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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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短編小説「イルイナイ」(2012年版)

創作小説

5年前に描いた習作を発掘したので、だいぶ荒いけれど公開することにしました。

同人誌「らくせんvol.1」に掲載した「ヒア・ゼア・エブリウェア」という長めの小説の原型だとおもう。

きっとこれをかいたひとは、ふたつのちがう空間を重ねみたものを書きたかったのでしょう。

 

短編小説「イルイナイ」(原稿用紙50枚くらい)

 

 イルのお母さんはオール電化にしたときからずっとお湯のことばかり気にしていたのだったから、一日のお湯がぜんぶなくなるかそうでないかになってしまう遅い時間にお風呂に入るイルはお風呂の入り方をとてもよく考えなくちゃならなくて、お風呂に入ることをやめて初めて生きるのが楽になったのだからうれしい。もちろん、オール電化にする前はガスを使っていて、そのときはそのときでお母さんはまた別の関心があったのだけど、台所の壁に取り付けられた十センチ四方のピカピカのパネルが教えてくれる残りのお湯ほどわかりやすいものじゃなかったのだから、夜の家のなかの歩き方がわかって夜更かしをする。最近じゃイルの行動範囲はネットまで及んだのだから、知らない友だちがこっそり教えてくれる面白い話にじっと耳を傾けて、時には眠ることさえ忘れてしまうのだった。
 そんな日のあくる日でもイルは学校に行くことを忘れない。物心ついたときからずっと学校に行っていたのだから、天気が変わっても、服が変わっても、靴が変わっても、学校に行くということだけはいまも変わっていない。一番後ろの席で、先生が黒板をかつかつ叩き、みんなの黒い頭がゆっくり揺れるのをじっと見ているのが好きだった。そしてときどきノートを取ったりして、授業の始まる前に知らなかったことが終わるとイルのものになっていたのだから、やっぱりうれしい。
 だけどうれしいことばかりじゃなかった。たとえばイルの夜更かしにお母さんが気づくとお母さんはとても顔をしかめるのだったから、眠たくなくてもベッドにいかなくちゃならない。お母さんにかぎったことではなかった。イルは人が顔をしかめるのを見るとたまらなく不安になる。
 学校のALTの先生の、アメリカかイギリスかオーストラリアかどこかの英語圏の国の出身の、色白の、金髪の、ほりが深くて目の小さくて青いひょろりとした男の先生がみんなに授業で話しかけるとき、その先生は疑問文の発声に合わせて感情いっぱいに顔をしかめるのだけど、イルはそれが特にきらいだ。もちろん、それが生徒らの理解を高めるためのボディーランゲージで、あえて過剰に眉間に皺を寄せたり口尻を吊り上げたり首を傾けたりしている側面もあるんだってことをイルはわかっている。当然わかっている。けれども、そうやって露骨に(それも急に)表情を変えられると、座っている椅子や机の脚がぐにゃりとこんにゃくみたいに曲がって、床は沼になり、イルは地の底まで落ちてしまう。柔らかい土のなかまでALTの先生の顔は追いかけてきて、"What's up?”とかなんとか聞いてくるのだったから、さしてわたしにキョーミなんてないくせに、あなたはなんでそんなことをあなたの人生の大切な命題みたいにしがみついて来るのですか? 頭おかしいんですか? どうなんですか? と訊きたいのはやまやまなのだけど、イルは英語が得意じゃない。でも苦手でもない。成績はいつも五段階評価の3で、平均(よりやや下がとても正しい)的な中学生だったのだから、習いたての関係代名詞の使い方もよくわからなくてテストじゃいつもテキストの例文を必死に丸暗記してがんばる。
 イルはいつも自分がちゃんと席に座っていることに気がつくのだけど安心はしない。そういうときはいつも先生の背中しか見えなくて、みんなの後頭部が黒く揺れているだけなのだったから、イルの耳にだけ残っているイルの発声にきまりが悪くなって、はやく家に帰りたい。正確には家というよりは自分の部屋に帰りたい。もっと正確にはお母さんのいない台所に帰りたい。じぶんの部屋にはベッドと洋服箪笥しかなかったのだから勉強机は台所にあるみんな揃うことのないテーブルだった。イルはそこであしたの宿題を毎日する。毎日あしたは忘れずにやってきたのだから、イルを勉強に駆り立てるのは義務感だったけれども、それでも時間をしっかり繋いでいくための作業でしかないそれはいつしかイル自身も繋いでいるのだから結果的に安心して、お母さんのお風呂掃除が終わるとイナイは目覚める。数学の授業のまだならっていないはなしをきく。

 

 ずっとさきの教科書のことを前もって話すのが好きな数学の先生の話を聞きながらイナイはずっと利き手じゃない右手でペンをぐるぐる回す練習をしていたのだったけど、一段高い教卓から先生は雄弁に語るのだったからどうしても聞こえてしまう。聞こえるということは多少なりとも考えてしまう。イナイは数学が嫌いだ。正しくは数学そのものが嫌いかどうかなんてイナイにはわからない、ただ単純にテストで点が取れないということがつまらないから嫌いなのだ。嫌いの海に沈んだ数学はすべからく嫌いになるしかない、そんな間接的な数学が嫌いな理由の証明をイナイはしていたのだったけれども、ややこしい数式から離れたことならちょっとぐらいわかる。たとえば目に見えないことが虚、目に見えることが実、ということ自体がイナイにはとてもおかしい。その視点の主は決まって一般的なひとなわけで、一般的なひと、なんていないのだからそれはだれでもない。だれが虚数、なんて名付けたのかは知らないけれど、虚数を見つけたガウスさんにとって虚数はちゃんとあったのだから、目に見えたのだから、虚、と彼なら名付けたりしないはずだとイナイは思う。それをイマジナリーナンバーなんて嘲笑しちゃうような命名といっしょにⅰなんて記号つけちゃって、それで調子にのったきっとたくさんの日本人の数学かぶれが〈愛〉だなんて自分の言語感覚を信じて、ガウスから遠いところにあるいわば無関係の、こじつけの哲学を語るのだから、ガウスを思うと少し悲しいけど、イナイの練習の手を止めるほどではなくて、イルはこの世の構造なんてどうでもいいから早く黒板の音が聞きたいから少し眠る。電子辞書で調べたら虚数は「complex number」だった。

