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カプリスのかたちをしたアラベスク

小説とか映画とかアニメとかサブカルな文芸界隈。批評未満。すぐにおセンチな気分になる。ご連絡は machahiko1205★gmail.com(★→@)まで。

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小説を100冊読むための「又吉直樹」/長編「劇場」(新潮2017年4月号)

読書

※ このエントリーでは又吉直樹の小説「劇場」のネタバレはありません。

 

新潮 2017年 04月号

新潮 2017年 04月号

 

 

本業はお笑い芸人の作家・又吉直樹の新作長編「劇場」が新潮に掲載された。

処女作の「火花」が芥川賞を受賞し、240万部の大ベストセラーとなったことでも話題になった作家で、かれは芥川賞の記者会見で、

「ぼくの本を読んで、合わんかってもう小説読むんやめよと思われるのがいちばん怖い。100冊はまず読んでみてください。そしたらおもろいやつが一冊はあるはずです」

といっていたことが印象的だった。

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

 

そこで今回は、又吉直樹の作家としての特徴について考えてみたいとおもう。

 

目次

 

新作長編「劇場」

今回の作品は、劇作家の青年を主人公とした恋愛小説だ。

原稿用紙300枚と、処女作の「火花」より70枚くらい長い。しかし、ぼくはこの小説を300枚以上にながくかんじた。というのも、「冗長さ」を終始かんじてしまったからだ。

ちなみにぼくは、又吉が影響を受けたと公言している太宰治はあまり好きじゃない。もちろん全員じゃなくて、他に影響を受けたといわれる古井由吉はけっこう好きなのだけれど、日本文学特有の辛気臭いかんじがどうも肌に合わなくて、読んでいてうっとおしいとおもってしまう。ただ、太宰にかんしていえば、又吉がこの作家から受けた影響というのはおそらく重苦しさじゃなくて、「笑い」だ。太宰治はけっこう「文豪」的なイメージを重ねて話されることはおおいけれど、その性格は文豪よりもむしろ現代のクソツイッタラーにちかいものを感じる。そういったところは、ぼくも個人的にすきだ。

たとえば太宰の小説「葉(『晩年』収録)」はこんなかんじだ。

 空の蒼く晴れた日ならば、ねこはどこからかやって来て、庭の山茶花のしたで居眠りしている。洋画をかいている友人は、ペルシャでないか、と私に聞いた。私は、すてねこだろう、と答えて置いた。ねこは誰にもなつかなかった。ある日、私が朝食の鰯を焼いていたら、庭のねこがものうげに泣いた。私も縁側へでて、にゃあ、と言った。ねこは起き上がり、静かに私のほうへ歩いて来た。私は鰯を一尾なげてやった。ねこは逃げ腰をつかいながらもたべたのだ。私の胸は浪うった。わが恋は容れられたり。ねこの白い毛を撫でたく思い、庭へおりた。脊中の毛にふれるや、ねこは、私の小指の腹を骨までかりりと噛み裂いた。

 

 役者になりたい。

 

 むかしの日本橋は…(以下略)

 

 

晩年 (新潮文庫)

晩年 (新潮文庫)

 

 

 「葉」という作品は散文の羅列のような構成をとっているのだけれど、そのいい加減さとほんとうに思いつきとしか思えないような自由なことばの身振りがすきで、エピソードやつぶやきの断片の順序が「おかしみ」になって表れているようにおもわれる。

 

又吉に話を戻すと、かれの小説のよいところは「軽さ」にあるとおもう。それは太宰の「葉」でみられるような軽さで、「火花」においても「劇場」においても、物語のすじからかろうじて逃れたことばというのが、とてもすばらしい。

