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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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小説「暴君アヴァレンティヌス」(原稿用紙94枚)

創作小説

ちょっと長めの短編を公開します。

 

短編「暴君アヴァレンティヌス」(原稿用紙94枚)

 子どもをお風呂にしずめて殺した二十八歳の母親が、護送される車のなかで肩をこわばらせてうつむいている。
 テレビに映るその光景にナツキは一週間分の離乳食を作る手をとめた。画面のなかでは すでにつぎのニュースが報じられている。息子が障子を蹴破った。不倫をした芸能人が記者会見で大量のフラッシュをあび、網戸にしがみついた蝉のさけび声が日没前のにぶい晴天を引き裂いた刹那、ナツキはまな板のうえの一片5mmの立方体のにんじんが息子ののどを通らない可能性に鈍感になれた。
「こいつ?」
 帰ってくるなり夫は破れた障子をゆびさす。へらへらとゆるみきった口元は「おれは障子を張りかえるつもりなんてない」というこころのあらわれだとナツキは夫よりもわかっている。さっきまでわらっていた息子がまだできもしないつかまり立ちに失敗して転んで泣きだすと、へいボーイ! ナイス邪知暴虐! といって夫は息子を抱き上げる。夫は息子をアヴァレンティヌスと名付け、つかれたとひとりごちるかれをナツキはクタビレアヌスと名付けた。アヴァレンティヌスはいっそう大きな声で泣いた。
「さいごにミルク飲んだのっていつ?」
「四時間前。保育所で。いまから飲ませて、お風呂入れて、そのまま寝かしつけて」
「どんくらい?」
「220ml」
 父の腕から布団の上に降ろされたアヴァレンティヌスは即座に寝返りを打ち、一ヶ月前に覚えた腹ばいでするすると和室を抜け出すと、台所に立つナツキの足元まであっというまにすり寄ってくる。電気ケトルのスイッチを入れたクタビレアヌスがナツキの足を下前歯で甘噛みする息子をひょいっと抱き上げ、米米CLUBの浪漫飛行を歌いながらリビングのソファにふたりぶんの体重をあずけた。ご飯をよそうとナツキは冷蔵庫から発泡酒を取り出し、
「それじゃあとはよろしく」
 と、いきおいよくプルタブを引っ張る。
 二年ぶりの飲酒だった。

 

 息子が産まれたのは七ヶ月前の一月十三日、その日、実家に帰っていたナツキは夜明けに起こった予定外の破水を夫にLINEで伝えると、およそ五年ぶりの一人暮らしを絶賛満喫中のかれはその日の仕事を休んで病院までかけつけた。破水してから十二時間経ってもいっこうに陣痛はこず、気配すらなく、夫は待ちくたびれてあくびをかみ殺すことすらやめてしまった午後八時に面会時間終了うんぬんで病院から追い出された。
 陣痛がはじまったのはその三十分後、あと一時間陣痛が来なければ促進剤を打とうかと話した直後だった。近くには国道沿いのファミリー層を想定した大型回転寿司チェーン店ぐらいしかご飯をたべるところがなく、夫はナツキの両親とともに寿司をつまんでいる最中に病院からの電話を受け病院へと舞い戻り、出産に立ち会った。三二〇〇グラム。その際におこなったクリステレル児頭圧出法という名前を、夫は正確におぼえた。ナツキにいわせればクタビレアヌスはバカなのでながいカタカナをやたらおぼえたがる。予定日よりも二週間早い出産だった。
「父ちゃん母ちゃんに似てせっかちやなー」
 うっ血して顔面青紫色の産まれたての我が子を抱き上げた夫の顔にも声にもどこか表情がなく、どうやらよろこびのテンションを寿司屋に置いてきてしまっていたようだった。
「いえいえ、むしろ親孝行ですよ。年が明けてから成長のペースが上がったので、二週間早くてちょうどよかったぐらいです」
 慣らし保育が始まったのは八月一日で、ナツキは翌月の九月一日に復職を控えている。盆前にちょうど八月に配属されたばかりの中途社員の歓迎会をナツキの復帰祝いも兼ねてしようとおもう、との旨の社内メールがiPhoneに転送されてきた。そのディスプレイを夫にみせ、
「いっていい?」
 ときく。クタビレアヌスは、
「あっ……」
 といったあとに、
「うん」
 といった。

 

 もともと子どもはすきじゃない。とはいえきらいでもない。そもそも子どもがすきかきらいかをかんがえたことがない。ナツキは塾講師のアルバイトを大学の学部と大学院だったころに六年間していたけれど、接する子どもたちは子どもではなくあくまでも生徒で、その一人ひとりの善意や悪意を「子ども」というフィルターを通してみることはあまり感心しなかったし、なにより、子どもたち自身がそのように物事をみるようになってほしくなかった。彼女自身、じぶんのそのような声に出したことのない感情めいた思想が自己矛盾をはらんでいることを自覚していて、だからこそというのか、意識的に「子ども」という集団を統計的な観点から「すき」だの「きらい」だのかんがえないようにしていたのかもしれない。
 しかし、いざ子どもが産まれてみると、なかなかそういうわけにはいかない。ベビーカーをおしてひとたび外を歩けば、道行く見知らぬ老若男女が息子に笑顔で手を振り、なかにはナツキにかるく会釈をしてから話しかけるひともいる。そういう状況の中心にほどちかい場所に置かれると、「子ども」というものについて、なんらかの価値観を持つことを迫られたような心地になる。そしてその価値観とはすでに決められている。「子どもは絶対的にかわいい」。それゆえに絶対的に保護されなければならないし、絶対的に愛されねばならない。子どもの存在は絶対的におとなを救い、絶対的に社会の希望である。すこしばかり極論ではあるけれど、それまで「子ども」というものに特定の価値観を持たなかったナツキにはそれくらいでちょうどよかった。出産をくぐり抜けた作家はひとの死が排除されたしあわせな物語を書き、ミュージシャンは長調のしあわせな歌をうたい、画家はゆたかな暖色で構成されたしあわせな絵を描く。そういうものなのだ。
 じぶんよりはやくに出産を経験した大学の同級生のサツキは、
「この病院で一番かわいいのはうちの子」
「すれちがった子どもが不細工だったら、すごく絶望的な気分になる」
 といったようなことを半ば冗談で話していたのだったけれど、ナツキもいざじぶんも子どもを産み、「子ども」の絶対的な価値観を身につけることで、彼女たちのいっている意味がすこしわかるようになった。その矢先だった。
「もっとゆっくりすればよかったのに」
 復帰祝いを兼ねた歓迎会の席でナツキが上司にこのようなことをいわれたのは。
 無論、そのことばには悪意などないのだろうけれど、きこえかた次第で「お前は職場に必要ない」ともとれてしまう。上司は続けていう。子どもは大丈夫?
 時短勤務はせずにフレックスタイム制を使って出勤時間をはやめ、通常保育の十八時半にはまにあうようにするつもりで、朝は夫にまかせている。いまのところ、最寄駅から徒歩五分の保育所へ夫は機嫌よく息子を送り届けていているようだけれど、子どもがいる上司や先輩たちはみなその話にこぼれそうになった苦笑いを、四千五百円三時間飲み放題のビールで薄めて飲み込んでいるのを隠しきれていない。会社としても女性管理職の比率を一〇年後にはいまよりも一〇パーセントはあげないといけないミッションが人事部にはあるようで、早期のフルタイム復帰は表面上歓迎されている。しかし、シチュエーションの瞬間的な変化に対し同僚たちの感情が即座に対応できることはないようで、そのことに関してはナツキもはなから期待はしていなかった。ただ、否応なく嫌悪感は湧いてでる。
 飲み会は続く。旦那さんはえらいね、なにかとお金もかかるからね、などなど、定型化された物語を焼き回して可能な限りの共感をすり寄せてくるけれど、どれもナツキの家庭にあてはめるには解像度が粗すぎた。アヴァレンティヌスがひと足はやく力つきて眠ったあと、一日の最後の力をふりしぼって発泡酒のプルタブを引くクタビレアヌスは、保育所に落ちたらじぶんが育休を取るといっていた。ナツキもかれもいわゆる出世欲なんてものは持ち合わせていなかった。仕事に対する熱心さはむしろナツキのほうにあった。収入もナツキのほうが上だった。クタビレアヌスとは大学時代の同級生でともに大学院まで進学し、ナツキは修士課程を出たあとに第一希望の現在籍をおくメーカーで開発職に就き、クタビレアヌスは博士課程に進学した。学者になるらしかった。就職・進学から二年経って結婚の話が具体化してくると、かれはいつ世界のどこにいるかもわからない職も困るだろうとすっぱりと学者の道を諦め、転勤のない勤め先を探し、まったく専門と縁のない中小企業に採用されていまにいたる。ナツキはわるいことをした気分になった。結婚、ということばを先に出したのは彼女だった。
「それはそれ、これはこれ」夫はいった。「ぼくにはそもそも力が足りてないし、ぼくがやりたいことは大学にいなくてもできるから」
 かれのこのことばをどの程度信じてよかったのか、当時もいまもわからない。しかしことばを重ねることでふたりのあいだで「ウチはウチ」のかんがえ方を共有はできた。もっとも、ともに田舎の長男長女だったせいか、双方の親から完全な理解を得るには至らなかったが。
 早期の復職を決断した一番の理由は、ナツキのメンタルだった。産前休暇がはじまった直後、読まずに積み上げていたマンガや公開時期を逃した映画のブルーレイを大量に実家に持ち込み、長大な時間を迎え撃とうとしたものの、三日もすれば苦痛はやってきた。四日目、目の前には当然いまだ消化できていないマンガやらブルーレイがたんまりあったのだが、その山じたいがこの空白の時間を可視化したもの、どころか、むしろその背後にも控えている膨大な時間をおもいしらされた。ナツキはひとり家にのこる夫に、
「ひま」「死ぬ」「脳みそくさる」
 とLINEを送ると、
「芋粥」
 とかえってきた。曰く、それは芥川龍之介の短編で「いくらすきなものでも大量にあると苦痛をかんじるものだ」ということらしい。しかし、クタビレアヌスはひとつまちがいを犯していた。ナツキはひまを好んではいない。
 友人のサツキは、出産前一ヶ月は人生でもっともすることがなく、産まれてから一年はものすごく忙しく、ありえないほどひまだといった。そしてこうもいう、
「それはもう、ほとんど拷問みたいなもんだよ」
 酒の席では当然のように休職中の生活のあれこれをきかれ、ナツキはサツキのことばをそのままなぞった。
「産まれたら産まれたで、今度は子どもが起きているあいだはなにもできなくなるから、時間の流れが止まってしまったみたいにかんじるんですよね」
すると、向かいの席で終始へらへらはにかんでいる中途社員のワロリンティヌスがいう、
「うち、結婚して一年なんですけど、そろそろかなって」
「奥さんはなにをしてはるんですか?」
 話の流れとはいえ、初対面でいきなりプライベートな話をされても困る。
「専業主婦です。結婚して、一緒に住むことになってからは仕事をやめてて」
 そうなんですね! とあらん限りのコミュニケーション能力を詰め込んだ笑顔と声色をつくると、
「ほなようさん稼がなあかんな!」
 という声がした。だれがいってもおかしくないし、だれがいっているかもわからないくらい、だれにとってもどうでもいいアドバイスだった。そこからグダグダになったところで、ちょうど席の時間がきた。
 家に帰ると、アヴァレンティヌスはうつ伏せでぐっすり眠っていた。うつ伏せで寝ているときは三分おきに寝息が聞こえるかを確認するようにしているけれど、うつ伏せで寝るのが癖になってから、確認は五分、一〇分、気がついたとき、とかわっている。アルコールが抜けきっていないぼんやりした頭でも、息子の呼吸の確認がずさんになっていることが脳裏をよぎると途端におそろしくなってしまう。親指をくわえた小さな口元に耳を寄せると、一瞬の無のあと小さな吐息がかすかに肌をかすめ、ナツキの心臓が痙攣的な拍を一度だけうった。
「どうだった?」
 パンツ一枚でソファにからだをうずめ、特にすきでもないプロ野球ニュースをみていた夫がいう。
「ん、フツー」
「どんな話したん?」
「あんた、ようやるなぁって」
「どういう意味?」
「現代的、みたいな?」
「ああ。まぁ、おかげで弊社女性社員からの評価は急上昇ですよ」
「浮気でもすればよくね?」
「世間体クライシスやんけ」夫はソファから重たげに腰を上げる。「仕事の話とかはした?」
「や、ぜんぜん」
「飲み会で仕事の話が出ないのは、いい職場って証拠やん」
 冷蔵庫を開け、夫は発泡酒を二本とりだした。