「アイは幽霊みたいなものです」
 その話も気がついたときには過ぎ去っていくらか時間が経っていて、チャイムが鳴ると先生はいない。図形と数式と気持ち程度の日本語でぎっしり埋まった黒板を日直が力いっぱい消して、きゃあきゃあ言いながらしゃべるクラスのみんなの机の上は社会だ。まだ利き手とは逆の手でペン回しを練習しているイナイの机は数学のままで、イナイの頭のなかにはまださびしい顔をしたガウスがいるのだったから、社会だよっていうアキの声が聞こえた時にイナイは数学を受けていたのは自分だけじゃないかと一瞬思うのだけど、イルがコウの指の先の筆箱のなかの鉛筆のこすれて黒く汚れた時間割の縮小コピーを見るとそうじゃない。みんな同じだ。たしかに同じだ。
 イナイは教室をひとまず出て深呼吸するとみんなの声は遠くなる。
ずれかけた位相は周囲の物言わぬひとじゃないものによって適切な修復を繰り返すのだったから、イナイの靴底はちゃんと黒く汚れていて、歩けば教室や廊下に足跡を残すのだけど、放課後の掃除でそれはきれいに消されてしまう。そうなると何が修復かイナイにはわからないからこそペンをまわして、イルは今日もお風呂に入らない。

 

「できればきょう、歩いて帰りたい」
「いいけど、なんで?」
「自転車だと、ほら、流されすぎちゃって……」
「そういうときってあるよね」
「でも早く帰りたい」
「どっちかしかできないよ」
「行ってみただけ」
「なにを?」
「早く帰りたくなんかないし、そんな理由もない」
 街は南北に一本ずつある動脈のような地下鉄と何度も枝分かれする毛細血管のようなたくさんのバスを持ち、それに乗って人々は毎日循環する。飛行場には地下鉄をずっと北に行ってからバスに乗れば行けたのだったけど、飛行場と飛行場のよく見える場所は同じじゃなくて、イナイの好きなそこは地下鉄もバスもたどりつかない四季を通して枯れた草とか誰かが捨てていったゴミばっかりのだだっ広い草原でイルはあんまり好きじゃない。飛行場は街からそう遠くないといってももちろんそれは二十キロメートルぐらい、街の住人に騒音をもたらさないくらいの行政とかの偉いひとの適切さを信じて離れているのだけれども、それは国内線に限ったもので、とはいえそれでもいろんなところへ飛行機は飛び立ち、いろんなところから飛行機が到着したりするのだったから街のどこにいてもそれなりにうるさくて、自分の情緒不安定をそのせいにするひとだって多くないけどいる。
 そのかわりたくさん飛行機雲ができる。地球が丸いから飛行機雲は緩く曲がりながら、水彩画の色彩で空を格子状に切り裂いてイナイは何度も生まれてイルは落ち、イナイはそれが好きだったのだから、ときどき家まで遠回りしてでもできるだけこの視界の開けた場所にやってくるけどイルはあんまり乗り気じゃない。でもそこに来てしまう。イルにはそれがわからない。いつも登下校の時に聞いている音楽を止めて、首にヘッドフォンをひっかけて、学校の正門の前にある自販機で冷たい炭酸の甘いジュースを買って時折飲みながら歩いてそこまで行って、ついたときにはジュースはもうぬるい。
「なにそれ、かっこいいとか思ってんの?」
 とアキは言うのだけれどもイナイは聞いて聞こえないふりをして、コーラのペットボトルを手首のスナップをきかせて細かく振りながら歩くと炭酸はもう抜けて夏の海に同じ鬱陶しさを指先につけている。
「音楽、聞かないならヘッドフォンなんてしまっておけばいいのに……」
 と続く声をただ聞いている。
「夏はやだよねー、だってさあ、汗かいちゃうから」
 とコウが言う。そんなの夏に限ったことじゃないし、冬だって汗はかくし、汗をかくと気持ちが悪い。なんでわざわざよく晴れた日の、とても大きな空を見ながらコウは言うのだろうとイルは思ったけどジュースを飲んで返事をしない。ぬるい炭酸はおいしくない。おいしくなくても飲むのは、もったいないからだ。「なんでこんな遠回りするわけ?」
コウはきまりの悪い余白を恐れて発声するのだったから、イルはなにか返事をしなくちゃいけない。でももうコーラは飲んでしまった。ごまかせない。でも困ったことに、なんでイルはこんな長い蛇みたいな経路をたどって帰らなくちゃならないのかがわからなかった、どうしてもわからなかった、そしてそれを〈たどっている〉ということをイルは直感していた。直感を説明することほど不毛なことはない。イルは早く帰りたいのだ。飛行機雲なんて興味がない。全然ない。
「イルってさあ、好きな音楽はなに?」
「音楽なんて聞かない」
「だったらなんでそんなもの?」
「……知らない」
「へんなの」
「知らないというよりも、わかんないってのが正しい、うん、とても正しい」
「へぇ」
「はやく帰りたいんだけどね」
 イナイはジュースを飲もうとペットボトルを口に当てたのだけど、当ててはじめてなかが空っぽだと気がついてやめた。からっぽのペットボトルをずっと持っていても仕方がないから捨てたいのだけれども、捨てるタイミングと捨てる場所がないから膝にこつこつ当てながら歩き指はねばねばしているからちょっと不機嫌になって空を見上げるとなおった。その一瞬のイナイの変化をアキは見逃さないから、イナイは息苦しくて「もうお前帰れよ」と言ってしまう。するとアキは当然腹を立てる。すごく怒って、はいはいわかりました、と言ってほんとうに帰ってしまう。
「あんたくさいよ。お風呂入った方がいいんんじゃない?」
 イナイにはよくわからなかった。だけど、くさい、なんて言われて気分のいいものじゃなかったからアキの方をちらりともせず、アキの夏の空に沈む足音を背中で受けながら、空を見上げ、飛行機雲がぜんぶ消えるとペットボトルを思いっきり投げ、また空にはじきに飛行機雲が交差するのだけど、帰路は俯きがちにヘッドフォンで耳をふさぎ歩く。そこはかなしいからこ、イナイがかなしくなると必要がなくなり、そもそもイルにこれ以上のかなしいは抱えきれないから、できるだけ早く別のことで頭を満たして乾いた草の上に打ち捨てるのが適切だった。ペットボトルは放物線を描いてぽとりと地面に落ちた。

