カプリスのかたちをしたアラベスク

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なぜネットで殺人鬼をめっちゃ調べてしまうのか?/50人以上を殺したソ連の殺人鬼アンドレイ・チカチーロ

なんとなく殺人鬼のことを調べてしまう、というこが年に数回ある。

これほど「なんとなく」ということばを気軽に使えてしまうことに強い違和感を覚える話題もめずらしいものだけれど、ともあれ、こういう「悪癖」を持っているひとっていうのは、じつのところそんなにすくなくないんじゃないか?とかんじる。残酷なものって、じぶんではぜったいに遭遇したくないけれど、しかしじぶんとは縁遠いものだという甘えにも似た安心のなかでは強い興味の対象になる。ミステリのほとんどが殺人事件を題材としているように、ひとが死ぬということについて、どうしてぼくらは興味を持ってしまうのか。いや、ひとを殺してみたいなんておもわなくても、なぜひとがひとを殺すことになんらかの興味をもってしまうのか。ぼくはこのことが、金田一少年の事件簿を読んでいたころから不思議だった。ぼくはあのマンガの死体が出てくるシーンをたのしみにしていた。

 

金田一少年の事件簿 文庫版 コミック 1-34巻セット (講談社漫画文庫)

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以下では、実在の殺人鬼を調べたときに必ず目にすることになるアンドレイ・チカチーロのノンフィクション「子供たちは森に消えた」について感想を書いておく。

 

目次

 

アンドレイ・チカチーロについて(ノンフィクション「子供たちは森に消えた」)

現実の殺人鬼を調べていると、おそらくアンドレイ・チカチーロの名前は嫌でも出てくるだろう。

チカチーロはソ連最悪の殺人鬼として知られていて、 1978年から1990年の12年間ですくなくとも52人を殺した。被害者は若い女性か未成年の男の子で、死体の目はくり抜かれ、性器や乳房も切り取られていた。チカチーロの供述によると、自身の倒錯した性的嗜好により犯罪を繰り返し、目をくりぬいたのは「死者の目にはじぶんを殺した者の姿が焼き付く」という伝承を恐れてのことだったという。

一連の事件について、「子供たちは森に消えた」というこの事件のノンフィクションが詳しい。

 

子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫NF)

子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫NF)

 

 

このノンフィクションは、連続殺人事件の捜査にあたる民警の視点に立って、推理小説的な構成をとっている。アンドレイ・チカチーロも最初は数多くいる容疑者のひとりとして登場し、自白するのは後半になってからだ。

このノンフィクション、ひとことでいうととても素晴らしかった。

なにが素晴らしかったかといえば、連続殺人の異常性とかそういう「人間の内面を抉り出す」という書かれ方を、目指しはしているだろうけれど、積極的にそうしようとはされていない点だった。アンドレイ・チカチーロという人物の情報以上に、かれや事件の当事者、捜査員たちをとりまく「ソ連」という国の環境について非常に具体的で詳細に描写されている。たとえばアンドレイ・チカチーロにはサディズムが認められたが、その起源をチカチーロ個人の問題ではなく、社会のありかたとして書いている。そして幼いころ、隣人に兄が「食べられた」という事件についても、「ありうる話」として処理されていることにはおそろしさをかんじた。

殺人をあつかっているからといって、おとなになったぼくはグロがみたいわけじゃない。むしろ、それが起こる環境をひとつでも多く知りたい。そういう欲に対してかなり丁寧にこたえてくれる本だった。

 

「犯罪=自然現象」説

「じぶんとは大きく異なる人間」についてなんらかの興味を持つことは当然といえば当然なのかもしれない。ただ、ぼくがアンドレイ・チカチーロという人間に対してはまったく興味がない。それよりも、そういう大量殺人が起こってしまったという「現象」のほうに興味がある。

こういういいかたはあまりよくないのかもしれないけれど、ぼくは「犯罪」は一種の「自然現象」だとおもっている。特異な性質をもつある人間によってもたらされるものだとしても、そういう人物が存在するという状況がなぜありうるのか。それが生まれや教育という環境の問題なのか、それともかれをつくっている遺伝子(あるいはそれよりももっと原理的にかれをつくっているもの)によりもたらされたものなのか。

ぼくはひとひとりの存在は、なにか論理的な説明がかんたんにできてしまうほど単純なものだと(いまのところ)おもっていないし、その複雑さは「尊さ」とよびうるものだとも考えている。

しかし、それは複雑な事物をぼく(ら)が単に理解したり話せたりできるものでないだけであって、複雑な事物を複雑なものとして消化できる知恵を得ることで、なんらかのかたちで語りうることになるんじゃないかとおもう。そのとき、「尊さ」と呼んでいた「複雑性」は、またちがう呼び名をつけられねばならないだろう。そ

思考すべきことはきっと、そのさきのこと。

 

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