 

 産まれた直後に父の足もとに置かれ、抱き上げられてからがかれらの生のはじまりだった。それは裕福な家の子であったこの男もまた例外ではなく、あまたの子どもたちが学校で暗唱する十二表法のぜったいはうたがうことすらゆるされていなかった。
 紀元前四〇〇年あたりを生きた男はしあわせなことに父からの抱擁をためらいなく受けた。しかし、いくら時代が裕福で、子どもを持つことがゆたかさとしあわせのしるしとされていた社会のなかでもその生を受け入れられなかったものはすくなくなかった。となり街の男とおなじ日に産まれた女の子は自宅の地下にある水桶にこっそり沈められた。彼女が生きている世界だったなら、彼女は美しい名前をあたえられ、美しい衣服をまとい、やがて男との情熱的な恋におぼれるのだったが、運命さえも触れることのできないちいさな偶然が、まだ人類が知る由もなかった宇宙のかなたのちがう星のできごとにしてしまった。男が気まぐれの死に対して生涯涙を流すことも、祈ることすらもゆるされなかったことを、めぐりめぐって歴史を記録するものたちによって運命と名付けられたのだった。
 とおくの街でだれよりも知恵をもった老人が偽りの神々の信仰を広め、だいじな戦いにふしあわせな敗北をもたらしたとして殺されてしまったことを知らせる友だちからの手紙が、ある日、詩作や哲学にじぶんの生をゆだねんとしていた若い男のもとへ舞い込んできた。一度だけこのだれよりも知恵をもった老人に会ったことがあり、かれの類稀なる知性におおきな感銘をうけていた男はいてもたってもいられなくなり、着の身着のまま、かれの住む街へ三十日かけて向かった。そのころ、街のひとびとはじぶんたちの過ちをなげき、すべての告訴人を処刑しつくしたあとだった。涙のようななまあたたかい雨がふっていた。
 こわれた家を直していた手紙をくれた友だちと落ち合った男は、かれからだれよりも知恵をもった老人のさいごをきいた。かれはいっさいの弁解をおこなわなかったし、それどころか牢の鍵を開けても逃げようとしなかった、あの日、あの毒を飲む日だった、かれが腐敗させたといわれた青年たちをじぶんのもとへ呼び寄せ、生を生きることを語り、そしてその生のなかで死を死ぬこと語った、それが知というものだと、かれは語った。
 世の果てと化した街で、道行くひとびとはからだと影をいれかえていた。ただひとつあった広場で腰をおろしていた男の眼の前で、女のひとがとつぜん衣服を剥ぎ取られたが、彼女は抵抗はおろか声をあげることもなかった。赤ん坊の声が急に上がり、ぱたりと消えた。しかし滞在も三ヶ月目になると、なにごともなかったかのようにひとびとはからだをとりもどし、雨も涙とはとおくなった。ひとびとはすこしだけ醜いすがたかたちとなり、年老いていた。浴場の湯がにごった。

 

 五年前にギリシャ、エジプト、ローマの各地でほとんどときをおなじくして発掘された古代の浴場の地下には、ちいさな子どもたちのおびただしい亡骸がかれら死を死ともおもわれないかたちで打ち捨てられていて、それはどんな視点をもってしても埋葬とはいいえない光景だった。血などとうに乾いていたけれど、考古学者は真新しい血のにおいに頭がくらくらした。抱き上げられることのなかった子どもたちのためのお墓がちかくのなにもみつからなかった発掘場に二〇〇〇年の時を経てつくられた。
 そうすることで子どもたちがはれてひととして認識されたことになったかもしれなかったが、だれかがよろこぶというわけでもないし、それに、死者たちはとうに死を死んでいてじぶんたちの生を自覚する知恵すらもなかった。いまでいえば、父親に抱きあげられることのなかったものたちを愛するのは動物愛護団体の仕事でありえた。ナツキはそうおもう、わたしがアヴァレンティヌスにたいして注いでいる愛情は動物的なものだ。はやい乳ばなれをきっかけに飲酒を再開すると、この星を生きる肉体がごっそりかわってしまった。だれにでもわけへだてなく愛くるしい笑顔を振りまき、まだ広がりを持たないかれの世界である部屋のなかをはいずりまわり、舌足らずの口でなんとかマ行の音を発するかれがみずからの腹を痛めて産んだ我が子なのだという自覚はつよくある。しかしかれは人語を介さないし、素朴な絵本を読んでも、かれの名前を呼んでみても、そういったコミュニケーションは一方通行で終わる。息子を愛するためにはじぶんも動物であらねばなかった。マ行の音に、マ行で返すのがただしかった。息子はナツキじゃないだれにでも抱き上げられるとしあわせだった。動物的なしあわせは動物によりもたらされ、息子は夫やたがいの両親、親戚、保育士、エレベーターや電車ですれちがっただけの知らないひとなど、かれのちいさな惑星の重力圏にあるあらゆるひとびとを瞬時に動物へ変えていった。それがアヴァレンティヌスの課した法なのだった。
 麦茶のなかの氷がグラスのなかで軽い音をたてる日に、夫はナツキをもとめた。産後はじめてのセックスだった。クタビレアヌスはセックスがしたかった。できれば風流なセックスがしたかった。おなじ部屋で眠っているアヴァレンティヌスが目を覚まさないように緩慢な動きが必要で、さらにはかたくなった膣口のためにおだやかさが必要だった。明日も仕事で、まぶたが閉じそうなクタビレアヌスは時間をかけて前戯をした。肉体的なこと、三欲に準ずるものは動物的な欲求だとそれまでナツキは疑いなく信じていたけれど、産後はじめての性交はあまりにも理性的で、そういう意味では人間的なものだった。
 果てたあとナツキは、
「つぎの子はもう一年待ってほしい」
 といった。ほとんどねむりかけていたクタビレアヌスは、
「ごめん、なに?」
 と、ききかえす。
「次の子はすくなくとも来年までまって」
 すくなくとも、をわずかにゆっくりと、重みをもたせて発音する。
 それからナツキの会社の育休制度の話をし、その取得実績の話をし、最近夫の体臭に加齢臭が混ざっているという話をした。かろうじてうなずくだけの夫の返事は寝息にかわった。アヴァレンティヌスが一ヶ月半ぶりの夜泣きをした。

 

 どれだけくたびれていてもクタビレアヌスはアヴァレンティヌスのおむつの交換を嬉々としておこない、世の中にはじぶんの子どもにミルクを飲ませることすらできない夫もいることをかんがえればまだぜんぜんいいほうだと秋澤幸子はおもっているけれど、それでもそれだけで育児参加を積極的におこなっている気分になっている夫のおもいあがりには不愉快になる。夫は人糞らしい排泄物を「うんこ」、人糞的でない排泄物を「うんち」と定義している。離乳食がはじまってからアヴァレンティヌスのうんこの批評性が高まってきていて、排泄物が赤ちゃんのものから人間のものにちかづいていくことにうんこ処理班を自称する夫はその批評性の高いうんこをみながら、
「おまえはうんこチビリアヌスだな」
 という。うんことアヌスが絶妙に呼応した高度なギャグらしい。おむつ交換の最中でも息子はアヴァレンティヌスたる暴虐を発揮し、夫の手からすり抜けた足でうんこのついたおむつを蹴り上げ、するととつぜん動きをとめ呆然と天井を見上げる。夫はさけぶ。
「My son goes to wise-man time after his evacuation!
 『私の息子は脱糞後に賢者タイムに入ります!』
 おさえておきたい文法は『現在形は普遍的な真理を示す』ことだよ!」
「ご乱心のところ誠に申し訳ございませんが、さっさとうんこを片付けてくれませんか? うんこ is くさい」
「うんこ is くさい……」
 クタビレアヌスは幸子のことばを現在形でかみしめた。
 幸子は大学を卒業してから二年勤めていた会社を寿退社して以来、専業主婦だった。夫は会社の上司だった。子どもが産まれ、そろそろマイホームが欲しいといいだした夫の意向に無言でうなずき、もともと夫の実家が所有していた土地があったため、みるみるうちにマイホーム計画は進んでいった。
 ローンは二十五年、ボーナス時には練り上げで返済をし、子どもは二年おきにひとりずつ増やして三人にする。子どもたちが三人とも大学へ進学するなら、幸子と夫が四十代後半から五十代前半を迎える時期が一番経済的に苦しくなる。その時期に差し掛かる前に、生命保険のほとんどは払い終えてしまうようにプランの変更をした。初産とマイホームによって演繹的に導かれる未来の話で日常のほとんどが埋めつくされ、漠然としていたその先の人生までもう全部決まってしまった気分になった。
 家を建ててくれる大工さんに差し入れを持っていったとき、大工さんが二人しかいないことにびっくりした。プリンの数があわない。多すぎた。大音量のラジオが幸子の「おつかれさまです」を飲み込んで晴天に散る。
 やってきた幸子と夫が施主だと気がつき、大工さんのひとりが手をとめ、相方が手をとめたことに気がついたもうひとりも手をとめた。最初に手をとめたほうが下っぱだと幸子はおもった。着工してからそこまで日は経っていないのに、もうほとんど家のかたちをしている。
「これをおふたりで?」
 夫がたずねると、下っぱのほうの大工さんがこたえてくれる、
「そうですね。最近は制作キットみたいなものがあるので、家を作るっていっても、ほとんどプラモデルみたいなもんですよ」
 プラモデル、ということばが幸子の脳裏にながくのこる。くるしかったという記憶だけがあいまいにのこる初産も、気の遠くなるようなお金をかけてつくるマイホームも、それじたいはとてもみじかい時間でなされてしまうのに、今後の人生のほとんどを確定させてしまう大きな力に不気味さをおぼえた。そしてそれによってつくられたじぶんの人生は、プラモデルのようにかんたんに大量につくることができてしまうのだろう。幸子はじぶんの人生とプラモデルが等号でつながれた瞬間、殺すぞ、とおもった。おもったら、殺すぞ、とつぶやいてしまっていたみたいで、空耳だと信じたい下っぱの大工さんが幸子の顔をおそるおそるのぞきこんでいた。夫はベビーカーで目覚めた我が子をあやしていて、もうひとりの大工さんにはきこえていなかった。幸子は手に持ったプリンの箱を下っぱの大工さんへわたした。
「甘いものなどいかがでしょうか? ちょっとおおいですけど、お召し上がりください」
下っぱの大工さんは、ちょうどなにか甘いものがほしかったんです!とよろこんだ。幸子のつぶやきの事実は表面的になくなった。しかし、幸子のなかでは消えない。殺すぞ。だれを? 対象をもたない宙吊りの殺意は、いったいどこからやってきたのか。下っぱの大工さんはその場で箱を開いた。箱のなかのプリンはむっつある。
「プリンなら何個でもたべられます」
 幸子もプリンなら何個でもたべられる。