 

 

――数日間の太陽と数日間の朝露と数日間の雨によって路上のすべては色褪せる。

――そんなこと、みんな知っているから知らない。

 

 

 イルがはじめて射精したとき、イルはそれまで生きてきたなかで一番びっくりした。はじめて生理になったときよりずっとびっくりしたし、イルが初めて生理になったのは小学五年生の夏で、そのとき初めて自分が女の子だとはっきりと自覚することができた。それはうれしいとか、うれしくないとか、そんなことは何もなくて、イルは自分が女の子でも男の子でもどちらでもよかった。そういうものは自分で獲得するものでなくて与えられるしかないことだとよくわかっていたからで、そしてそれが学校の授業によって予言されていたレールの上の出来事だったから。自分のおっぱいがちょっとずつ大きくなるだろうことも、イルは自然のものとして受け入れたけど、大きくならないのだからブラジャーをまだ持っていない。
 朝目覚めると下着に白いねっとりした液体がべっとりとついていたけど最初それはなにかイルにはわからない。イルは男の子のことがわからない。第一それが射精だという発想がない。だからはじめイルは自分が得体のしれない病気になったと思ってすごく怖くなった。自分が死ぬことを想像することはこれまでに悪い夢のなかや、その夢を引きずって目覚めた時に何度か考えたことはあったけれども結局怖くなかったのは、イルは死ぬことに具体的なイメージを持てなかったからで、どんなに怖い夢でも、死の具体的なイメージを教えてくれることはなかった、一度としてなかった。でも、その下着についた液体の色と粘性は、あまりに具体的なイメージを持ちすぎていたし、得体のしれない具体的なイメージに捕われ死ぬのでなく生きるのがイルには怖い。すごく怖い。だからその日は下着をこっそり洗うと、ずっと部屋のなかで眠る。眠ると知らない男の子と裸で戯れる夢を見て、目が覚めるとまた下着が汚れていて、それでそれが夢精なのだとネットを見て自覚した。お母さんはイルの変化に気づいたりしないのは間違いなかったけど、コウにはばれそうな気がして顔のつくり方がわからないから、ずっと自然な表情の練習を鏡の前でしている。表情が作れるようになった日曜日はそのまま安心して眠って、月曜日の朝になってごはんを食べたあと、セーラー服を自分は着ることが許されるのかわからなくなって、結局学校を休んだ。お母さんはなにも言わない。ずっとテレビを見ている。
 イナイは成長が遅くてずっと前から一番目か二番目に並ばされるのだったから、体育の授業はとても嫌いで、とくに水泳の時間はみんながとても他の男子の発育をけん制しながら着替えるのだから何度か仮病して休むことを忘れない。むしろ体を動かすこと自体本来イナイはすごく好きで、小学生のころはすすんでドッヂボールをしていたし、ボールを投げるのも受けるのもよけるのもたのしかった。だけど自分は変わらないのに、まわりが変わっていくことに気がついた。小学校六年生ぐらいになるとみんなの投げる球を受け止められなくなったりよけられなくなったりすることが増えたし、イナイが投げるボールは簡単に受け止められるようになったからイナイはかなしいけどひとの前じゃ決して泣かない。ぜったい泣かない。
 中学に上がったときにそれはますます顕在化する。それの視覚化がいわば体育の整列だった。みんなだいたいイナイよりも足が速くてボールを遠くまで投げるのだからいないは運動を嫌いになって代わりに音楽をたくさん聞くようになる。空白はすべからく埋めるべし。とりあえずの埋め合わせをしなくちゃならなかったから、お年玉で買ったウォークマンを肌身離さず持っていたけど、聞く音楽なんてなんでもよかった、音楽である必要もなかった、イナイは音楽が好きじゃない。あるいはそのヘッドフォンを通して聴くものすべてが――たとえばヘッドフォンをかすめる風の音や、遠い車の走行音、ひとのくぐもった話し声――音楽になりえたかもしれず、そうであるのならば、たとえそれが世間の薄暗いものを抱えていたものだったとしてもイナイは音楽がとても好きだ。
「大丈夫?」
 なんとなく学校に行きたくなくて休んだイナイは二度寝を始めるとアキのメールで起きた。「別にどこも悪くない」とだけ返してメールはそれっきり返ってこない。担任の先生から電話がかかってきて、イナイはそれを取って今日は風を引いてしまってこれから病院に行くんですゴホゴホと答えると、先生は後ろからテレビの音が聞こえるんだけどねぇとねちっこく言うのだったから、風邪ひいてもテレビぐらい見ますよ、と答え電話を切ったら空気が淀んでほんとうに風邪を引いたみたいになって台所の椅子に座るとお母さんはいなかった。それから目覚めた時に下着が汚れていたのを思い出して脱衣所で脱いで、自分の手でごしごし洗うそれはイナイの精通だった。
 歳のわりに遅い精通だったのだから彼は内心とても安心したのだったけれども、ここのところずっと生理痛に悩まされていたのだったからまたすぐにお腹が痛くなるのは経験的によくわかっていて、射精のことなんてすぐに忘れていた。その日はもう血が止まって何日か経っていたのだったけれども、月の周期ごとにほぼ規則的にやってくるそれはイナイをここ数年苦しめていて、肉体的にはもちろん、だれにも相談できなかったのだから精神的にもとても苦しい。ナプキンはお母さんのものを使うと数が減ってばれるかもしれなかったから自分のお小遣いでちょいちょい買っていたし(だまってレジに出せば店の人は何も言わない)、血の付いたそれは昼休みの学校の体育館の女子トイレに捨てればだれにもわからない。男の子に生理が来るなんて話を聞いたことなんてなかったけれども、自分がじっとしていればなにも厄介なことなんておきないのだったから黙る、ずっと黙る、胸が少し膨らんだ気がする、なんてことを感じたのは一回じゃなく何回かあるけれども、乳首付近のしこりは成長期のこどもによくあることだとネットで調べたのを信じてイナイは気にしないようにしていたけど、イルにとってのコンプレックスとして形になって結晶化し心のしこりとなってそこにある。いまもある。
 イルは昼ぐらいに目を覚まして、一人ぼっちの台所で簡単なごはん(目玉焼きとトーストというほんとうに簡単なものしかイルは作れない)を食べて、時計を見ると学校は昼休みだったからコウにメールで今日の宿題とか提出物とかがわかったら連絡ちょうだいと送って冷蔵庫に余っていた缶コーヒーを飲む。電話はできればしたくない、だれとも話したくない、もし話したりしたらイル自身にはわからない声の震えがあったりして、それがだれかにばれて面倒なことになりそうな気がしたから肉体的なコンタクトはなるべくとらないのがいい。声は体から離れない。服みたいに脱げない。イルは面倒なことが嫌いだ。できることなら生まれ変わったら深海魚になりたいと思ったけど、生まれ変わるには死ななくちゃならない。イルは苦しいのが嫌いだ。痛いのも嫌いだ。それらは面倒なことよりずっと嫌いだ。だからごはんを食べると、部屋に戻ってまた眠ると夕方、メールで教えてとアキに言ったと思ったらアキはおせっかいにも電話してきたのだったからイナイはむっとして、電話を十秒ぐらいとらないでおいたけれども、ずっと続いたのだから仕方なくとった。
「イナイなんで休んだの」
 アキの声はとても批判的で、表面上は疑問形の形を取っていながら断定的に発声されたそれにイナイはもっとうんざりする。
「風邪っていったじゃん」
「イナイは風邪なんてひいてない」
 アキはまたしても断定的だ。
「朝起きると夢精してて、そしたら学校に行きたくなくなったから行かなかった」と言うと電話のむこうでアキがため息をついた。「これで満足?」
「きもい」
 電話が切れるともう一度眠って目が覚める。

