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カプリスのかたちをしたアラベスク

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「この瞬間」の快楽/小説「ダロウェイ夫人(ヴァージニア・ウルフ)」感想

このエントリーはヴァージニア・ウルフによる小説「ダロウェイ夫人」の内容に関する言及があります。

 

村上春樹はかつて河合隼雄との対談で小説をひとつの家にたとえた。以前、京都大学で行われた河合隼雄文学賞の受賞記念講演の際、この話を村上春樹はしていた。

「小説という家には一階にひとびとが集うエントランスがあり、二階にはその家に住むひとたちプライベートな部屋がある。そして地下室には、普段ぜったいにだれかの目に触れられることのない、物語の残骸が多くしまいこまれている。小説というものをつくるだけであれば、この部屋というものは必ずしも必要ではないけれど、小説が優れた小説となるためには、この部屋の奥深くに足を踏み入れなければならない」

 

ヴァージニア・ウルフの代表作とされる「ダロウェイ夫人」を3日ほどかけて読み終わったのだけれども、読み終わって、本を閉じて、最初に頭に浮かんだのはこの村上春樹のことばだった。

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

 

 

この小説は第一次世界大戦が終わったあとのロンドンの、上流階級の婦人クラリッサ・ダロウェイある6月の1日を舞台にした小説であり、話の大筋は朝にクラリッサが花を買いに出かけ、自宅でおこなわれるパーティーが終わるその日の深夜までの平凡な生活が書かれている「だけ」だ。

ありきたりな話をすると、この小説の最大の特徴は三人称で書かれる物語のなかに、さまざまな登場人物の胸の内の独白や過去の記憶が「わたし」や「おれ」といった一人称で突然語られるといった表現形式にある。これはジョイスやプルーストといった同時代の作家たちも多用した「意識の流れ」という技法として、現在モダニズム文学を語るうえで極めて重要な叙述形式であると知られているもので、このような作家群だけでなく、近年の小説を読むにあたっても知っておいて損はない。

たとえばこのあいだ芥川賞を受賞した山下澄人の作品であったり、日本文壇で一大派閥となりつつある保坂和志たちの小説も、直接的ではないにしろ、こうした人称と認識を切実な問題ととらえた文体は、いわゆる「意識の流れ」が提起した語りのありかたのひとつの変形としてあるのだと読んでも悪くないとおもう。

しかし、こういった技法にとらわれ過ぎてしまうと往往にして小説の読みかたというのは粗くなってしまう。小説のなかで、物語のなかで、いったいなにが起こっているのかということに耳をすますことができないならば、小説を読むことにおいて技法の知識というのは害になってしまう。それは逆に、技法ありきでつくられ「過ぎて」しまった小説がつまらないという理由にも一致する。

 

以下、「ダロウェイ夫人」のレビューを書く。

 

「この瞬間」の快楽

「ダロウェイ夫人」という小説のつくりは、まさに最初に書いた村上春樹のいう「家」が構築されたものだとつよく感じた。クラリッサ・ダロウェイというひとの何気ない1日というおおきな屋敷のなかで、友人たちを招いてパーティーが開かれる。物語はこのパーティーに出席するひとたちや、あるいはこのパーティーに出席するものたちによって語られるエピソードにより賑わいをみせる。それはひとびとのコミュニケーションによってありふれた(そしていくぶん退屈な)、よどみのないものとして一見うつる。しかし、6月の、幸福に見えた裕福なひとたちの生活は、過剰に語られることでパーティーの会場を離れ、孤独な地下室へと迷い込んでいく。

特に深く地下へともぐりこんでいくのは、かつてクラリッサに恋をしていたインド帰りの元恋人ピーター・ウォルシュ、第一次世界大戦で愛する友人を失い精神疾患を患ったのち自殺した青年セプティマス・ウォレン・スミス。クラリッサはこの地下室のなかでピーターや見ず知らずのセプティマスに出会い、彼女やかれらは会話や肉体的な接触がない通常の意味では理解や説明がけっしてできな次元のコミュニケーションをおこなう。

つまり、この小説では、小説という屋敷のなかでふたつのパーティーがおこなわれている。世俗的な、社交としておこなわれるエントランスでのパーティーと、暗く孤独な地下室でのパーティー。

 

わたしは一度、サーペンタイン池に一シリング銀貨を投げ入れたことがあった。でもそれだけ。だけどその青年はそれ以上のものを投げ出したのだ。わたしたちは生き続けるーー(もうもどらなければ。部屋にはまだたくさんのお客さまがいらっしゃるし、まだまだ新しいお客さまがおいでになる)。わたしたち(今日一日、たえずブアトンのこと、ピーターのこと、サリーのことを思い出していた)、わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがあるーーおしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚されくもらされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちら逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分がとり残されるのを感じているーーだから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」

 

 

 

ウルフは、この小説だけでなく他の小説においてもこうした書きかただけでなく、時間や死を切実な問題としてあつかった作品を多数残している。なぜ時間や死にこだわったのだろうかという疑問について、ぼくは立ち入るつもりはない。むしろ、これらの問題について、どのようなありかたを示そうとしたのかということにぼくはとても興味があるし、ウルフという作家のおもしろさがあるように感じた。

ウルフの文章技巧は、時間に対する反逆だ。想起する、という行為が引き金となってあらゆる現在と過去の境界が溶解し、それらは等価に価値をもつ瞬間へと解体され、すべてがテクストの「ここ」以外のなにものでもなくなってしまう。どれだけ古い記憶でも、他人の記憶であっても、たとえ思い込みや見間違いであっても、どんな時間よりもどうしようもなく「いま、ここ」に存在し、現在以上の現在としてテクストの表面に析出する。ぼくらの目の前には、いままさに語られている文章しか存在しない、という至極あたりまえの事実を突きつけ、それにより時間の体系が個人的な認識で再構築された真新しい世界を作り出している。この時間の解体と再構築(実質的な過去という概念の消去)は、時として生き死にの境界をも消去する。ぼくらの人生とはいってしまえば「時間」でしかなく、だからこそ時間というものが言及されればされるほど、必然的に死が「語られてしまう」ということが起こる。このように結果論として、ひとの生き死にが語られるのではないか、とぼくはおもった。

 

そして、なによりもウルフの魅力は目の前にある文章そのものだ。

次の展開が気になってページをめくってしまうという物語的なおもしろさではなく、目の前の文章に留まり続けさせる力強さがぼくは好きだ。

ひとびとの胸の内が上品に、優雅に、私的にして詩的に語られる仄暗い地下室の独白もいいけれど、物語の表面の素朴な文章に目が眩む。

小説を構成する一文一文どれをとってみても、ウルフが書き出す「瞬間」には快楽的なよろこびが満ちている。そのなかで溺死することで、ぼくは物語の地下室へと迷い込んでしまう。

 

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