 

 翌日、いつもなら午後一時から二時間は昼寝をしてくれるアヴァレンティヌスは夫の母に買ってもらった車のおもちゃに興味津々で、その運転席には微妙にかわいくない、フンコロガシとカブトムシを足して二で割ったみたいなキャラクターが真顔で鎮座している。なぜ三ヶ月の子どもにそんなものを選んだのかと義母のセンスを疑った。それに、たとえ買ったときに運転席に鎮座するその若干ミルク成分多めのうんこ色の生き物に気がつかなかったとしても、買いあたえるものに対する無頓着さに腹がたった。それだけじゃない、義母に対するあらゆることに対してムカつこうとおもえばなんだってムカつける。食器の片付けかた、洗濯物の干す時間帯、そのたたみかた、食事に箸をつける順番、テレビの巧妙に用意されたシナリオどおりに涙する律儀な愚鈍さ。こうもかんたんに怒りというものは錬金術のようにつくりだせるものなのかとじぶんで感心したのだったけれど、錬金術でたとえるならば、幸子は怒りよりも金が欲しかったから義母とのコミュニケーションではおもったことを口に出さないようにするのが、親族付き合いというせまい世界での処世術だと心得ている。
 車に車輪があるなんておもいもしない息子が祖母からのプレゼントで破滅的な遊びに興じているなかに電話がかかってきた。義母だった。電話をとると、視界の隅でアヴァレンティヌスがおもちゃを投げすて、延長コードを噛みはじめている。あわてて抱きよせると、息子はさけび声をあげ、顔をみると新しい遊びとおもったのか、とてもよくわらっていた。
「育児の醍醐味ね」
 義母はそういう。
「ですね」
 ため息といっしょに幸子はかえす。義母は、米はまだ足りているか、野菜はいるかときき、ゴールデンウィークはどうするのか、ときき、さいごに、
「孫は来てうれしい、帰ってうれしい」
 という口癖をそえて、電話を切った。
 幸子はそうとおくない未来に、このひととおなじ家に住まなければならないことがゆううつだった。マイホームができてからのしばらくは同居する予定はないけれども、老後の義父母を考慮して一階に彼女らの部屋がつくられることはあまり気分のいいものではなかった。息子が寝ない。何度もフローリングに打ちつけられるおもちゃが壊れそうな音に神経が刺激される。幸子はそのとき、影の質量をかんじた。息子から、義父母から、夫から、家から。あらゆるじぶんではないものから伸びたその影たちは、幸子の目が届かない時空間のあらゆる地点に根をはり、それはすべて一点で重なる。影のかさなりがつくる宇宙の果てよりもふかい闇は幸子のなにもかもを砕く重さをもち、けっしてひとひとりがあらがえるようなものではない。わたしはすこしずつわたしのからだやわたしのからだでないものを砕かれる。わたしのかけらは影のなかに吸いこまれていく。iPhoneを握りしめたまま立ちつくしていた幸子の足元から伸びたうすい影が息子を覆っていた。
「わたし、働く」
 夫が買いおきの最後の発泡酒に口をつけたときだった。缶から口を離すと、ほう、といった。それからまた缶に口をつけ、眉をひそめた神経質な顔つきで、一度、二度、喉を鳴らす。幸子は馬鹿にされた気分になる。うるせえだまれはげ、とおもった。だけど夫はしゃべってもいない。さきほどの、ほう、を会話としてカウントするならばしゃべったことにはなるけれど、それでもうるさくはなかったし、どちらかといえばだまっていた。あと、はげてもいなかった。夫は缶をテーブルに置くと、ようやく幸子の顔をみた。
「なにすんの」
 真顔だった。おれの稼ぎに不満があるのか子どももまだちいさいじゃん保育所だいじょうぶなの家事はどうすんの最近たまに晩飯できてないこと週に二日くらいあるよねなどなどの、前時代的な主婦への要求から単純に幸子も落ち度を自覚している点までのありえたすべての指摘を華麗にくぐりぬけてつるんと出てきた夫の時間の後方じゃなくて前方に向けられたことばは、その簡潔さゆえに可能なすべての解釈の余地がある。幸子はじぶんがいま、夫に対してよわい立場にいることを自覚した。しかし、なぜじぶんがよわいのだろうか。会社員時代もそうだった。状況というのは数々の問題が複雑に絡み合って起こるものだというのに、いわゆるデキるやつらはやたら要素に分解したがり、個々を取り上げてネチネチ説教をたれてはドヤ顔をキメてくる。あのときの上司こそ夫だった。まだ幸子は、なにすんの、としかきかれていない。それも一度だけ。それからいまも沈黙している。息子も空気を読んで沈黙している。ただドヤ顔はばっちりキメている。夫に限らず人間のドヤ顔というものは、決まって鼻がいちばん憎たらしい。ドヤ顔の鼻はなんだか鋭角的で、かつ鼻の穴が通常時よりもふた回りほどおおきい。ドヤ顔というものはおそらく鼻でつくられ、わたしの憎悪はすべて鼻に注がれる。わたしはいま、夫の鼻に憎悪していて、夫には憎悪していない。日本人らしいひらべったい夫のまぬけづらに、鼻が屹然と避雷針のごとく立っている。
「で、どうすんの」
 夫の声が沈黙をやぶった。幸子はシンプルにムカついた。恥知らずにも「で」なんぞ追加してきよった。夫の鼻にではなく、夫にムカついた。ああ、これはまずいな、と幸子はおもった。目覚めるな、と幸子はおもった。今シーズン二回目(一ヶ月ぶり)の殺意の波動に目覚め、ことしの夏は暑くなるぞ……、と幸子は詠嘆形でおもった。
「や、フツーに」
「フツーて」
「うん、フツーに」
「いやいやいやいや」
「え?」
「子どもいるじゃん。育てるじゃん。家事するじゃん。どうよ?」
 幸子はみずうみに落としたフツーについてかんがえた。ブサかわいい系の女神さまがぶくぶくと湖面に浮上してくる。ここにはふたつのフツーがある。幸子がかんがえるフツーと、夫がかんがえるフツー。さてあなたが落としたのはどっちのフツーでしょう? ただし正直者の幸子に神さまがあたえるものは夫婦の無理解で、嘘つきの幸子に神さまがあたえるものも夫婦の無理解だ。
 幸子はやりたいことがなかった。願うことなら働きたくなんてない。苦痛から逃れたい。そして、逃げることの正当な理由がほしかった。結婚前は職場の窮屈な人間関係がいきぐるしかった。それを救ってくれたのが、夫からもらった給料一・五ヶ月分の婚約指輪だった。そのはずだった。しかし息子が産まれてから2LDKの住まいは自由の拠点から突如として牢獄にかわる。そしてこれが戸建ての5LDKになったところで、その牢獄はさらに堅固になるのは目にみえている。話相手がいない、意味をなさない獣じみた発声は幸子の脳みそを腐らせていく、母乳がもれて服が乳臭くなる、乳臭い息子と同化する、服屋に行けない、本屋に行けない、息子がずり這いをはじめると本すら読めない、それどころか家事すらすすまない、息子の気まぐれな午睡に一日が決められる、夜に泣く、盛大に泣く、夫は舌打ちをしながらリビングのソファにいって横になる、慢性的な睡眠不足、食器が片付かない、洗濯物がたためない、夕食なんてつくれない、そもそも冷蔵庫にはものがない、わたしは奴隷か、幸子はおもう、この圧政から逃げだしたいとおもうことにこれ以上の理由が必要なのか。わたしは甘い。わかっている。それでも会社であれ家であれどこでもいいけれど、働くことになぜ第二義的な理由を提示しなくちゃいけないのか。それがお前らの正義か。幸子は夫の背後に無数の夫をみた。その夫たちすらも白痴の暴君にこうべを垂れ、跪いている。
「パパとお風呂にはいろっかー」
 幸子の話をきかなかったことにして、夫は頬を赤らめて息子の頬を人差し指でつつく。
「やめてよ。お酒飲んだんだったら、さっさと寝てくれない?」
 夫がねむり、息子が寝た。寝室のオレンジ色のにぶい光の下、昂ぶる感情が幸子を寝かせてはくれなかった。充電器につないだiPhoneでネットを徘徊する。検索画面の上から五番目に表示されたページでは、一九九二年の暖かい五月のイギリスのとある田舎町での事件が語られていた。雑貨屋の裏で、押し手のいないベビーカーのなかで生後数ヶ月の男の子が眠っていた。ベビーカーのすぐそばにはアイボリーの布でつくられた無地の手提げ鞄が寄り添うようにもたれかかっていて、なかには、やすらかに眠るかれの七日分の着替えとおむつ、大すきだったおもちゃが余分な隙間の一切が拒否されたように詰め込まれていた。手提げ鞄の一番うえには他のどのアイテムよりも際立って真新しいノートがある。その表紙には、「ただしい母親のために」と書かれていた。夫の寝息と息子の寝息がちょうど半拍ずれている。暗がりのなかの息子の寝顔をみつめていると、アヴァレンティヌスがゆっくりまぶたを持ち上げる。iPhoneが青白い光を放っている。