 部屋の内も外もすっかり暗くて目覚まし時計の二本の針の蛍光塗料のぼんやりとした角度でお母さんがずっと前に帰ってきてるはずだと思うと壁が揺れたからきっとそうに違いないとイナイは確信するとことばじゃない声が聞こえてきた。お母さんはセックスしていると思ったら、部屋を出てお母さんの部屋をこっそりのぞくとそうだったから驚いた。お父さんはずっといないから相手はもちろん知らない男のひとで、それが誰なのか、たとえばいまのお母さんの職場のひとだとかそれともずっと昔の学校の同級生だとかそういうことを考えることはできたのだけど、やっぱりお母さんといえども他人だし、個々の問題を抱えているのだからそれは野暮だと思ってイナイは考えないことした。眠ろうと思ったけど今日はずいぶん眠ったのだったから眠れない。
「新しいことを始めるっていうのはね、なんか、こう、お風呂に入るようなものなんだ」
 ベッドのなかでずっとむかしのお父さんのことばの断片が急に思い出されてイルは強く瞼を閉じて、それを繋ごうとするけど、繋ぐためには繋ぐだけの断片が必要だったのだから記憶のなかをたゆたう。隣りの部屋のお母さんのあえぐ声はさっきより大きくなったからイナイは困ってもっと眠れないけど、それはイナイの眠れない理由の責任転嫁だってイナイは気がついている。声とかことばとか、そんな区別をとっぱらってすべての声は大きくなるように人間の耳はできているからどんな音でも聞こえて、それでも人間のとても強いのはそのなかにどれだけ長い時間いたとしても眠りにつくことができて、それは無意識的にすみやかに行われるからこそ朝が来る。学校に行くか行かないかベッドのなかで迷ったけれど、昨日の夜はなにも食べてないからお腹が減ってベッドから這い出し台所に行くと、知らない男のひとがとてもきちんとネクタイを締めてカリカリのトーストとベーコンとスクランブルエッグのタンパク質たっぷりの朝食を食べていて、お母さんはフライパンを洗っている。だれもなにもしゃべらないから水の流れる音だけ聞こえるこの感じはまるでいつもと同じだけど、さすがにひとり多いと空気の流れ方がまるで違う。イルは男のひとのネクタイの結び目をもう一度見ると、これは絶対に自分で締めたのではなくてお母さんがしたのだと思いながら、男のひとの正面の椅子をひいて、許可を求めるようにそろりと腰を下ろすと男のひとは流し台に自分で自分の食器を持っていくと家の外にやはり無言で出て行ったら、男のひとの痕跡はなにもなくなっていつもと同じ朝になり、今日も学校へ行くのはやめておこうとイナイは思ってトーストを差し出されると自分の部屋に持って帰って食べて眠った。眠る前にケータイの電源を切ることを忘れなかった。
 その晩、男のひとはまたやってきて、お母さんに名前で呼ばれたから台所の椅子に座る。今日からここに住むから、わたしたち、結婚するから、とお母さんが用件だけを言うと男のひとは自己紹介をしたけどイナイはずっと憶えられなくて憶えないことにすると、お母さんと男のひとはその日も部屋でセックスをしていたら次の日には八歳ぐらいの男の子も家にいてそれは弟なんだとイルは思った。それはほんとうにお母さんと男のひとの子どもなんだとイナイは確信した。トモ、とだけ自己紹介なのかそれとも意味のない発声なのかわからないくらいしかしゃべらなかったのだけど、イナイはその名前を脳髄に打ち込まれたみたく憶えさせられてしまったから忘れないそれは楔だ。
「風呂に入る前はめんどうだなぁって思うけど、風呂に入って後悔したことなんてだれもただの一度もないだろ?」
 そうだと思ったからイルは今日はお風呂に入ろうと決めたその日は最後にお風呂に入ってからずいぶん久しぶりのような気がしたけれども、実際にどれくらいの間お風呂に入ってなかったのかなんて、もうイナイも覚えてないのだった。そういえば自分の体のにおいが変わった。そんな意識はあったのだけど、イルはそれをきれいに落としてしまうのがすこしさびしい。すこし名残惜しい。さびしいと名残惜しいのないまぜになった中間。そんな感じ。でも数十分後にはそんなこと、イルは覚えていないしイナイもそうだ。そもそも覚えていようとも意識的に脳に働きかけないし、忘れようともしない。だから忘れる。忘れるってそういうことだっていう感覚だけをできるだけ正確に、自分のかつてのにおいを忘れて初めて刻み込むそれを、ずっとむかしに「確認」っていうんだって聞いたことを思い出す。
 でもお風呂に入る習慣は消えてなかったのだから、イルは湯船に浸かる前にちゃんとシャワーしたし(そのときに自分の体から出てくる垢が気になったからきれいに体を磨いた)、シャンプーとリンスをとりわけ意識しなくても間違えなかったからイナイは新しい織物シートの場所を湯船に浸かりながら正しく思い出すことができた。十分ぐらい肩までお風呂に浸かってたらちょっとのぼせるし、いったん湯船からでて、もう一度体をボディーソープをたっぷりつけたタオルで磨きながらイナイは始めて自転車に乗ったときのことを思い出して、補助輪をはじめて外したときはちょうどトモぐらいのときだった。クラスのみんなはそのときにはもう七割ぐらいの子が自転車を補助輪なしで乗れていて、彼らは競うようにできるだけ遠くへ行こうとしたから目指したのは山の上にある私立受験をしていまじゃ学校は違う片岡君の家だったからそのときはいまよりずっと彼やみんなと仲良くやっていたし、片岡君のお母さんは汗だくのみんなを見て冷たいオレンジジュースをいつもくれたのだったから、あのときはよかった、幸せだった、そんな回想のさなかにあるときはもう補助輪をつけないのだったから、イナイはどうしても自転車の乗れなかったときの感覚が思い出せなくて、ボディーソープをシャワーで流して湯船に浸かろうとしたらトモがいたからびっくりして、
「たとえ姉弟でも、女の子は男の子とお風呂にはいんないんだから!」
 とイルは叫ぶと、
「男の子だと思ってた」
 と言ってトモは出て行って、曇りガラスの向こうでうごめく肌色の物体はずっとトモだ、トモに違いないという確信をもてないまま信じることにしてずっと見ていると、なんだか嫌な感じだった。トモは一切の物音を立てずに着替えるから、いつのまにか曇りガラスの向こうの物体の色は青になって、黒になって、イナイはちゃんと男の子だって、何度もお風呂のお湯のなかに潜って水のなかで叫んだのはそういうのをだれかに聞かれるのはすごくみっともないからだった。それからのぼせるまでずっと、残響がちゃんと消えたかどうかを耳をすませて確かめているけど、ないものを見ることはできないのだったから、ずっと不安は解消されない。
「明日は学校に行きなさい」
 曇りガラスの向こうに、だれもいない気配がある。

