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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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現実への援用として、あるいはピグマリオンの彫刻としての私小説/山本浩貴+h「草のあいだから」(文鯨2号掲載)

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山本浩貴+hというちいさな小説家について、ここでぼくがかれをどう認識しているか、できるだけ正確に書いておきたい。

 

もっとも影響をうけた作家はだれかというありがちな質問に対し、ぼくは決まってトマス・ピンチョン、リチャード・パワーズ、そして山本浩貴+hの名前をあげるのだけど、すると(極めて不本意なのだけれど)決まって失笑されてしまう。山本はまだ大手文芸誌で作品を掲載されたこともないわかい、そしてアマチュアということになるこの作家だけれども、しかしその深い思考と内省、(年齢に対してずばぬけて)豊富な読書経験、そしてなによりもそれらを実作に還元する力に関して、はっきりいってしまえば既存の「プロ」の作家をはるかにうまわまっている、とぼくは確信している。かれ自身、ぼくがこういうことをこうしてひとの(そしてじぶん自身の)目に触れるところで堂々と書かれてしまうことは本意ではないだろうけれど、できるだけはやいうちにこれはいっておかなくてはならないとずっとおもっていた。

もちろん、かれ(ら)の作るものが、小説というものをもっとも切なるものだとは考えないひとたちが完読できうるものかという点で、正直まだ課題は山積しているとはおもう。そして書かれることばやエピソード、それらが結晶化することにより生まれる物語が、語り手の支配下にありすぎてしまっているというもどしさもある。ただ、そういうものはいま最良のものを書こうとするなかでいずれ自然と解決される問題であるのと同時に、実践としての文学としては究極的には副次的な問題でしかないだろう、とぼくはかんがえる。特定の一作によりそういった問題が解決されるより、作品の系譜を自身で作り上げることにより時間を経て解消されたほうがいいようにおもえてならない。

 

かれはクラウドファンディングで資金を募り発行されたという文芸誌「文鯨」に短編小説を寄稿している。

twitter.com


このエントリーではその小説について、ぼくがどのようなことをおもい、考えたかを書き、また「私小説」というもの一般のことを考えてみる。

 

目次

 

短編「草のあいだから」の物語構造

この小説の冒頭では、まずみっつの詩が引用されている。
(「神さまの誕生日」「次に住む人」「すべての屋根が」と題された詩は、作者である山本がじっさいに活動している集まり「いぬのせなか座」から発表された鈴木一平の詩集「灰と家」に収録されている。)
そしてこのみっつの詩が、その「いぬのせなか座」を結成する機会となった出来事「友人mの自殺」についての連作詩であると、先輩のs(=鈴木一平とおぼしき人物)から最近知らされたということから、この小説は「私(=山本浩貴)」によって語り始められる。
以降、小説は私小説の形態をとりながら、友人mの死を起点にして、言語表現についての思索、自身の作品系譜への言及、友人mの両親との食事会、自身の子どものころの記憶、「いぬのせなか座」の活動というものが連続的に喚起されながら、死生観へと向かっていく。

inunosenakaza.com

 

死生観をのりこえた場所

生きるということはなにか、死というものはなにか。そういう思索は「ありふれたもの」ではあるけれど、しかしかれが目指しているものはおそらく「個人の生き死に」ではない。どうしようもなく生きてしまったぼくらというのは、いつか死んでしまう運命にあってしまう。これはぼく個人の考えだけれど、おもうに、おおくの小説や小説じゃないもので語られる死生観というのは、この生命的な拘束からほとんど逃れることができないでいて、だからこそどれだけプライベートなことを語ったところで、その死からとおく距離を隔てたところにいるひとは「ありふれたもの」として回収してしまい、また、ひとの生き死にが無条件にもたらしてしまう感傷は、たとえどんなに「ありふれたもの」ともおもえることでさえも、その陳腐さを肯定してしまう。感傷や懐かしさによりどれだけ感情や思考の運動を促してみたところで、究極的には、感傷や懐かしさによりひとつの生、ひとつの死、そういったものの重力圏から抜け出すことができないのならば、それは死生観を見出したことにはならない。

作中で、「私」はアルバイト先の出版社で大江健三郎の小説「二百年の子供」についての短評を求められた際、自身が飼っていたいぬの「クッキー」の死と、「二百年の子供」で登場する人物が、タイムスリップした世界でもといた世界で飼っていたいぬとおなじ名前「ベーコン」をつける、といったことを重ねながら、このように書いている。