 

 ベランダへでたナツキはおおきく息をすった。かごにはいったおとなふたり、幼児ひとりぶんの洗濯をほす。きのうの雨でぬれた街はすっかりかわいていて、夏までも洗い流してしまったような風がかのじょのからだをなで、網戸をすり抜け、はんぶんだけ開けた玄関の扉を通り過ぎていく。くろい服を洗いはじめた結婚時に買ったドラム式洗濯機がひかえめなうなり声をあげている。
 お盆はたがいの実家に二泊ずつして、二組の祖父母たちはかれらにとっての初孫であるアヴァレンティヌスをナツキやクタビレアヌスがするよりもたくさんかわいがった。
早期退職を目前にひかえたナツキの父は、孫は目に入れても痛くないとありきたりな比喩を口にしたけれど、アヴァレンティヌスがのばしたちいさくやわらかな指が目にはいると、直前までの猫なで声を急におとなの声にかえて、ちょっ、タンマタンマ、といった。アヴァレンティヌスは待たなかった。
 両親に我が子の世話をたくして、ナツキと夫は三年前にできたばかりのアウトレットパークへ三年ぶりに買い物へいった。夫はそこで三年ぶりに服を買った。ブタがローラースケートをはいている黄色いティーシャツに心をうばわれ、そそくさとはいっていった更衣室で三年前はなかった真新しい加齢臭をふりまいた。
 じぶんの実家への帰省はとてもおだやかに過ぎたけれども、ナツキの復職をあまりこころよくおもわない夫の実家への帰省は、当初の予想どおり、あまりおだやかではなかった。ナツキはそれを夫づたいで知っていた。昼食後、甲子園中継が大音量で流れている居間で、義父は睡魔と喧騒のはざまで泣き出した孫にたかいたかいをしながら話しかける。
「おまえは八代目やからなー」
「八代目?」
 ナツキは夫に小声できいた。
「ああ」クタビレアヌスは露骨にだるそうな表情になった。「うちはなんか本家らしいからなあ」
「ここってそんなに由緒ただしい家的なかんじ?」
「まさか。ただの小作人の出やで」
 そこで義父が話に入ってくる。たしかにうちは小作人の家系で、苗字できたんも明治からや。初代は平蔵。その前はさすがにしらん。やけどつい数ヶ月前や。難波ナンバーの車がうちに来てな、知らんおっさんがわしに話があるってゆうねんか。めっちゃこわいやん。なんかわるいことでもさいきんしたかなーっておもっとったら、三代目のわかれやっていいよる。ほんまかっておもたけど、ようみたらたしかに鼻とかうちのもんに似とる。似とる、ゆうんはバカにならんで。その大阪のおっさん、建築士やってんけどもう引退よって、老後の趣味で家系図つくっとうねんて。親族とかぶわーあたって、やっと本家みつけたー若干泣いとったわ。
「うち家系図とかあんの?」
 夫がいった。
「ないで」
「くれんの?」
「くれる」
「なんか返しや」
「米送った」
 ナツキは結婚時に親族への報告をしてまわっていたときのことをおもいだしていた。夫がとくに祖母方の親族から「ヘイヤン」だの「ヘイヤンとこのボン」とよばれている疑問がここで氷解した。氷解したからといって別にそれ以上夫の家系についておもうことはなかった。つられておもいだしたのは、そのときの親族のリアクションだった。
 あいさつの場では、どこで出会ったか、いまはなにをしているのか、というよそよそしい会話がテンプレートにそってすすんだ。かれとはおなじ大学の出身で、修士課程をでてから会社に勤めているという話をすると、そりゃたいそうかしこい家やね、と親族たちは異口同音にいった。この、かしこい、というのはほとんど皮肉で、とくに当時まだ博士課程の学生だった夫への非難の意味がつよかった。あなたが働いとんねんな、というおじさんは「が」をわずかにつよく発声した。
 こういうことはそのときがはじめてではなかったが、夫の実家より相対的に都会ではあるけれど、アウトレットパークが建てられる程度には田舎であるナツキの地元でもあった。ナツキが大学院に進学するとき、やはりこの、かしこい、は親族やら近所のおばさんやらの口になぞられた。ナツキは、いまじゃ理系は六年制みたいなものだ、と進学の理由をじぶんの意思ではなく、社会的な要請だという意味にきこえるように説明してようやく周囲の納得を得られた。ナツキの実家にも、夫の実家にも、じぶんたち自身の部屋を除いて地方紙以外の活字はない。興味がないというよりも意図的に排除されているように、家から学が漂白されていて、義父は孫にふたたびたかいたかいをしながら、
「おまえは野球するんやで。おとんみたいに、家にこもっとったらあかんわ」
 といえば、甲子園の試合終了のサイレンが鳴った。テレビのなかで泣きながら土をあつめる泥だらけの球児たちをみて義母が、そんな泣かんでもええのにな、とつぶやいたあとナツキのほうをむいて、
「いつから?」
 といった。
「九月からです」
 ナツキはこたえた。
「時短?」
「フルです」ほんの一瞬、義母が眉を曲げた。「もちろん、会社の制度を使ってはやく帰ってこれるようにはします」
「保育所は慣れたん?」
「人見知りはしない子なので」
 すこしきっぱりといいすぎたかもしれないとかんじたときにはおそく、すでにきまりのわるい間ができてしまっていた。屋外に蝉の鳴き声がふりそそいでいた。義父母の表情をナツキが読めずにいると、義母の表情がもどった。
「ナツキちゃん、お米はどう?」
「あっ、はい! いただければたすかります」
 奥の個室でのど自慢をみていた祖母がのそのそとやってきて、ひ孫と偶然目があった。アヴァレンティヌスはわらった。祖母もわらって、
「ここがおまえのほんまの家やからな」
 と、ひ孫をいつくしんだ。
 ともあれ、ひとと会うと時間がはやくすぎる。
 家に戻ってきて夫の連休が終わり、息子も保育所へふたたびいくようになると、世界のとつぜんの静止に目がくらんだ。
 ナツキはおもう、わたしの世界の静止が、動きをやめない世界からみた相対的な運動なのだとしたら、わたしは世界よりもおおきくなってしまったのかもしれない、わたしはちっぽけだ、そのはずだ、だけどこんなにも無意識に、そしてかんたんに、というかなにもせずに、世界のありかたにふれることができてしまう。ただそれは全能感とはすこしちがっている。むしろ、午前中に家事のもろもろが終わること、もっといえば家事が終わるということのほうにナツキは全能感をおぼえる。
 午後はテレビをみる。歴史番組の再放送だった。結婚していまのマンションに引っ越すまでは、家にテレビをおいていなかった。夫もテレビをおかないひとだった。家らしい家にするためにはテレビが必要だ。そういったのは夫だったか、それともナツキだったか。それはいまではおもいだせないくらいに些細なものとしてふたりのなかでは認識されたのだけれども、それは同時にどちらの意思でもないことを意味していた。この家に住むだれでもないだれかの意思でリビングに鎮座し、うっすらと正面に立つナツキの姿をおぼろげに映す32型のくろいテレビは、電源をいれられるたびにあらゆる時間と空間を飛び越える。テレビという現象が日常と呼べるくらいに繰り返しリビングで発生されて、はるかの時間とかなたの場所は部屋の風景として、そして環境音として、違和感なくまぎれこんでいった。ギリシャ、エジプト、ローマで発掘された浴場地下の無数の幼児の亡骸。発見された時期はおなじで、おなじ構造が確認されていたけれども、それぞれが実際に機能していたとされる時期にはすくなくとも一〇〇年の隔たりがあった。それぞれの街がいちばんにぎやかな時代、みずからが住まう国の豊かさをかたちにすべく、そしていま以上のしあわせを目指して、街の君主やひとびとはこの地上を楽園と名付けたがった。街の中心には参政権をもったすべてのひとがいっせいに集まれる広さを確保した公園がつくられ、その一角には広々とくつろげる清潔な公衆浴場が築かれた。毛細血管のように細く入り組んだ無数の道は潰され、結合し、太く直線的にあらためられ、公園を中心として放射状に世界へと放たれ、幾何学的なうつくしさをあたえられた。石造りの家々はどんなにちいさな住み家であっても、一つのゆがみもゆるさない国いちばんの職人たちの繊細さでかたちづくられた。たくさんの奴隷たちが地獄の炎のようにきびしい日差しのなかで、身を切る鞭のような凍てつく風のなかで、神様の涙のように激しい雨のなかで、あくせく働いた。たくさんの奴隷が死に、街のいたるところでいきだおれた。死臭が街をつつみ、かれらが経験したことのない病が流行した。死をおそれ、神をみうしなったものたちが、賢者の死を導いた。あやまちに気づいたものたちが、神をみうしなったものたちに死をあたえた。街の表面は死で満たされた。死をみちびくものはいつだって生なのです。ときの賢者はいうのだった。あるいはコインの裏表といってもいいかもしれません。わたしたちは生を街というかたちでつくりあげようとしました、しかし、設計図のなかでわたしたちは死を想定しなかったのです。生が地上に発生することで同時に吐き出された死の行き場を、わたしたちはつくらねばなりません。そうしてつくられたのが、街のすべての地下を脈々とつなぐ水路だった。家々の地下には秘密の地下室がつくられ、そこに死んだ奴隷を名前のあるなしにかかわらず安置し、かれらの死から三〇の日没が終わったあと水路へと葬った。かつての街のあらゆる小道のように細く、呪術的な曲線でのびた水路は公園の地中ふかくへとつづくのだった。地下の水はぬるかった。どろりとした。ぬるっともした。いくらかの奴隷が主人から生を見捨てられ、かろうじて呼吸をつないだものたちは、ふかい夜がおとずれると、みずから水路へと旅立った。この水路の先までたどりつけられたなら、おれはきっとだれのものでもない生を生きることができる。ふかい闇のなか、緩慢な水音と、生に濁った死臭にのどをあえがせ、奴隷たちは死を死んでいった。そうやって地上から死が消された。街は設計図のうつくしさを獲得し、ひとびとはあらゆる衣食住をたのしんだ。とおくの街からの移住者がふえた。しあわせを祝福するように街を四季とよべる変化がいろどり、無数の赤子が産み落とされた。外壁がひとまわりとおくにつくられ、もうひとまわりおおきくつくられた。郊外にはあらたに勃興した裕福な家庭の別荘が築かれ、生活のなかに隠り世をもつことが人生のゆたかさの象徴とされた。道はさらにふとくながく、力強く世界へとのびた。地下のほそい水路はさらに複雑にからみあい、街の新陳代謝を最適にうながした。しかし、地下の死者の数が地上の生者の数を上回ったとき、それまで保たれていたはずのものが途端にくずれはじめたのだった。ある秋の終わりだった。街の権力者たちをかこんだ酒池肉林の大宴会が街のまんなかの公園で三日三晩おこなわれ、いちばん若い賢者が老人たちに一発芸を強要され、苦し紛れに繰り出した二等辺三角形あるあるが森閑とした空気をつくりだした夜だった。若い賢者が今後のキャリアをうれいでいると、給使の奴隷がひとり透けている。宴もたけなわ、老人たちが席を立ちはじめ、多数いる給使たちもあわただしく動きはじめても、その透けた男は身じろぎひとつせず、ずっと視線を送っている若い賢者にも気づいていない。透けた男のまなざしは焦点がどこにもあっていない、白痴のような出で立ちは若い賢者におおきな違和感と存在感を植え付けたが、ほかの透けていないものたちはだれもかれに気がついていない。すると、ひとりの老いた賢者が透けた男を通り抜けた。老賢者はそのことに気づいていない。透けた男はじぶんを通り抜けた老賢者のほうをふりかえる。そして一歩、二歩と歩きだし、老賢者と重なるとそのまま消えた。若い賢者は老賢者へと走りより、いま、だれかとぶつかったようにみえたのですが、と声をかけた。老賢者は首をふった。お前、二等辺三角形あるあるをしだしたあたりからなんかおかしいぞ、賢者はそんなことをしない、二等辺三角形の霊魂を追う貴様の姿勢はできるなら評価したいとおもうのだが、しかしわしにはちと荷が重い、といって相手にしなかった。わしはこれからセックスをする、それもとびきり風流なやつをな、と声高にさけび、無数の星がふりそそぐ夜空に向かって力強く拳を突き上げ去っていった。その夜、老賢者が腹上死した。その翌日、またちがう老賢者が腹上死した。その翌日、街いちばんの大工の棟梁が腹上死した。その翌日、退廃的な吟遊詩人が腹上死した。その翌日、街のご意見番が腹上死した。その翌日、軍隊のえらいひとが腹上死した。その翌日、気さくで知られる街いちばんの情報通が腹上死した。その翌日、おっさんが腹上死した。その翌日、羊飼いが腹上死した。その翌日、奴隷売買の元締めが腹上死した。その翌日、図書館の館長が腹上死した。その翌日、旅人が腹上死した。その翌日、医者が腹上死した。その翌日、下乳フェチの彫刻家が腹上死した。その翌日、法学者が腹上死した。その翌日、死刑執行人が腹上死した。その翌日、神さまが腹上死した。その後も不可解な腹上死は絶えることなくつづき、そして二等辺三角形あるあるでスベりたおした若い賢者のように透けた男をみるものが街にふえた。交差点でも、路地裏の窓にも、そんなところにいるはずがないのに、透けた男たちはあらわれた。夜だけでなく、昼にもあらわれた。目撃情報をあつめても、その姿かたちは一致しなかったが、みな透けていて、だれかにふれると消えることはたしかだった。さらに共通することがあった。腹上死したものたちとさいごの夜をすごしていた女たちはひとりの例外もなく子をはらんだ。その事実が街じゅうにしらされたとき、女たちはとてもおびえた。あのときにはもうちがう人間だったんだ。冬至の日に公園でおこなわれた演説会で、若い賢者が力強く語った。