 一度途切れた習慣を習慣としてもう一度つなぎなおすことは億劫で、家を出てから足がなかなか前に進まないからそのままどこか違う場所へ、たとえば全然知らない場所へ行ってしまった方が楽なんじゃないかと何度思っても、途切れたとしても深く刻み込まれた習慣をなにもなかった知らないものとして捨ててしまうことは子どもの力じゃちょっとできないからバス停でぼーっとバスを待って、ぼーっとバスに乗って、ぼーっと五分ほど歩いて到着した学校はやっぱり学校だったのだからそれだけのことだった。ただ二日休んだだけだからみんな特別自分がいることにたいした違和感を持たないし、二日も休んだのだから「大丈夫?」と声をかける社交辞令を忘れないけどそれだけだ。
 でも幼稚園からずっと同じだったコウはイルがこれまでに二日も学校に来なかったことを知らなかったのだからとても心配して、二日間の間にでた宿題をイルの分までやっていてそれをイルににやっと笑って渡すのだけど、イルの筆跡を真似たらしい彼の字は筆圧が強すぎて、全然イルの字に似てないのだったからイルは笑った。
「ここんとこ、ずっと体調、悪かった?」
 アキはそう言うからイナイは答えなくちゃならない。
「別にそうでもなかったんだけど」
「そうなの? お風呂に入らない理由は体調が悪いからじゃなかったんだ」
「べつに体なんてどこも悪くなかったよ」
「だったらなんで」
「そんな気分ってあるじゃん。たとえば体調がすごくよくて天気がすごくよかったら学校生きたくないじゃん」
「不良のふりってダサい」
「黙れよ」
 黙れ。
 えっ、ちょっと、イル、どうしたの、ねぇ、とかすれた声で隣の席から呼びかけてくるコウに気がつくとクラスのみんなは一番後ろの席のイルに向かって振り返り、先生もイルを見ていたのだから授業は止まっていて空気も流れないけど、時計の針だけが動いているから音が鳴るしそれは大きい。
 イルが声を出せないでいると授業はそのままなにもなかったこととして再開されてみんなは黒板と各自のノートを交互に見ては頭を揺らし、コウは横目で数秒に一回イルを見るからイルはノートの端っこをちぎって、ほんと、なんでもないから、ちょっと疲れただけ、と書いてコウに渡すと、コウはそれを読んで少し微笑むと授業に集中するけどイルは気が乗らなくてみんなの頭の揺れるのをずっとぼんやり見ていて数時間後、そのノートの切れ端を昼休みに教室のゴミ箱で見つけた。

 

