根だ」といったのは、コンクールという舞台設定がすべてであるといっておく。通常、音楽において勝ち負けという概念はないのだけれど、コンクールとなると話は変わってくる。奏者ひとりひとりになんらかの基準でひとつの座標を設定し、得点を与え、そして順位をつけなければならない。コンクールはそういう音楽のありかたとしては「異質な」性格を持っていて、その状況を舞台にしたこの小説は、この異質さを物語の核として持つことになる。

ひとことでいえば、この小説は「勝ち負けのなかで音楽をする」ということを強いられる。

コンクールにエントリーした4人の主要登場人物たちは、このことをしっかりと理解し、受け入れている。そして物語のけん引力は「かれらはどのようにして勝利するのか(=かれらはどのような演奏を披露するのか)」というものになる。これはほとんど王道のスポ根マンガの展開とほぼ一致する。このような構造のために、この小説はかなり表現について意識的に思考しながら読まないと、どれだけ音楽小説だとおもいこんで読んだとしても、スポ根小説として読まされてしまう。それが小説「蜂蜜と遠雷」の力強さがだろう。

ただし、4人の主要人物のなかで唯一凡人として描かれる妻子持ちの最年長コンテスタントの明石以外の3人は、勝つことにほとんど執着していない。かれらはコンテストのなかで互いの音楽に共鳴し合い、それぞれの音楽を見出すことに価値をおぼえていて、そのスポ根的価値観からのズレが作品の上品さであり、スポ根特有の汗臭さを洗い流してくれて、さわやかな読み心地にしてくれる。

二段組み500ページというボリュームなのに、いやらしさがない。なにも考えずにどんどん読めて、さわやかに読み終われるところがこの小説の最大の長所におもえた。

 

音楽への無批判の賞賛と天才信仰

ただ、ぼくにとってこの小説を「音楽小説」として読むことは、かなりの苦痛を伴った。

あまりにもデフォルメされすぎたキャラクター像や、ベッタベタな展開などおもわず苦言を呈してしまうことはたくさんあるけれど、一番受け入れがたいと感じたのは、

「音楽=人間性」

という描かれ方が当然のものとしてまかり通っていることだった。

「蜜蜂と遠雷」だけでなく、キャラクターの人格と演奏を等価なものとして描く物語は小説・マンガ問わずたくさんある。たしかに音楽をフィールドにした物語において、キャラクターの演奏というのは個性そのものになる。だけどそれは音楽というものが、そのキャラクターの所有物以上でも以下でもないものにしてしまい、宇宙だのなんだの持ち出して描写したところで、音楽そのものが人間を超えていくことはなくなってしまう。「音楽小説」として音楽を描くならば、音楽が人間の手元から離れていかなければならないとおもうのだけれども、なぜこんな「暴挙」が無批判にまかり通っているのかと首をかしげたくなってしまう。音楽をキャラクターを構成する一部としてしまうと、音楽を描けば描くほどかえって音楽から遠ざかっていく印象をうける。

そしてコンクールという欲望渦巻くシチュエーションにおいて、「音楽への憎悪」がまったく存在していないことも、悪い意味で不気味だった。だれもかれもが音楽を素晴らしいものだと信じ、音楽を無条件に愛していることを気持ち悪いとおもってしまうのはぼくだけだろうか?

この気持ち悪さは、主要人物4人のうち唯一の凡人である明石が2次選考で落ち、実質的に物語から退場することでさらに強調される。恵まれた才能をもった「選ばれた人間」、「音楽の神様に愛された人間」がスポットライトを浴びることができるという、「天才信仰」のような色が強くなっていく。これというのは、ある種のディストピアであり、グロテスクな世界観だとぼくはつよく感じてしまう。

この世界のシビアさがあるのはわかる。しかし、それを描くことは音楽を描くことにはならないだろう。それがたとえ音楽業界の実情なのだとしても、それをこの文脈で描いてしまえば音楽への盲目的な愛情を垂れ流しただけのようにしかぼくはおもえない。手の届かない世界の話を、手の届かない世界としてなんのひねりもなく書いてしまうことについて、ぼくはそれこそ「表現」についての思慮が足らないんじゃないかとどうしてもおもってしまう。あるいはぼくが単に、才能を持たいな平凡なサラリーマンが、ショパンのピアノ協奏曲第一番を弾く世界を渇望していただけなのかもしれないけれど。

 

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