死者が死者としてこの地上に子孫をのこすために、生者のからだをうばったんだ。積もらない雪がふりはじめた。民衆はみな手をかじかませていた。あかぎれした指先で、妊婦たちはじぶんのお腹をさすった。若い賢者はつづけた。生のなかに死がある、そうわたしの師は語りました。わたしたちは、死を所有しています。家の地下であり、水路の到達点で死を所有しているだけじゃなくて、いま、この瞬間もわたしたちはじぶん自身の死を所有しています。しかし、死を死んだものたちが、生を所有しようとしている。そんなことがいま起こっているのです。その子たちは、若い賢者はひとりの妊婦を指差した、だれの子どもなのでしょうか? その子たちは、若い賢者はちがう妊婦を指差した、はたしてうつくしい子どもなのでしょうか? その子たちは、若い賢者はちがう妊婦を指差した、人間をしあわせに導くのでしょうか? その子たちは、若い賢者はちがう妊婦を指差した、祝福された子どもなのでしょうか? その子たちは、若い賢者はちがう妊婦を指差した、この地に産まれおちたそのとき、はたして人間なのでしょうか? すべての父親が死んだ。すべての父親は死者である。貴婦人や売春婦を問わず子をはらんだすべての女たちは、じぶんの肉体に植えつけられた死を体外へはきだそうとこころみた。ハチミツに生きたままのハチをいれ、白湯にヘビの血をとかしてつくられた堕胎薬が街じゅうにくばられた。妊婦たちは時間があればぴょんぴょんとジャンプした。妊婦たちはみずから家族のものに尻を鞭打たれることをもとめた。しかし、なにをやっても女たちの腹はおおきくなり、夏がやってくるころ、街のいたるところで死者の幼児が産声をあげはじめたのだった。この事態に対し、行政機関は街をあげての措置をとった。公園の一角にある浴場の地下で、産まれおちた幼児たちの屠殺を請け負った。透けた男の目撃例はつづいていた。迅速に死を消さねばならなかった。効率的に、そしてためらいのない屠殺がもとめられた。幼児たちは奴隷たちの手によって機械的に水のなかにつぎつぎと沈められていった。結果、その年の街にはあたらしい子どもがひとりも認められなかった。一年で街は急速にさびれ、五年ですたれた。天候が荒れ、四季が消えた。それでも死の出産はつづいた。食料の不足にひとびとはあえいだ。やがて奴隷たちは、屠殺された幼児たちの肉をたべはじめた。奴隷たちはおいしくたべた。こんなうまいものがこの世にあるなんて信じられなかった。奴隷たちが幼児をたべていることは、すぐに街の権力者たちに知られた。かれらはそれを認めた。これは食人ではない。そもそもこの幼児たちはひとではない。権力者たちは穢らわしいとはおもったが、おおきな興味を捨てることができなかった。奴隷だけではなく、権力者たちも死んだ幼児たちをたべはじめた。賢者たちもたべはじめた。民衆たちもたべはじめた。幼児の母親たちもたべはじめた。その味はどんなこの世のたべものにも似ていなかった。幼児たちの死肉は地下から地上へ運び出された。満点の星がかがやく夜空のした、幼児たちをたべるひとびとは宇宙のとおくをおもった。その空想のなかで、ひとびとは死者たちが住まう星を滅ぼした。死をむさぼるひとりの賢者がいった。わたしたちは死から逃れられない、なぜならばこの地上こそが死者の星なのだから。ただ、それでもおろかにもわたしたちは不死をもとめてしまう、無数の動物の死を食すことでわたしたちは生きながらえているのだ。わたしたちはいま、死を生きている。かれのことばは時空を切り裂き、そこから世界がまたたくまに溶解をはじめた。死が生と同化し、地下が地上と同化し、夜が昼と同化し、肉体が魂と同化し、愛が殺戮と同化した。無数の透けた男があらわれた。そこに他国の軍隊が攻め込んできて、ひとびとは無抵抗のまま、街の廃墟に溶けていった。水路の水は枯れていた。
 宇宙のちいさなくしゃみでひずんでしまった三万年後の公転軌道は、もうひとがひとをやめてしまったこの惑星の水をかわかして、大地に無数のひび割れをきざみこんだ。ひび割れがつくる影のなかで永遠の夏のあつさからなんとか逃れていたひとのつぎに栄えたつぎのひとたちは、一族にただひとつある鏡をせっせとみがいて生きていた。そうすれば太陽の光は太陽のもとへかえっていくし、月の光だって月のもとへかえっていけた。つぎのひとたちは太陽の温度がひくい黒い点をのぞく技術をもってなかったし、あるいはすこしのちがいを不思議におもい、そこから命に終わりをもたらしてしまうかもしれないおそろしい病気を想像してしまう視力ももっていなかった。かれらは無数にふりそそいだ流れ星で産まれるまえにでこぼこになった山々を、夜ごと月をうつした鏡を背負っていくつもこえて、いまじゃもうだれもつくれない硬い建物のあちこちに、一ヶ月後に孵化する卵をぽこぽこと産みつけるのだった。
 建物のなかはむかしのひとたちのかたちをしていて、家具が時間の重みでぐらぐらしていた。いすもつくえも浴槽も、わずかに残されていた食用の動物たちの化石もつぎのひとたちのからだとはみまちがえた不整合として手紙みたいにおかれていて、もうまわらなくなった扇風機のものかげで昼をできるだけ快適にすごしながら、卵の母親たちは飢えてしまわないように卵をこっそりとたべる。父親たちはとおくへ、それこそもう二度と出会わない探検に出かけていってしまったし、卵をたべることはだれかにみつかって怒られるなんてことはありえない。それでもやっぱりこっそりたべるのが彼女たちの生のなかでわだかまりを残さないただしさをつくっていて、仲さえよければ、近所の母親と卵をとりかえっこすることだってあった。秘密を秘密としてみんなが知っていくぶんには共犯意識すらもなく、じぶんのからだをとおくに増やしていけば、いつか照りつける太陽も静謐な月も、無数の鏡のなかでただひとつを信じてもいいんじゃないかと母音のたりないことばでかんがえた。
 おだやかな晴れの日、アリスは街路樹が風にゆれるたびに不規則に脈打つようにゆらぐ陽の光に目を細めながら、路地裏のほそい道へととおく視線を投げ、足元の石畳にあわい影を落としていた。メーデーのにぎわいを無意識的にひきずったひとびとが、元気よく働いていた。アリスの座るベンチのとなりにあった果物屋さんが、ちいさな女の子にりんごを売った。その反対側では風船がぷかぷか浮かんで、もうひとの手にはとどかない高さまで上がっていた。風船にカラスは無関心だった。浮浪者が人間の垢のにおいをさせながら、文盲特有の道に迷うような発音でお金をもとめていた。
 ここのところのあさいねむりは、小学校の教員としてあくせく働いていたころの記憶とみちがえるものをまぶたの裏側でみるようになったけれど、それはあくまでただしい記憶とのあきらかなちがいがあったから、夢である確信をアリスはなんとかもつことができていた、ただ、あきらかなちがいを感知できても、それがいったいどこでどうちがうのか、具体的な指摘をじぶんですることができない。目をひとたびひらいてしまうと、たしかにまぶたの裏側で結晶化していたものたちはするするとほどけて、かたちも意味もわすれて、するりとアリスを通り抜けていく。太陽の下では、夫が夫になることを拒んでアリスの前からちがう女のひとといっしょにどこかへいってしまったときのことが痙攣的にやってくる。そして涙を流すまえに、ひとクラスぶんの子どもたちが白昼夢のなかに飛び込んでくるのだった。
 つぎのひとたちは傷だらけの地上に信じるものをなにももたなくて、雲もうかぶことのないすっきりとした空にこがれた。太陽と月のあいだにかれらは産まれおちた。明け方と夕方にある一日のうちの五分間は、おなじ空のこっち側とあっち側に太陽と月がのぼる。個体間での最低限のコミュニケーションだけをゆるされたごつごつしたことばでは、つぎのひとたちが精度の高い信仰をつくることはあまりにもむずかしかったし、思考すらも、じゅうぶんにもててはいなかった。それらはすべて目にみえる行為として語られた。鏡をみがくとはそういうことだった。一枚の、じぶんの背中よりもひとまわりおおきな鏡のなかに、太陽と月をうつした。地上で太陽と月が無数に出会った。
 教室で物語をつくりはじめた子たちははじまりも終わりもない情景を、ただひたすら、無邪気にならべていった。ひとり一枚ずつあたえられたA4のコピー用紙は、舌足らずなことばや、奥行きを失った絵で埋めつくされていった。教室の壁をつかって平面的に配置されたそれらは世界地図そのものだった。ただアリスはその世界を知らない。子どもたちのちいさな頭の隙間からのぞきみた世界は、ひとがひとであることをやめていてもどこかひとでありつづけている。だれかを愛したり、だれかを殺したり、そういうことが日常的になんど繰り返されようとも、三万年後のこの惑星にただよう多幸感として視界をゆがめていた。卵は一度に数百、数千と産みだされるんだ、と男の子が語った。産まれた子どもははじめにお母さんをたべるの、と女の子が語った。暴君たちがアリスをみている。アリスはなにかをいったはずだった。
 果物屋さんに背を向けた男の子が足をとめた。西の空からおおきな雲が近づいてきた。雨雲じゃなかった。路地裏のベビーカーの赤ん坊の声が、細く高くそびえたった赤レンガになんどもぶつかって空へぬけていった。男の子はアリスをひとめみると、みなかったことにして走っていった。練習中の大道芸人が投げたボールをとりそこなった。赤ん坊の声がジェット機よりもすこしおそい速さで駆け抜けた。風が吹いて、やんだ。
 いまならまだ間に合うことをアリスはわかっていた。ベンチにはだれかが忘れていったセンスがあった。アリスがおもむろに手にとってあおいでみると鉄のにおいがした。アリスの実家は鉄工所だったけれど父がひらいたその鉄工所はいまじゃちがうひとの手に渡っている。父ははやくして亡くなった。鉄の粉を胸にためすぎたのだった。母は初孫にふたり分の祝福をあたえた。
 アリスの目の前を、女のひとがゆっくりとベビーカーをおして歩いた。彼女が通りすぎると、路地裏のベビーカーにはひとだかりができていた。まだ間に合った。石畳が教室のフローリングになり、街の風景が晴天にとけると太陽と月が同時にのぼり、息子が覚えたてのはいはいで地平線のかなたからアリスを目指した。アリスはまだ間に合った。風船のわれる音が二回した。子どもたちがためらいなく暴力を語った。赤ん坊が男に抱き上げられた。アリスは立ち上がった。無数の鏡が彼女をうつしていた。六畳間のくらい寝室でiPhoneが北極星のように青白い光をはなっていた。
 ナツキや幸子が産まれたころ、――それより「すこし前」といったほうが正確だが――たとえばアメリカ合衆国における一九八六年の嬰児遺棄の件数は一七一〇〇件にのぼったが、それはあくまでも発覚したものだけの数字であり、実態はその倍はあったと見積もってもすくなくはない。その動機の大多数は貧困によるもの、もしくはアルコールや薬物、ふかいかなしみによる責任能力の欠如によるものだとされた。富は貧困を吐き出しながら増殖する。世界的に権威ある社会学者は自身の著作でそう語り、その年のピュリッツァー賞を受賞した。
 遺棄された幼児の身元が特定されたのは事件発生から三日後で、朝のニュースで孫の写真がブラウン管にどでかく映し出されていたのをみたアリスの母親がみつけた。とりあえず口に含んでいたアールグレイを霧状に吹き出す程度のコミカルかつファンキーなリアクションをみせたのだったが、それをみたものはだれもいなかった。夫は五年前に肺ガンですでに他界していた。すぐさま娘に電話をかけるのだが、当然といえば当然というべきか、受話器がとられる気配はない。というわけで電車を乗り継ぎ娘の自宅へいく。アリスはいた。アリス以外にはだれもいなかった。あるべきはずの孫の声がなかった。うつろなまなざしを天井になげ、ベッドのうえでひざを抱えている。涙はなく、むしろかわいていたというべきか。母のいかなる問いかけにも応じず、そのまま病院へ連れていかれた。そこから物語は二ヶ月の空白をはさんで進展する。ようやくことばらしいことばを口にするようになったアリスは、地元のNPO団体が運営する施設で保護されていた息子と再会した。もっぱら寝返りとハイハイを駆使して室内をあっちからこっちへとかけずりまわっていたかれは、いまや掴まり立ちができるようになっている。アリスは息子を抱きしめた。抱きしめると心が宇宙の果てのように凍りついた。あなたの残した息子さんのすききらいメモはとても役に立ちました、と再会に立ち会った施設長はいった、あなたはちゃんと息子さんを愛しているんですよ。アリスにことばはなかった。ただ、ひたすら愛がおそろしかった。
 ときは幾度となく世紀をまたぐことをやめず、光は「いま」「ここ」を常に世界の中心としながら、宇宙の三ケルビンの暗闇のなかに無数の過去を吐き出しつづけた。半開きのベランダのドアから湿気を含んだぬるい風が流れ込む。目を覚ましたアヴァレンティヌスが乳を欲して幸子のもとへと這いよる。ねむりにおちようとしていた幸子がかたわらで光るiPhoneをうちやって、独身のときよりもいくらか皮が分厚くなった手をのばし、横たわったまま息子を抱く。睡魔にからみとられたからだを起こすことはできない。そのままの姿勢で乳をさしだすと、アヴァレンティヌスは生えたての乳歯を乳首にたてた。
 幸子はおおきく目を見開き、つぎの瞬間には息子を平手で打っていた。
 街が赤子の泣き声でゆれる。
 ねむりについていたひとや、ひとでないものたちが、ゆっくりと頭をもたげる。あらゆる窓の隙間から、泣き声は湿った風とともに寝室へ流れ込んできた。