「今日はあーちゃんと帰るからひとりで帰って」
 放課後になるとアキはイナイの席にやってきてそう言ったけどイナイは言われなくても今日はひとりで帰りたかった。そもそも毎日アキと一緒に帰る約束なんてした覚えなんてないし、幼稚園からの学校のだれよりも長い付き合いのなかで出来上がった習慣の終わりを伝えに来たのだとしたらそれはなぜだろう。
「お前さ、いつから谷口のこと、あーちゃんって呼んでるの?」
 えっ、そんなの、小学校の頃から、もうずっとだよ。小さい頃っていまみたいに名字で呼ぶみたいなよそよそしいことあんまりしなかったから、たぶんあーちゃんとはじめて会ったときからわたしはあーちゃんをあーちゃんって呼んでたし、あーちゃんはわたしをアキって呼ぶ。けど最近じゃあっきーって呼ぶかな。
 アキは笑って言うけど、その目は笑ってないからそれは悪意だ。イナイへの悪意だ。
「友だちいたんだ」
 なに言ってんのー、わたしは普通の女の子だから友だちいるし、少なくともクラスではフツーにみんなとうまくやってるし、だれかにいじめられたり、ましてやいじめたりなんてしないし、でもイナイはみんなとちょっと距離があるからそういうの見えないんだね。二日学校を休んだことなんて関係なくて、ただ単にイナイはわたしがいないとここに入れないようなものなのだから、わたしがあんたとの関係をきれいさっぱりなかったことにしてしまったら、あんたはもうずうぅっとひとりなのだから。
「いいよ、望んだことだから」
 そう、あんたはそれを望んだ、わたしはやさしいから、それを叶えてあげたの、だから今度ジュースおごってね、これでわたしもイナイも両方トク、ウィンウィンだね! やった!
「ごめんね、イナイ、というわけで今日はあーちゃんと帰るんだ。体調悪いだろうから今日ははやく帰ったほうがいいよ。寄り道しちゃだめだよ」
 え、あ、うん、とイナイが口ごもっている間に谷口さんがアキを呼ぶのだったから、アキはカバンにつけたアキはかわいいといっているけどみんなはビミョーにかわいくないねそれ、と笑うからクラスで注目されている手のひらほどの大きさのシロクマっぽいいきものの人形をパタパタさせながら行ってしまったら、もう教室にはイナイしかいないのだったから運動部の掛け声と吹奏楽部の練習の音があいまいに満たす教室の澱だった。
『わたしたち、べつに付き合ってるわけじゃないし、そーゆー誤解とか受けたくないから、これからはずっとあーちゃんと帰るから』
 そしてヘッドホンを首に引っ掛ける動作は機械的に行われるし、足もどこか違うところへの移動を促しているのだけれども、行くあてなんてどこでもいいのだったから学校の近くのマックへ行って、アキのメールをささっと削除してしまうとそのまま電話帳からもアキを消してしまって、だれのアドレスも残っていない。

 

 イルは甘いものが好きだ。
 甘いものは脳の回転を促すと知っていたからイナイは好きだ。
 思ったように物事は動く。常識です。思うからそうなる。
 マックシェイクはストロベリーがいいのはストロベリーしか飲んだことがないからで、他との比較が未だ一度も行われてないからこそイルのなかでのベストでありつづけている。おいしいかどうかなんて難しいことはわからないというか味覚をどうやってことばに変換したらいいのかわからないイルは便宜的に「甘いほどおいしい」と定義して納得させている。だれを? 自分を。だれが? 自分が。教師と生徒が同一だったなら教室にいるのはひとりだけ、そんな情景を思い描いてイナイはなにも考えていない。
 Sサイズにしたのもやっぱり習慣で、お腹がもうSサイズに慣れてしまっているからだ。あるいは「イル、ストロベリーのSとかマジでドSじゃんかー」とかつまんないことコウが言って笑うからそうしていたのかもしれない。そういう些細な話のネタは大切だから大切にしたいというのはすごくある。もちろんMサイズにしても「イルはドMだなぁー」とかコウは言ったに違いなかったけれども、それはイルの知らない経験だ。
 喫煙席が数ヶ月前に完全になくなったマックの空気は、もう喫煙席がないということを改めて認識すると綺麗に思えて、そうでなければいつもと変わらない。だいたいはこのあたりの高校生か大学生ぐらいのひと、そして同じ制服の女の子もいるし彼女らに比べてちょっと少ない同じ学校の男の子、たまに小学生の4、5人のグループがぽつぽつテーブルを埋めて彼らの他愛のない日常が十分染みているし、靴底のにおいだってずっと変わらずにある。雨の日にそれは顕著だけど今日は快晴だ。天気は個人の状況と一切無関係だから暴力だ。
 なにかあったときのためにと思ってゴミ箱のなかから取っておいたイルの魚の小骨みたいな筆跡のメモをポケットから取り出しては見るものの、はたしてその「なにか」がなんなのかを全然イメージできなくて忘れるために手のなかで丸めてもう飲み終わったマックシェイク・ストロベリー(S)のカップのなかに入れるけれども、履行された行為は行為として消えないのだからもうイルは忘れられず、十年後もマックに入る度に思い出してしまうことになるそれは呪いだ、イナイは記憶は刻まれるからこそ傷と同じで、ずっと痛むと信じて疑わないから痛い。痛いと声がでなくなる。声がでなくなると声ばかりが聞こえてくる。声はひとつじゃなくてたくさんで、混ざり合うから絡まって、分離できないから聞き取れない。ただの音。ただそれでも音の濃度にはムラがあるのだったから、断片的にそれは解けては意味をなして理解でき、意識はそれらを勝手に繋ぐのだから像がたつ。ひとりでにたつ。それは子どもであり大人であり、男であり女で、イルにそんなに違わない。
「最近さぁ、うちのお母さんが再婚したんだけどもうあいつと高校のときから付き合ってっからさそれで向こう側の子どもがいたから五年経つしお互いこの辺りで就職決まったから、あたしに弟ができてねーお母さんがいっつも夜にお風呂入れってうるさくてたぶん結婚するんだろうな。わかんないことはだいたいネットにいるだれかが知ってるし最近生理重くって彼氏とあたしの家でやった性器を使わないセックスでは指だけで触れて、離れて、そのひとたちに聞いたらなんでも答えてくれるのだったから予定の日から二週間たった今日はもう四十五日なのだからとても不安で子どもが怖い。便利、なにが、なんでも知ってる、ははは、なんでもは知らないって、でもあんた、そんなことも全然気にしなくって同じことをずっと求めてくるのだからできるだけ自然に笑って毎日その練習で、擦れて、疲れて、来年の夏には子どもが欲しいねって言ってるみたいでそれがあまり現実的に思えないのに現実的で新しい弟は照れてるのか嫌悪してるのかぼくと全然話をしないし、生理のこないままに茶色い澱の増えてきた最近のわたしの体に何が起こってるのでしょうか? それがこの街からそう遠くないアパートの一室でたくさん行われてるのだとしたら、ひとはものなんかじゃないんだよ」
 そういう嘘はぜったいやめたほうがいい! 間延びした暗い笑いの水たまりの上を何度か弾むと消える。叫んだけれども叫んだ証拠はない。記録なんてない。だれの記憶にも紛れこまない。
 すべては滞りなく流れたのだったから、叫んでなどいないのだった。彼ら彼女らに顔はないのだったから、いまはイナイにも顔がないはずで、だからこそいまはぜったい鏡とか窓ガラスを見ちゃいけない。夜が来ると窓ガラスは鏡になるからなおさらだ。
 急いでカバンを持ってゴミを捨ててイルは自動ドアが開くと同時にちょっと小走りになると息が切れて、立ち止まると後ろから肩を叩かれたのでビックリしたらコウだった。一緒に帰ろう、というコウの声に黙って頷いてそのまま家の方へ歩いていくのだけれども、その間、イナイは少し先を歩くアキをなるべく視界に入れないようにうつむいて、アキの声を聞かないようにヘッドホンを耳にあてて歩くし息を止めたら声はでない。運がよければそのまま死ねるかもしれない。アキはそれに気がついているとわかっていたから死にたい。コウは一緒にいるのにさもひとりで歩いてますといった態度のイルが何を考えているのかわからないし、そもそも考えてもいなかったのだから口笛を吹いていて、イルははじめてずっと使わないヘッドホンが役に立ったのだから少しうれしい。

