カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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「映画からプロットを学べ」とかいってるひとはクソだとおもってる件/映像作品から小説創作で学べることとは

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小説を書き始めたときから、

「小説以外にも映画とか見たほうが勉強になるぞおおおお」

ということを散々いわれてきてはいるものの、当初はかなり懐疑的だった。

それは「そもそもひとからいわれたことをわざわざじぶんでもやるなんて真似が性に合わなかった」とか、そういうつまらない話になるのだけれど、一般にこの意見というのは、

「映画を見ると物語の展開の仕方の勉強になる」

というものに終始している。このさいはっきりいってしまいたいのだけれど、その見解はあまりにも浅はかだ。たしかにプロット(筋書き)は物語の魅力のひとつではあるけれども、それは映画やアニメ、小説のおもしろさそのものではない。しかし、はずかしげもなく、こんなことをえらそうな顔をしていう大人というのがあまりにも多い。程度の低いことこのうえないし、なげかわしい。そういう現状をみると、滝口悠生の芥川賞受賞作「死んでいない者」がアマゾンレビューであれほど酷評を受けるのもわからないでもない。

 

映像作品には映像作品の、小説には小説の表現形式の違いに由来するおもしろさがあって、小説を書くひとが映像作品を見ることによって、あるいは逆に映像作品をつくるひとが小説を読むことによって得られるものというのは、その表現形式の差異だ。ぼくはそうおもう。

ということで、今回は拙いながらもひとりの実作者として、小説を書くうえで、いまのところぼくが映像作品からなにを学べるかをちょっとまとめてみた。

 

目次

 

「文体」と「カット」の関係

こういういいかたは嫌うひとも多いけれど、あえていえば「表現は情報の群れ」だ。

しかし、情報を純粋な情報として知覚するのは生理的な問題過ぎるので、表現そのものを考えるうえで極めて重要な話ではあるけれど、ここではひとまず深く立ち入らないことにする。物語や音楽がとくにそうなのだけれど、情報いかに提示するか、どの順序で提示するかという問題が、ひとまず表現に直結する課題になる。それは小説でいうところの語りの技術、「文体」というものになるだろう。

いかに語るか、という問題はもちろん映像作品にも避けられない問題になり、それに対応するのは映像の見せ方、つまり「カット」だ。

ひとつのシーンを提示するにしても、登場人物の位置関係、あるいは特定の人物の知覚に従ってフォーカスされるものや、視線の角度が変わってくる。

具体的な作品をあげると、ぼくはこのことをタルコフスキー監督「ストーカー」を見ているときに考えさせられた。

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タルコフスキー作品といえば「果てしなく長いパン」 で有名で、気がついたら途中で寝てしまっていた!という感想をよくいわれるのだけれど、かれの作品群を「映像美」ということばで片づけてしまってはなにも考えたことにならない。

ながい定点撮りで、扉のむこうで男女がもぞもぞ動きながら会話をしているシーンがストーカーの最初のほうにあるのだけれど、これは「覗き見」ともまた違う、なんだか映像(扉)の内と外で決定的に世界が違っているという印象がある。

それは考えるまでもなく「あたりまえ」のことなんだけれど、問題は、「そんなあたりまえのことを、なぜわざわざ認識させられなければならないのか」ということであり、このことを考え出すと、いま映像をみているじぶんというものが、いったい何者なのかわからなくなる、自我が宙吊りにされたような心地になる。

これを小説と比較したとき、

「はたしてこの効果は、映像作品特有のものなのだろうか?」

ということを考えなければ、表現を行ううえで何も得るものはないだろう。

ぼくの場合、クロード・シモンの作品「アカシア」をこの映画と比較しながら読んだりした。けっこう思うところがたくさんあったけれど、ここに書くつもりはない。

アカシア

アカシア

 

 

表現形式と認識

これについてはアリ・フォルマン監督の作品が極めて自覚的だ。

かれの映画ではアニメ描写と実写描写が混在したものがあり、有名なものであれば「戦場でワルツを」が挙げられる。

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「戦場でワルツを」は、レバノン内戦にまつわる追憶をドキュメンタリータッチで描いた作品なのだけれど、最後のシーンだけ現実の映像が使用される。ネタバレになるので詳しくは書かないけれど、

「それまでの流れを絶ってまで、なぜ表現形式を変えたのか」

というところには、制作側の深い意志であり哲学がある。それを反映させるためにその手法をとったということは、表現形式が異なれば、描かれる情景がいかに認識されるかということも決定的に異なってくるということに他ならない。

よりわかりやすいものとして、おなじ監督の映画「コングレス未来会議」という作品がある。

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「現実」と「幻覚」という二項がわかりやすく配置されている作品であり、そして原作はスタニスワフ・レム「泰平ヨンの未来会議」という小説だ。

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

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一人称という異質さ

映画をみて一番痛感するのは、小説ではありふれた形式である「一人称」がいかに特殊なものかということだ。映像作品ではきわめて特殊な手法をとらない限り、「三人称」で物語を語らざるをえず、それによる物語と登場人物、そして視聴者のそれぞれが適切な距離を保っている。しかし、ぼくらが生きているのはもちろん一人称の世界であって、その現実の世界のなかでぼくらはそれぞれに他人にぜったいにいったりしないことを、かんじたりおもったりしているのだ。

こういうことを考えると、じつは三人称の物語という形式というのは、個人が他人にぜったいに見せたりしないもの、かたちになりえないもの、ことばや行動になる以前のものというものを描き出すのは極めてむずかしい表現形式だとおもえる。三人称の物語では、そういったことを描き出そうとすると、「なんらかの強いフィクション」によってそれらを目に見えるものへと結晶化させねばならない。

そのことについては、ジョナサン・サフラン・フォア小説「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」とその映画を比較してみるといいとおもう。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

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あと、トリアー監督の名作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」もよい。ふつうに好き。

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映画をたくさん見るならdTVがおすすめだよ

ほとんどおもいついたままに書いてみたけれど、いま考えていることの軸はこんなかんじだ。

映画はだいたい週に1本見るのだけれど、なかなか感想がおいつかなくてブログにアップしそびれている感じが否めないので、今後はもうちょっとマメに記録を残していこうとおもう。

ちなみに、ぼくはdTVを使っている。

(今回の記事で取り上げたものは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が視聴可能)

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ちなみに、dTVの使用感などについてはこちらの記事でまとめています。参考にしてください。ちなみに無料おためしは31日間。ためしてみる価値はあります。

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というわけできょうはここまで。

およみいただき、ありがとうございました。