 

「子どもは鏡のようなものですから」
 保育所へ通い始めて四週間目がはじまった月曜日の夕方、おそらくパート勤務とおぼしき五十代の保育士はいった。ナツキは、はぁ、といってから、はい、といいなおし、扉を閉めようとする手をとめてアヴァレンティヌスを抱き直した。
 いったい何の話からそのことばがでたのかナツキははっきりとおもいだせない。当の保育士の笑顔も、さっきよりぎこちなくなっている気がしないでもない。ため息をよせあつめたような小雨が降りはじめている。
「子どもはね、」保育士からでたタメ語に、ナツキは怒り未満のいらだちをかんじる。「お母さんにとても敏感なの。最近、おつかれじゃないですか?」
「いえ。むしろあずかっていただいてからは、できなかったことができるようになったのでむしろ体調はいいのですが」
「それは、よかったです。安心しました」
「どうかなさいましたか?」
「いえいえ、とくにこれといったことはないんですけど」
「なにかあるから、そうおっしゃられたんじゃないですか?」ナツキは唇を一度かんだ。「教えていただけるとうれしいです」
 保育士は口を半分あけたまま、ことばをさぐる。その背後でプラスチック製のブロックがはげしくぶつかる音がして、アヴァレンティヌスはおどろいた。すでに自力で立てる女の子が、親指をすいながらじっと、ナツキの顔を母親ではないことを確かめるようにみつめている。

「いったいどうしたの?」
 息子の泣き声で目を覚ましたクタビレアヌスは幸子にいった。まだ陽はのぼってない。トラックがかすかに水音をちらしながら街路を通りすぎた。すっかり目をさましたアヴァレンティヌスはすでに泣きやんで、iPhoneの充電器のコードをしゃぶっている。
「乳首かまれた」
 幸子はじぶんでも釈然としない感情に目をつむり、たしかなことだけを夫に伝えた。「痛いじゃん」
「そりゃそうだけど……」眠気と戦うクタビレアヌスも、妻のはぐらかすようないいぶんに釈然としない。「手をあげるほど?」
「あんた、乳首かまれたことあんの?」
「ないけど……そんなに?」
「そんなになの」
 声にだしてみるとそんな気がした。乳首を噛まれることが、こんなにも生理的な憎悪を起こすなんていままでおもったことがなかった。そうだ、わたしは乳首を噛まれたことに怒っているんだ、と幸子はおもった。
 乳首に関しておれは沈黙せざるをえない、というクタビレアヌスに、寝言は寝ていえ、と返せば夫はふたたび布団にもぐりこんだ。クタビレアヌスはどちらかといえば乳首よりも乳房を好んだ。幸子に背を向け、起きているならそいつをつれてリビングにいってくれ、といった声はたちまち寝息にかわった。すっかり目が覚めてしまっていた。アヴァレンティヌスは生えたての歯の違和感をうったえるように、口にちいさな唾液の泡をこぼしている。
 電気をつけたリビングで噛まれた乳首を入念にチェックすると出血はなかった。傷もないし、歯型もついていない。それでもまだ痛みの感覚だけは生々しくのこっているせいか、腹を空かせたアヴァレンティヌスに母乳をあげるのをためらった。電気ケトルで湯をわかし、200mlのミルクを飲ませた。ミルクはみるみるかさをへらし、150mlほど飲んだところでアヴァレンティヌスは力つきて眠ってしまう。うでのなかで寝息がふかくなったのを確認して、かれを寝室にもどす。
 ひとりになるとなおさらねむる気になれず、Amazonで授乳用乳頭保護器の、主に評価が低いカスタマーレビューをひたすら読みつづけた。保護器と皮膚のあいだに真空ができてなおりかけていた傷がひらいて出血した、という文章に気分がわるくなった。ふすまの向こうで夫のいびきがした。寝室にもどり、扇風機の電源を致死量の悪意を込めて切ると夫の寝顔がゆがみ、それをみると幸子は魂がゆっくりとからだからはなれていくのがわかった。裏切り者は肉体よりもさきに魂が地獄におちる。それは学生時代に受けていた講義で非常勤講師の先生が話していたダンテの「神曲・地獄篇」だった。先生はイケメンだった。たいせつなひとへの裏切りを働いたものは、肉体を悪魔に譲り渡して魂だけ地獄の底のコキュトスへいき、そこで涙と眼球が凍りつく苦痛に苦しめられる。幸子は首をふった。このからだの所有者はわたしだ、わたしはぜったいにしあわせなはずだ、結婚式や出産のときに芽生えたその確信が息子の寝返りに蹴飛ばされ、幸子は息子の呼吸をたやすく呪えるじぶんをみつけた。
 朝日が差し込んできて、夫の目覚まし時計が鳴った。朝食と離乳食をつくりはじめなければならないことを、幸子は頭でなくからだでおぼえていた。