 

過去や今といった無数の時間にばらけた環境は、単なる石ころにおいても考古学的な痕跡として掛け合わされうるが、私とは、それよりもずっと多重的かつ誤って掛け合わせが行われうる点であり、死とはその掛け合わせが一息にばらけてしまうものである。逆に言えばそのような時空間的運動が、極度に多重的に誤って生じうる場こそが私や魂だ。そして環境の掛け合わせは「あれはベーコンだ」とまったく時空間の異なる環境に属する別々のいぬにともに指す行為においてたとえば露呈する。私はベーコンのいる環境を見ないが、ベーコンを見ているのはそこにここではないここが重なっている。大江は自殺した友人について思考する小説のなかで、私の妻であり友人の妹である女性が、自殺した友人を新たに産みなおし、それを自殺した友人として「見間違え」ようとする、その「見間違え」の根拠になりうる「本当のこと」をこそ作り出すことで友人を死んだままに救助しようとする。言語表現はそうした環境の掛け合わせの様態をひたすらに書き、それを使い、世界から見つけて、新たに作り出すことで思考する、ほとんどそれしかできない。


山本浩貴+h,「草のあいだから」

 

ここで展開される思考は非常に複雑で、あらゆることが同時に語られている。大江の「二百年の子供」と飼っていたクッキーだけでなく、それにみちびかれた大江の別作品で起こった現象、そしてその現象により暗に示唆される「友人mの自殺」、生と死のどちらか一方の立場をとろうとせず、むしろ生や死、過去・現在・未来といった抗いがたいものを乗り越えた場所として「言語表現」を結実させている。山本という書き手のもっともオリジナルな部分はここにある、とぼくは考えている。

二百年の子供 (中公文庫)

二百年の子供 (中公文庫)

 

 

「私小説」と「ガラテア」

作品構造でも言及したが、この作品は書き手が作中の語り手「私」と同一視できる私小説だと読むことができる。ぼくはもともと(そしていまも)私小説に対して冷淡な人間で、プロであろうがなかろうが、この種の小説群には小説が言語表現であるという自覚を著しく欠いている印象が強いからだ。

たとえばこの作品について、(山本を知っている人間であればなおさらなのだけれど)非常に多くの事実が作中に登場し、また山本を知らなくても、語り手=書き手の構図、ならびにかれの作品群や「いぬのせなか座」、友人mの死など、この作品を支える要素はネットで調べれば容易に確認できる。そしてそのことは「この小説のリアリティ」を非常に強く担保するものであると同時に、「小説としての想像力」を大きく欠いてしまうという危険性をはらんでいる。小説とははたして、現実的な手触りと、そして興味深い思考、おもしろいエピソードさえあればそれでよいのだろうか?

ぼくがおもう「言語表現としての自覚の著しい欠如」とは、この部分に無頓着でいることを指している。小説というかたちをとるにあたって、作者が何者であるかということは、どのような小説なのかということと無関係であるべきだと、ぼくは考える。現実に起こったことを小説で書くのならば、きっと小説は現実を越えることができない。それは、小説はという現実では経験不能な「特別な場所」を否定する態度をとることになるんじゃないか。ぼくの私小説への嫌悪感はここにある。
無論、「草のあいだから」はたしかにこの私小説特有の無頓着さから完全に逃れきれてはいないと感じられるものの、それに抗う創意に対してはかなり自覚的だ。それは、作中で山本以外に唯一イニシャルではなく名前を与えられている「都築」という、映像表現を行う旧友の存在により明確に示されている。

作品内での呼び名という記号により他とは差別化された「都築」は、「私」がいる東京とは遠い街(新潟)で生活しながら、Dropboxを使ってみずからたちが書いた文章・映像を共有し、表現についての意見を交換する、極めて「私」にちかい人物として描かれている。この「都築」というのは実在しない人間だ(山本本人がいうに「はんぶんくらいはモデルにしたひとがいるけど、実在はしない」)。そしてこの作品でなにが書かれているかということを考えるうえで、おそらく、
「なぜ都築という架空の人物が設定されたのか」
ということが重要になるだろう。 