 四人で囲む食卓には慣れない。お父さんの名前は覚えられないし、今更聞けないけれども、「お父さん」と呼んでいればいいのだったから気にしないし、そもそもお父さんとは会話をしない。共通の話題なんてないし、あったとしても朝ご飯と晩ご飯のメニューの話だからする必要もない。ごはんを食べてるときにしゃべるのはトモで、学校であった出来事を一時間目から順番にぽつぽつごはんを食べ終わるよりも長い時間をかけて話すそれは会話と言うより報告だ。お父さんは聞いてるのか聞いていないのかわからないし、そもそもお母さんにとっては知らない子どもだ。
 食器を洗う水に中断されながらも続いていく話は、たとえば魚の話で、トモの話すその声に抑揚もなにもないのだったから発声で、一語一語がとても正確だったのだから何度も暗唱して憶えたのかそれともトモがしゃべっていないのかのどちらかだった。
 イナイがトモのとき、やっぱり学校の国語でその魚を読んだしそれなりに憶えている。短い話だったから暗唱させられるクラスもあってイルのクラスがそうだった。けれどももう暗唱はできない。暗唱した記憶が、物語の概要を教えてくれるだけだった。
 魚はある女の子の夢のなかに出てきてそれはとても黒いのだったから、夜の闇にすっぽり溶けてしまうから見えない。でも女の子は夢が夢だと知るにはずいぶん幼くて、それは現実に起こった話として友だちに話すから、だれが一番最初にその魚を捕まえて学校に持ってくるか競争しようと言った男の子が、先生に話して教室の一番後ろの席の水槽に水を入れると、次の日に魚が入っているけど黒くないからそれは嘘だった。魚が黒くないことを知らないのは、魚の話を知っているひとのなかで一番情報の遠いところにいた先生なのだったから、みんな先生をすごく嫌いになった。先生が転勤になったのは、その事件のせいだった。クラスの男の子のひとりが「昨日ぼくがここにその魚を入れたのに、いまここにいないのはこの大きな魚が食べてしまったからだ!」と叫ぶととても泣いた。あの魚は夜に見えなくなるくらい真っ黒だからこそ、昼間はどこにいても目立ってしまうし、いまここにいないのは食べられたからに違いない。他の男の子や女の子もそう信じて疑わないのは、水槽のなかを緩慢に泳ぐ魚はスーパーや魚屋で誰もが見たことのある名前は知らないけど知っている魚だったからだ。
 先生が悪いと問い詰めるためには一人だけじゃとても力不足だったのだからみんなは束になって大人になる。子どもが二十人も集まれば大人よりもずっと大きいけれども、それだけじゃ足りない。子どもが集まって大人になるためにはどうしても最初にその黒い魚を見た女の子が必要だったけれども、女の子はそれが夢だったと分かるぐらいにみんなを残して成長してしまった。だからみんなの力になって上げることができなくて困った。
 そこでイナイの記憶は終わった。でもそれはトモの話すそれとはとても違っていたから、イルは食後にネットの友だちに聞いてみると、
「先生は競争してるなんて知らなくて、ただみんなが魚を飼いたいだけなのだと思って気を利かせたんだとわかるのにみんなは卒業までかかって、そのころ先生は知らない学校に転勤になって学生時代から付き合っていた女の人と結婚して幸せになっていた。中学を卒業するとみんなその先生を忘れて幸せになった」
 と教えてくれたのだけど、それも違った。みんな忘れているのかもしれないと思うのは、トモの確信を持った語り口のせいで、聞いていると眠くなったのだからトモの話した物語はわからない。
「お風呂に入りなさい。お湯ももう少ないし」
 お母さんの声はいつもと変わらなくて、イルはお母さんの眼に映った自分を見るといつかわたしも子どもを生むんだと思った。お風呂はイルが最後だったのだから掃除しなくちゃいけない。自分の部屋からパジャマと下着を持って脱衣所に行く前にトイレに入ると入れ違いのトモが袋を持っていてそれにはイルの澱物シートがたくさん入っているのが明らかだったから殴った。グーで殴った。殴りなれてなかったから拳がじんじん痛んだ。
「男の子は、そこに入ってきたらぜったいにいけない!」
 ゴミがあると捨てたくなるひとは珍しくないし、イナイも例外ではなかったけれども、イナイは男の子だったのだから、自分の矛盾に気がついて怖くなるとトモは無表情で床に倒れた体を持ち上げたその緩慢な動作はまるで笑っているようだった。
「ぼく、殴られたこと、ぜったいに誰にもしゃべりません。安心してお風呂に入って眠ったら幸せに忘れることができますから……」