 

 涼しくなりましたねと自宅マンションのエレベーターでとなりの部屋に住むおばあさんの話しかけてくる声が、ナツキはじぶんに向けられたものと気づけなかった。かまわずおばあさんは、
「そういえば!」
 というので、そこではじめてじぶん以外にだれもいないと気づいたナツキはあいさつもわすれて、
「そういえば?」
 とつられていった。
「ずっと渡そうとおもっていたものがあって。このあとはお家にいらっしゃる? あとでお持ちしますので」
 出産後にこのマンションに戻ってきたとき、となりと、下、上の家庭に菓子折りを持ってあいさつをしていた。近所付き合いはほとんどしていなくて、それ以前にあったものは新婚時に引っ越してきたときだけだった。階下にはナツキたちと似たような家庭が住んでいて、あのとき抱かれていた男の子は両足で立ち、お母さんのジーンズをしっかりと握りしめていた。上の階のひとは以前とおなじで決して玄関の扉を開かなかった。自宅は角部屋なのでただひとつのお隣さんのこのおばあさんは、三人の子どもが独立したのをきっかけにふるい家を処分し、このマンションにやってきた。夫とふたりで老後のおだやかな生活をおくっていて、飛行機じゃないと届かない場所で暮らすいちばんうえの子どもが産んだ子どもが夏のたびにあそびにきた。
 部屋にもどり、ベビーカーを折りたたんで、室内干しにしていたバスタオルをたたみ終えると、呼び鈴が鳴る。となりのおばあさんを玄関にむかえいれると、うすい水色の紙と緑色のリボンでプレゼント包装がほどこされた箱をうけとった。
「ちいさくなってたら、ごめんなさいね」
 つづけておばあさんはじぶんの人見知りをわびた。おばあさんはほんらい近所付き合いがすきじゃなかった、そのことはもちろん、彼女の口から直接的なことばでは語られなかったけれども、ことばの節々や、どことなくためらいがちな口調からかんじることはたやすかった。すくなともナツキにはわかる。この街に来るまえは田舎に住んでいたようで、そこがどれだけ息苦しかったかということは語られなくても想像はつく。それなのにただとなりに住んでいるという偶然だけをきっかけに他人の子どもにしあわせをかんじられるおばあさんをナツキは尊敬せずにはいられなかった。しかし、この尊敬はナツキにはおそろしくかんじられる。ひとの嫌悪から生じる生き方の選択さえもかんたんに否定できてしまう強大で得体の知れない暴力的なしあわせの感情からは、ひとはひとであるかぎり逃れられないのだろうか。もらったのは車を模した靴下だった。アヴァレンティヌスはぶーぶーがだいすきだった。のこりの洗濯物をたたみはじめても、一枚たたむたびに手がとまる。思考がからだからゆっくりはなれていくような不安、それから目を背けると、もうじぶんのからだをとりもどせなくなる確信がことば以前のかたちでナツキのどこかにある。アヴァレンティヌスがナツキのひざに歯を立てる。
 アヴァレンティヌスの発作的なさけびが梅雨前線を北上させ例年よりながい梅雨があけると、幸子はふとんを干していた。アヴァレンティヌスはねむたかったのだけれども、かれはかれ自身がいまねむたいのだとわかっていない。泳ぎかたも知らない海にずぶずぶ沈みこむアヴァレンティヌスに幸子は手をかさなかった。ねむりをうったえてさけびをあげるたび、アヴァレンティヌスの体力はすこしずつうばわれていき、鼓動に同調するふとんをたたく音を子守唄にしてかれはそのままねむってしまう。よわくぬるい風は吹くというよりも街にただよっていて、つよくなる陽射しに手をかざした幸子のそろそろエアコンを使うべきかもしれないとかんがえたその思考は、時間のかたい束縛からこぼれおちるようなおだやかさをもたらした。
 こういうとき、幸子には一秒先のできごとがみえた。
 それがほんとうに一秒なのか、それとも二秒なのか、三秒なのか、あるいは一分なのか、厳密なただしさについてはわからないけれど、ともかくそれはわずかに先のことだった。ふとんを干しているいま、幸子にはふとん叩きがこの六階のベランダからおちていくのがみえ、それはふとん叩きじゃなくてふとんでもありえる。そして意識的に目をそむけなければさらにさきのこともみえるのだった。おちたふとん叩きがアスファルトをかん高い音をたてて三回はねたり、ふとんが二階したのベランダにひっかかったり、こういうことが自動的にみえてしまうことはきっととくべつなことなんかじゃないと幸子は信じていて、それは何歳のときだったかもおもいだせないくらいのおさないころからずっとで、だれかに話すきっかけをうしないつづけながら彼女のからだにしみついている。きのう、この国のどこかでしらない子どもが室外機にのぼってベランダからおちてしまった。三歳だったその子は意識不明のまま病院に搬送され、八時間後に死んだ。幸子はベランダの室外機をみると、アヴァレンティヌスがおちていくのがみえる。その光景のつづきを歩き、室外機の横から階下をのぞけばアヴァレンティヌスの亡骸がみえる。わたしは大丈夫だ。幸子はおもった。反射的に想像される未来たちがじっさいに起こりえたことなどただの一度もなく、それゆえに幸子は安心する。息子が何度も死を死んでいくからこそ、ここにいるかれはぜったいに死ぬことはない、だからわたしは、息子を何度でも殺さなくてはならない。アヴァレンティヌスの足が室外機からはなれる。
 おおきな花火大会とのバッティングをさけて毎年夏の終わりに開催されるこの街の花火大会の夜空は、ナツキの自宅からみることができた。ひとごみをきらうクタビレアヌスは、まだナツキの恋人だったころに一度だけ着たことのある浴衣を浴衣姿のナツキに着せられ、アヴァレンティヌスは買ったばかりでのりがぱりぱりの甚兵衛をきせられてごきげんだった。ベランダに出ると無数の視線が街のあちこちで気配をはなち、街が、いつもよりこころなしかくらくかんじられる夜空をかろうじて持ちあげている。となりのマンションのベランダですでに酔っ払った大学生くらいの男の子が三人でスイカ割りをしていた。
「スイカなかったっけ?」
 クタビレアヌスがいった。
「あるある」
 ナツキは部屋のなかにもどった。花火があがるまであと十五分はあり、まもなく大学生たちは怒られたのかしずかになった。
 冷蔵庫で傷みかけていた切りおきしていたスイカはおもったよりもおおきく、浴衣姿なのでやめておこうかとおもったが、やはり傷みかけていることをかんがえるとたべなければならないようにおもえて、ナツキは包丁を手にとった。夫の鼻歌と息子がよろこぶ声がベランダから流れ込んできて、赤いスイカに刃を沈みこませると手に肉を切った感触となって伝わり、ナツキは反射的に包丁から手をはなした。スイカがまな板のうえで重々しくゆれているあいだ、手にのこる感触はやはり肉だった。やわらかい肉。スイカがとまる。手の感覚は消えない。ナツキはほそく息をはくと、視界のすみの三角コーナーのレタスの葉のうえにアヴァレンティヌスのペニスをみた。
 肉を切るあいだ、幸子はアヴァレンティヌスを何度も殺した。ナツキの手はアヴァレンティヌスの血に染まった。幸子はハンドミキサーのなかでアヴァレンティヌスをこなごなにし、使わなかった肉といっしょにアヴァレンティヌスを冷凍庫にいれ、アヴァレンティヌスを赤ワインといっしょに煮込んだ。ナツキは市指定の青い燃えるゴミのふくろにアヴァレンティヌスをほうりこみ、アヴァレンティヌスを抱きしめながら首をしめ、スーツケースのなかにいれたアヴァレンティヌスを忘れた。アヴァレンティヌスのやすらかな寝息はおとなの安眠まくらに沈み込んで消え、アヴァレンティヌスの瞳は閉じられるともう開くことはない。堅牢な世界で輝く太陽がアヴァレンティヌスの死肉を腐らせる。
 アヴァレンティヌスの瞳をのぞきこめばそこにはかならずアヴァレンティヌスがいる。即座にかたちづくられるうつし鏡の迷宮のなかで、アヴァレンティヌスは何度でもたやすく死ぬ。そしてアヴァレンティヌスの死の背後にはかならず別のアヴァレンティヌスがいて、かれもまたたやすく死んでしまう。迷宮をつくる鏡をわれば、破片が足元に散る。そしてその破片のひとつひとつのなかでもアヴァレンティヌスは死ぬ。アヴァレンティヌスの死を視界にいれないように破片を踏みつければアヴァレンティヌスの死はさらに増殖する。足の裏に死が刺さる。息子がこの惑星で死んでいったひとたちの数やこれから死んでいくひとたちの数をこえて死のうとも、ただひとりなにも知らず無邪気に生を生きている息子を北極星にわたしは生きる、足の裏の痛みが、出血が、わたしをつよくする、しあわせな生を生者の数だけ想像するよりもはるかにつよく、わたしは息子をみつめている。酔っ払ったクタビレアヌスが風呂にはいらずねむりこけた。アヴァレンティヌスが浴槽に浮かぶ。墓場にみまごう晩夏の夜空に最後の火花が赤く散り、どんな死者よりもはげしくアヴァレンティヌスの頭蓋が砕けた。

 