ぼくはさっき、
「小説は、現実では経験しえないことを経験するための特別な場所としてあるべきだ」
といった。その特別さとは、この小説においては、
「現在の私が現在の私として現在の私と対話すること」
にあるだろう。大江健三郎の作品論を起点に「懐かしさ」というキーワードを持って、死んだ友人や「私」の地元、一緒に文章をつくるhさんの地元など、「私」が「思い出す」ことであらゆる過去のじぶんや他者と対話・交感することはできる、しかし、それだけではできない対話・交感の対象が現在の「私」だ。「私」というのは常に同時にあらゆる世界を想像し、その無数の世界で別々のことを考えている、という山本のドイチュ的な多世界観が先に引用した文章のように注意深く言語の身振りとして現れている。しかし時間によって即座に過去化される点的な「私」では、他ならぬ「別の現在の私」へ接続されない。このレギュレーションを解消するために導入されたのが「都築」であるとぼくは読んだ。
この小説内の認知の拡大を意図して挿入された虚構はいったいどこへ向かっているのか。

小説を書くという行為において、作家は虚構世界の担保のために現実を挿入することがあるけれども、「草のあいだから」の特異性はその逆のスタンスをとっていることにあるようにおもわれた。すなわち、
「現実をより広く認知するために、虚構を援用する」
という立場だ。友人mの死という現実、言語表現という現実についての個人的な思考をより深めるための小説……「草のあいだから」がどのような小説なのかということをひとことで述べるなら、乱暴ではあるがこのようないいかたになる。そしてそれは紛れもないこの小説をオリジナルなものとしているけれど、同時に強い排他性と個人的な感傷による脆さにもなっている。そういうものが悪いとはいいきれないけれども、それはこの小説が「工夫のない私小説」として読まれかねない要素をはらんでいるように感じられる。

 

私小説という技法に関してもうすこしだけ。

山本がこの手法を用いて創作した小説について、技術的になにかを語ろうとするならば、かれが集中的にとりくんだ大江健三郎論とかれのレイトワークについて参照するのが望ましいだろうけれど、ぼくはそこまで大江にあかるくない。

そこで、ぼくが大江よりは馴染みのあるリチャード・パワーズの擬似私小説「ガラテイア2.2」について触れておく。

ガラテイア2.2

ガラテイア2.2

 

 

この小説では、語り手の「僕」=「リチャード・パワーズ」という構造をとり、自身の作家としてのキャリアと恋人との生活、そして文学批評できる人工知能(ヘレン)の教育が交互に描かれる。
「僕」はヘレンに対して膨大な量の「読書」を経験させ、ヘレンは独自の感情めいた挙動を見せるようになる。いうまでもなく、このヘレン(=「僕」にとっての「もうひとりの僕」=アップデートされた「僕」=他者)は「草のあいだから」の「都築」に対応する。
パワーズは「ガラテイア2.2」について、このようなことをいっている。

 

ガラテアを書いていて楽しかったことの一つは、機械じかけの知能にも、人間と同じだけの幅広い経験が必要になる、ということあ徐々に見えてきたことです。作品の最後にさしかかると、作品自体が、ある種の人工知能になってきます。作品に登場する「ガラテア2.0」は、読者が読んでいた、改訂版の2.2にとってかわられます。読者がこのおはなしを信じるためには「どのようなフィクションも読むことのできる、神経細胞のようなネットワーク」が存在することをひとまず信じる必要がありますが、そういう判断保留を通して読者は、より大きなスケールで自己省察する機械を得ます。つまり、百科事典のように濃密な、自分自身の人生を通じてでなければ、今読んだこの本の意味など、決してわかるはずもなかった、ということがわかるようになるのです。自分の知性を独立した機械に移植したい、という欲望とは(ある意味で、テクノロジーの歴史すべてがそういう欲望に浸されてきたと思いますが)、結局のところ、われわれいかに自分自身の物語と葛藤状態にあるかを明らかにするファンタジーといえます。


柴田元幸編集,「パワーズブック」

 

パワーズ・ブック

パワーズ・ブック

 

 

 

結局は、小説をつくるという創意は「そのなかでなにをつくるのか」で集中することになるだろう。そしてそれは作家がつくった小説でさえ無数の自分自身や他者の形態をとる。それはピグマリオンのつくった彫刻(ガラテア)そのものであり、書き手により、読者により無数につくられていく。

私小説という手法は、過去の私は読者がその文章を読むことであらゆる「私」や「他者」が無数の等号で繋がれ巨大な星座を描くだろう。そしてぼくらは小説のなかでその星座に恋をするのだ。

 

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