 イナイはお風呂に入って眠る前にネットで自分の気になることを聞いてみようと思ったけれども、何が問題なのかわからないから、朝までずっとパソコンの前に座っていると眠れなかった。お父さんはその間に朝ご飯を食べて出て行った。トモも出て行った。お母さんはテレビを見ているけど、イナイがずっと出て行かないことを気にしない。このままみんな離れていくだろう、アキも、昨日イナイのところから離れて行ったのだからもう一人かもしれない。学校に行く気は起きないけれども、ずっと家にいるとそのまま寝てしまって時間が勿体ないと思ったから着替えて外に出ようとするとテレビの音はしないしお母さんはいなかった。もう合わないような気がしたらそれが事実になった。イルは昨日からずっと持っているゴミ箱のなかにあったノートの切れ端を見ながら、何度かコウにメールしようと思ったけどそうできないし、こんな時間なのにイルが学校にいないことを不審に思って連絡してこないコウのことを考えるとやっぱり虚しかった。たぶんもう誰にも会わない。そう思いながら適当に3560円分買った電車の券だったけど、150円区間で降りたら、みんな無言で歩いていて寂れた薬局のおじさんがタバコを吸っているのさえ悲しかった。
 行き先は飛行場に決まっていた、そこしかなかった、たとえイルが望まなくても足はそこへ向くし音の出さないヘッドフォンも首に引っかかっている。
 飛行機の飛び交う下のそこは、海が枯れてしまったみたいにひらけていたからそこは海だったのかもしれない。土を掘ればその証拠が出てくるかもしれないけどスコップは持っていない。ひとまずわたしはいまから子どもを生まないといけないから乾いた草をたくさんちぎって集めてそこに横になるぼくは、ほんものの女の子の体をできるだけ正確に想起しようと思えばアキだったから悲しい。想像した体に触れるための手は、指は、はたしてどうやって作ればいいのかわからないのは誰も教えてくれなどしなかったからで、わたしに触れてくるのはきっと魚だ。魚は泳いでこっちにやってくるし、それには一切の躊躇もないのだからきっとそのようにして何年も何百年も何万年も生きながらえてきたのだろう、土の下はきっと魚の死体でいっぱいで、ここの土は魚の肉の分解された物でできているのだったから、ぼくはわたしがこうして少し泣きそうになったりしているときにもコウのことを思い出すのだったから、ヘッドフォンを耳に当てるとイルとイナイはずっと出会わないまま結ばれた。
 学校の名簿からはイルの名前もイナイの名前もなくなった。イルは転校しました、イナイは転校しました、みんなのきっと知らない街で元気にやってますし、それは海のなかかもしれませんと先生がいうとみんな笑った。この国は島国だけど、ここは海からずっと離れているしひとによっては十五歳になったいまでも海を知らない。海のある街に住んだことのある子は言った。
「ぼくの小さいころ、よく海を燃やして遊んだんだ。海を燃やすと緑色の光がぱちぱち弾いてそのあと水は全部蒸発するとたくさん魚がとれる」
 海を燃やして魚をとった後はどうするのと聞けば彼はこう答えた。
「それは地図の上から消えてしまうけど、せめてずっと忘れないように物語を作って一生語る」
 コウは受験勉強が忙しくなって、アキはあーちゃんと帰るとお母さんの料理を手伝ったら褒められたのだったから、悲しいことをひとつ忘れることができた。
 最初で最後の出産は難産で、痛みに失神するとぼくとわたしはそのまま死んでしまった。海の底にやってくるひとなんていないのだから誰にも見つからなくて、誰にも見つからなかったからこそわたしのぼくの子どもは食べ物に困らなかった。ぼくの肉がなくなればわたしの骨をしゃぶり、それもなくなれば土を食べた。一度に生まれた彼らは二十三匹で素数だったからぼくはうれしい。数学は嫌いだったけれども、そういう偶然になんらかの喜びを持とうとすることにこそ価値があると信じたら子どもは正しく育つけど、ひとつわたしの申し訳ないことは彼らに物語を読んであげられなかったことだ。せめて、彼らが魚の形をしている理由だけでも語り聞かせてあげることができればどれだけ幸福だっただろう! 小さいころに行った科学ミュージアムのたくさんある実験器具は実験器具というよりおもちゃで、たくさんの子どもたちがしっちゃかめっちゃかにして遊んだ数時間後にもう一度通ればそこは色あせたペットボトルや駄菓子の袋のたくさん落ちた海の底で少し悲しいね! どんな環境でも、そうやって笑ってくれればわたしは嬉しい。

 

 飛行場の下はそうやって枯れた海になった。
 子どもたちも大人になると死んで土になるのだから、いまや枯れた草木の一部となってもう一度土になる。
 それを悲しいと思ったみんなが毎年夏の飛行機雲がたくさんきれいに見れる時期になると、海を燃やして、イルとイナイのことをずっと忘れないけど、百年も経てば憶えてるひとなんて誰もいないのだった。

 

(了)

 

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