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「私小説」という牢獄/第156回芥川賞「しんせかい(山下澄人)」 

※このエントリーは山下澄人による小説「しんせかい」の内容に関する言及があります。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

きのうから立て続けに文学賞受賞作を読んだ。芥川賞についてはいつもは候補作をすべて読んでいるのだけれど、今回は時間が取れず、候補作は1作も読めていなかったからちょっと変な気分になった。

山下澄人の芥川賞受賞は、率直にいってうれしい。

山下澄人という作家が描く世界は、いつもあいまいでぼやけている。それは語り手である「わたし」が、「わたし」というじぶんであるという認識が希薄であるが故に、かれが語る世界さえも世界としての自覚をもたないからなのだろうとおもっていた。「わたし」は作中で簡単に「わたし」であることをやめてしまうし、語れば語るほど「わたし」は「わたし」から遠ざかり、過去や現在といった時間、ここでない場所が語り手にとってすべて等価な価値を持つようになる。

比喩がほとんど排除された簡潔と文章によって目の前に作り出される曖昧模糊とした認識世界は、見通しの悪さゆえのはるかな広がりを持っていて、極めて独特な読書体験へとぼくらを連れ出してくれる。

しかし、この書き方であるがための弊害というのももちろんあって、それは、すべての作品がおなじような印象を受けてしまうこと、そして語られる世界であり内容よりも文章技巧が議論され過ぎてしまうことだ。

しかし、受賞作「しんせかい」は従来のかれの作品とはまた違った感触があった。

きょうはそのことについて書いておこうとおもう。

 

私小説という牢獄

ぼくは、小説を語るにおいて、その小説の作者がどんな人間であるかを前提とすることにかなり批判的な態度でいるつもりだ。だから、私小説という形式で語られる小説は基本的に好きじゃない。むしろ私小説という形式をとるのであれば、だからこその表現としての試みがなければ、基本的に読めたもんじゃないとこれまでの読書経験のなかでおもっている。

だから、正直この「しんせかい」にも当初そんなに期待はしていなかった。

この小説の主人公は「山下澄人」であり、とある著名な脚本家である【先生】が主宰する俳優・脚本家を養成する学校での生活に関する物語である。

そして作者の「山下澄人」自身、若いころに富良野塾に参加している。この情報はどうでもいいとしても、やはり主人公と作者がおなじ名前で出ている以上、どうしてもあまりよくない意味で私小説といった印象を受けてしまう。とくに、ぼくは山下澄人が個人の素朴な体験を小説に書くことはあっても、富良野塾のような具体的過ぎる舞台設定を用いることはしないとおもっていたので、このことにとても驚いた。

私小説は、なんといっても「わたし」の小説でありすぎるから、おそらくどのように書いても「わたし」が「わたし」でしかありえない。それは山下が得意とする、平板に、そして等価に存在する無数の「わたし」や「世界」への移動を簡単にはさせてくれない。具体的な世界というのは、山下の小説に対する態度には重たすぎるのではないか、とおもっていた。

しかし、書き出しはいつものようにはじまる。

 

「揺れますよ」

 と船乗りがすれ違いざまささやいたことに乗船口からずいぶん歩いて気がついた。振り返って船乗りを見た。光る黄色が横へ一本はいった紺の上着の船乗りの背中は広くヘルメットは白い。その向こうは夜だ。そこから次から次へトラックが来て人が来る。しかし船乗りはただ立っているだけで誰にもささやいたりしない。見てもいない。なぜあの船乗りはぼくにだけささやいたのだろう。ほんとうにささやいたのか。ささやいてなどいないのじゃないか。そもそもあれは船乗りか。船乗りだとしたらあれはあそこにいるのか。いたのか。

山下澄人「しんせかい」

 

このみじかい文章だけでもかなりはげしい運動があって、おもうところがたくさんあるのだけれども、ここでとくに注目したのは、「わたし」がたしかに船にいるという実感が捨てられていないことだった。山下の文章では、たとえばひとつの風景があったとしても、それが絵のように現れることはない。風景が風景としてあらわれるのではなく、風景が順番に現れる。船乗りがいるから船乗りの服があり、その奥に夜がある、というように「わたし」によりほぼ無意識に順序づけられ、そしてすぐさま過去にと押しやられる。物理的には同一時間にあるものすら、すべて別個の時間としてえがかれる。この感覚が小説のなかで積み重ねられ、ひとつの「見間違い」が現実におおきな歪みをもたらし、語り手の「わたし」の分裂であり、不在となってテクストの表面にあらわれる。

しかし、「しんせかい」は語られる世界の矛盾とはいえない見間違い程度の矛盾(とスミトによって認識されるもの)はあっても、「わたし」の分裂や消失は生じない。わたしは【谷】とよばれる受講生たちが共同生活を行う場で、具体的で確かな体験をするし、自身のもとへ届き、そして返事をだす女友だちの天へのはがき以外、【谷】の外へは決して出られない。この、近隣住民から「刑務所」と揶揄される【谷】は、「わたし」を閉じ込める牢獄の役割を果たす。【谷】は新興宗教じみた【先生】への服従や肉体労働を「わたし」に要求する。そのために従来の山下の作品であった分裂的な運動は、すべて「わたし」の肉体に収斂する。「わたし」の精神はこの生活にいくつものちいさな疑問を持つけれど、「わたし」の肉体はそれにさからわない。

 

 みんな【先生】に何かしらを判断されるのをとてもこわがっていた。向いてないといわれるのをこわがっていた。だけど向いていないと【先生】がいったとしてもそれはあくまでも【先生】の意見であって、ほんとうにその人がそれに向いているか向いていないか、そんなことは誰にもわからないと思うのだけど、それでも【先生】に向いていないといわれれば、ここでこれだけやって「向いていない」といわれれば、やっぱりそれなりに傷つくかもな、と思うぐらいには、ぼくもここの何かに、いつの間にかきちんと染まってはいた。しかしぼくは俳優というものに、なりたくてなっていた、わけではなかった。なりたくなっていたわけじゃないのなら「向いていない」といわれても傷つく必要はない。なのにそう思っていたのだ。染まるというのはそういうことだ。

山下澄人「しんせかい」

 

「わたし」は「わたし」から離れていくのだけれども、【谷】にとどまりつづけ、「わたし」の肉体はその世界に順応していく。【谷】の「わたし」の身体は余興が肉体労働に変えるけれど、語り手の「わたし」はそれを他人事として見ている。しかし、語りは肉体を離れても、まったくべつの存在として肉体の奥底に潜入している。山下澄人が上に引用した文章を書いたということは、ぼくにとってはおどろきで、「わたし」から「わたし」へ、世界から世界への移動はあっても、それは軽さによりなされていたものだったのに、「しんせかい」という小説では、重さを持ちながら「わたし」から「わたしじゃないかもしれないどうしようもないわたし」への移動をおこなった。これがとてもよかった。

 

山下澄人の語り口はもうずっと前から確立されていて、存在が希薄な「わたし」であるからこそ、わたしの肉体から遠い世界さえも「わたし」として語れてしまう。しかし今作は「わたし」がどれだけ希薄であろうとも、堅牢な世界と労働が「わたし」の心身を、「わたし」以外の何者かになることを許さない。わたしがわたしでなくなったとしても、目の前には世界だけがある。

それがたとえ書き換えられた過去だとしても。

 

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