 金曜日の夕方からせき込みはじめたアヴァレンティヌスが三十八度六分の熱を出したのは夜半過ぎ、市の二十四時間対応の幼児急病センターへ電話をかけ、手足がさわってじゅうぶんにあついとかんじられる程度ならばこれ以上に熱はあがらないと女のひとがいう。
「生後半年あたりでは、まだ体温の上がり下がりが短期的に起こりやすいんです。まずは一晩様子をみて、それでもいまの体温がつづくか上昇するならば、おちかくの病院で診察を受けてください」
 ふたたびアヴァレンティヌスの熱をはかると三十八度六分でさきほどとかわらず、アヴァレンティヌスといえば発熱の苦しみを空腹とまちがえて泣いている。おおつぶの汗がかれのひたいをおおった。ナツキはかれのからだをタオルでぬぐい、クタビレアヌスはミルクをつくった。のどの渇きをいやしたアヴァレンティヌスは、一食分のはんぶんのミルクを飲んだところでねむり、ナツキとクタビレアヌスもつづいてねむった。
 朝になると熱は下がり、しかしせきはのこっていた。午前中に近所の診療所に夫婦そろって連れていくと小児科の先生に五方十二面体のゴム製の模型をもらってアヴァレンティヌスはごきげんにせきこんだ。薬を待っているあいだ、クタビレアヌスは本だなにマスターキートンをみつけ、
「マスターキートンって、散髪屋と病院でよくみるけど、いつも一巻と二巻がないんよな」
 といった。夫が三巻を手にとるとアヴァレンティヌスの名前がよばれた。夕方、ふたたび三十八度六分の発熱をした。
 食後に一袋を一日三回、ただしく処方すると息子の体温は安定し、せきも消えた。しかし月曜日の朝、こんどは夫に発熱とせきの症状があらわれた。熱は息子よりひくいけれど三十七度五分ではクタビレアヌスはクタバリアヌスだった。
「出社はできないことはないけれど、月曜日よりもむしろ火曜日にひかえた出張のほうがはるかにだいじな仕事やから」
 といい、その日は有休をつかうことにした。
「ごはんはアヴァレンティヌスのおかゆでいい?」
「いいけどよくない」
 ふとんのなかの夫はさらにふかくふとんのなかにもぐりこむ。ナツキはアヴァレンティヌスを保育所へ送り、その帰りに家のとなりのコンビニでインスタントのおかゆを買う。レンジでチンする。クタバリアヌスはおかゆをたべ、おとといにいったばかりの診療所へひとりでいく。ぼんやりした頭でマスターキートンの三巻と四巻を読み、薬をもらって帰ってくる。これじゃあアヴァレンティヌスは薬がきいたから治ったのか、それともうつしたから治ったのかわかりませんね、と先生がわらっていた、と夫は昼食のうどんをたべながらいった。
 午後はすっかり体調がよくなった。熱もひき、ちいさなせきがたまにでるくらいだった。ねむろうにもねむれないという夫はナツキのすわるふたりがけのソファにすわり、やはりナツキとおなじようにテレビのほうに視線をなげる。
「こういうかんじ、ひさしぶりじゃない?」
 そういってナツキが立ちあがると、ぼくもコーヒー、とクタバリアヌスはいうけれど、ナツキはクタバリアヌスにはアクエリアスをあたえた。クタバリアヌスはアクエリアスをいっきにのみほすと、
「せやなあ」
 といって、天井をぼんやりみつめて、
「せやね」
 とうなずいた。
 部屋のすみにはつい一ヶ月前までアヴァレンティヌスのお気に入りだったバウンサーが解体されたまま箱詰めされるのを待っていた。リビングと寝室のコンセントのすべてにはカバーがとりつけられ、床には不自然になにもおかれてなくて、かわりにダイニングテーブルのすみには読みかけの雑誌、文庫本、マンガが秩序なく山積みされている。当初は実質的に夫の書斎だった六畳間の洋室は物置になり、わずかに扉を開けた玄関には明日の燃えるゴミの日に備えたアヴァレンティヌスの使用済みおむつがたまったゴミ袋。一陣の風が三人分の洗濯物をゆらしてベランダからはいり、玄関からぬけていく。テレビの生放送のワイドショーで、だれもしゃべらない一瞬。
 風がやみ、速報がはいる。
 夏休みを利用した長期帰省中の家庭で、五歳の男の子が行方不明になった。その日は村のお祭りで、両親が会合に出ている一時間のできごとだった。祖父母といっしょにいたものの、男の子はお母さんを探しにひとり家を出た。祖父母はその様子をみていたけれど、会合の場所は五〇メートルもはなれていない。ほそい竹を引きずりながらサンダルでパタパタ歩くかれは、集落のいたるところで目撃されたが、村を縦断する山のてっぺんのダムから流れる川へ葉っぱをちぎっては流していたのをさいごにかれの消息がつかめない。
ナツキはじぶんのコーヒーをいれる手をとめる。クタバリアヌスはリモコンを手にとる。夫の指先はちがう放送局の番号から、音量調整ボタンに移動する。その川沿いには、かれのサンダルが右足だけ残されていた。警察犬は村じゅうでかれのにおいをさがしたけれど、どのにおいもどこにもいきつくことなく、村のあちこちでとぎれていた。
「航希がな、」夫がいう。「いなくなったら、どうする?」
「どうするって、」ナツキはコーヒーのつづきをそそぐ。「アキくん、なにいってるの?」
「そんなことあるわけないって、おもってる?」
「おもってるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「やったら、ちがうききかたにすんで」アキヒロはいう。「航希がおらんくなったときのこと、かんがえたことある?」
 ナツキはこたえない。
「ある?」アキヒロはいう。
「怒ってるの?」
「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「うん」アキヒロはいう。
 父親が非行をとがめて小学六年生の息子を包丁で刺した。
「わたしは、」ナツキはいう。「子どもの未来がみえてしまうのを、みたくない」
「うん」アキヒロはいう。
「みたくないんだけど、みなくちゃいけないとおもう」
「うん」
 十八歳の少女が六年間の監禁から逃げだし家族と再会した。
「航希とふたりでいると、航希はかんがえられるぜんぶの死にかたで死ぬよ。どこでも、どんなときでも、航希が死なない世界はひとつしかなくて、わたしはそれをただしくえらばなくちゃいけない」
「うん」
 介護につかれた六十二歳の娘が八十八歳の母親の首を絞めた。
「わたしは航希を殺さないように育ててる」
「なっちゃんな、なんでそんな航希の名前と、死、とか、殺す、ってことばをちかくにおいてしゃべれんの?」
 田舎の不良グループのいじめに耐えきれなくなった中学生が、自宅マンションのベランダから飛び降りた。ナツキの沈黙に、アキヒロがふたたび口を開く。
「ぼくな、なっちゃんが買い物いって航希とふたりで留守番しとるときな、衣装ケースに航希いれたことあんねん。五分くらい。たぶん。ぴっちり蓋しめて」
「……なにしてんの?」
「ごめん、わからんねん。あのとき、なんでぼくは航希が死んでしまう可能性にあそこまで鈍感になれたんかがわからんねん。衣装ケースごしにずっと航希の顔みてて、でもあいつ、じぶんがいまどういう状況でこのままやとどうなってしまうのかぜんぜんわかってなかった。わらって、衣装ケースを内側からペチペチ叩いてて。どうしようもなくかわいいんだよ。マジで。このまえニュースでおんなじことした奈良県の父親が懲役五年やったって見たんやけど、あのひとは息子を二〇分いれてしまっとって、五分と二〇分のほんの十五分のちがいで、法の外へいけてしまうことのほうが、航希がいなくなることをこえて一瞬こわいっておもった。そんなことがやで! 衣装ケースから航希を出したら、航希は衣装ケースにいなかったみたいで。あの五分間のあとからずっと、ぼくは子どもを愛していない可能性に息がつまる。抱きしめることが首をしめるみたいで。航希はそれを見てる。見てんねん。やからこいつがことばをもったとき、ささいな記憶もぜんぶ家族のなかで結晶化させてしまうような気がすんねん。たぶん、ぜったいに。……やから、たのむから、航希がいなくなる可能性をぼくはなっちゃんにも捨ててくれへん? たのむから」
 飲酒運転の軽自動車が母娘をひき逃げし、意識不明の重体で運ばれた病院で子どもが死に、母親が目覚めた。
 ナツキはうなずく。もう一度うなずく。
「今月ね、まだ生理がきてないの」
 ナツキのiPhoneに保育所から着信が入った。 赤道近くでみっつの台風が発生し、日本列島を目指して北上する。アキヒロはつぎのことばを探している。ニュースは続く。息子の正義ちゃん(0歳)の殺人容疑で逮捕された秋澤幸子容疑者(28歳)がおよそ一ヶ月の黙秘を破り、事件の供述をはじめる。

 

 お昼寝から目をさますと航希は熱をだしたのだと保育士はいった。幼児の体温はたしかにおとなほど安定はしないし、航希もほかのお友だちといっしょに元気に遊んでいる、ただ病み上がりということで診療所が開いているうちにお迎えにきていただくべきだという、幼児クラスの主任の判断だった。使用済みのおむつと着替えを回収し、航希をベビーカーに乗せる。息子はベビーカーがすきだ。風を切るたのしみを肌ですこしでもかんじようとしているのか、ベビーカーに乗るといつも前傾姿勢になる。三十八度三分の熱をだしているはずの息子が、ナツキのほうをふりむいてわらった。
 一週間ぶりに猛暑日となった。自宅マンションから歩いて五分のところにあるとはいえ汗だくになるにはじゅうぶんだった。まっすぐのびた大通りを通る車はすくなく、道のずっとさきで地面と空の境界があいまいにゆらいでいる。あのゆらぎが熱せられたアスファルトが局所的に空気の屈折率をかえているからだとナツキに教えたのがアキヒロだった。そうおもいだすと、ベビーカーのなかで航希がはしゃぐ。ひさしをはさんでいても息子がいますごくごきげんだっていうことがわかる。航希はナツキやアキヒロが自然科学のことをかんがえているときごきげんになる。産まれるまえ、いちばんおおきな胎動をしたとき、ナツキとアキヒロはノーベル物理学賞を日本人が受賞したというニュースをみていた。子が親に似ることが、あのときは確信をもってしあわせだとかんじることができたけれども、ほんとうに子が親に似てしまうことがいまのナツキにはおそろしい、というよりもなにをどうしても似てしまうということから逃れられないような気がした。三万年後に親にたべられたひとがナツキの足をつかみ、太陽の光をさけてナツキの影にかくれた。
 雲が流れ、太陽が巨大な影を吐き出した。あらゆる茹だったアスファルトのうえに亡霊が立った。ゆるい下り坂の先にある信号が点滅し、赤くともった。ナツキは足をとめる。そのとなりに亡霊がゆらゆらと立っている。不意につめたい風がふいた。車が目の前を横切った。下水道の亡霊たちがいっせいにうめくのをナツキは足の裏できいた。航希はひさしのむこうでおとなしくなった。かたわらに立つ亡霊が顔をナツキにむける。車が二台、目の前を通過する。亡霊がナツキに巨大な手を差し出す。足元で蝉がとうに声を枯らして死んでいる。ナツキは亡霊の巨大な手をとる。ベビーカーの車輪がゆっくりと回りだす。亡霊がナツキを抱きしめ、彼女の腹部を愛撫する。雲が太陽の前を通りすぎた。

(了)