たとえば「劇場」ではこんなところ。

 棚には殺し屋みたいな名前の酒が並んでいた。ズブロッカは汚い服装に身を包んだひどい猫背で、何度も頭を下げ謝りながらナイフでズブズブ肉を刺し、独り言をつぶやきながら地下鉄に乗って帰っていきそうだし、ブラックブッシュは相手の身体を持ち上げコンクリートの壁にぶつけ骨を砕き死体の匂いがするまで繰り返しそうな名だ。ジャックダニエルは相手の口に靴下を詰め込み、来ているタートルネックをひっぱりあげて頭上で掴み、笑いながら殴り、血を吸い込ませて窒息死させる。ラフロイグは優しそう。ジョニーウォーカーブラックは内ポケットに針のようなものを隠し持っているけれど殺害される側の人間だ。僕は誰に聞かずとも最初から彼等の存在を知っているような気持になった。

この文章のネクラぶりとたくましい想像力がおりなす「おかしみ」はとてもいい。しかし、同時にこの小説の「冗長さ」や不必要な重さもまたはらんでいる。具体的には末尾の「僕は誰に聞かずとも最初から彼等の存在を知っているような気持になった。」であり、その直後の、

 頭のなかで構成され熟成され審査を受けて、結局空気に触れることのない言葉と、生まれた瞬間空気に触れる言葉がある。

という文章に関しては、どうしてこんな不要でつまらないものを書いてしまったのか、とおもってしまう。火花ではこういうつまらない描写はほとんどみられなかった。というより、こういう「めんどくささ」は神谷さんと交わされる会話のなかで、キャラクターの個性として見事に昇華されていたのに、「劇場」においては、主人公の深刻さを無理やりつくりだそうとねつ造されたように浮いている。こういうものをどんどん削っていけば、「火花」と同じくらいの尺でじゅうぶんかけたようにおもえてしまってならない。

もちろん、又吉の長所である「軽さ」は、その「めんどくささ」から生み出される「重さ」があってはじめて成り立つものだ。しかし、めんどくささも重さも、冗長な文章によって(ある程度の長さを経て)作られるものかといわれれば、ぼくは違うとおもう。

むかし、ギターの先生に「アレグロ」という音楽指示をどう解釈しているかを聞かれたことがある。そのときぼくは「テンポ100とか120とか」という風に答えたら違うといわれた。物理的な指示などではなく、そもそもは「快活に」という意味であり、それを表現するのはテンポ60でだってできる、と先生はいった。今回の小説「劇場」を読んで、ぼくはそんなことをおもった。

 

「売れることが前提」の作家

NHKのドキュメントで、又吉は「わかりやすさ」を重視しているといっていた。

又吉の作風や、これまでにメディアを介して知らされてきた読書遍歴を思うと、ちょっと違和感がある(わからないものほど好きそうな印象をぼくはもっていた)。しかし、作家としての又吉がこのことにこだわりをみせるのは、もしかしたら商業的な背景なり責任があるのではないか、とおもった。

いちおう、(あまり好きなカテゴライズではないが)又吉直樹は「純文学作家」というくくりになるのだろう。そして、人気お笑い芸人(読書芸人)であるということ、前作がめちゃくちゃ売れたことによって、又吉は「絶対に売れる作家」になった。

このことがなにを意味しているかといえば、「人生で初めて自分の意思で読む小説が又吉作品」という読者が異様に多いということだ。又吉自身、どれだけうまく書いたところで、じぶんの小説が肌に合わないという読者がどうしても存在してしまうことには気づいている。そのうえで「100冊読んでください」と発言したのだろう。

しかし、たとえじぶんの小説と相性が悪かったとしても、はじめて自分の意思で小説を手に取った若い読者に「あと100冊読もう」とおもってもらわなければならない。又吉はそこに強い責任を持っているんじゃないか、と新作を読みながら強く感じた。

「劇場」はあまりぼくの肌にはあわなかった(「火花」は好きだ)けれど、「つぎの100冊のために」小説と向き合う作家は好きだ。ひとつでもおおく作品を残してほしいとおもう。

 

 あと、近所のTSUTAYAが潰れて1年になるけれど、そろそろゲオでもなんでもいいのでレンタルビデオ屋さんができてほしいと心底おもう。

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