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カプリスのかたちをしたアラベスク

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KAI-YOUさんに「騎士団長殺し論」を寄稿しました/村上春樹の「メタファー」について

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

今月発売の文芸誌が村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」の書評祭りになっているのだけれど、つい先日の6日にぼくも村上春樹論的な記事を寄稿しました。

kai-you.net

まぁ、論ってほどでもないのだけれど。Yahoo!ニュースにも転載してもらいました。

村上春樹はキャラクターばかりが一人歩きしているがゆえに、妙な言い方ですが「正当に」読まれていない作家とも感じられる。

何をもって「正当」なのかはさておき、実際に本作では

「いつもと同じ」

「同じことばかりやっている」

というレビューを大変たくさん見かけたので、「それは違う」と大きめの声で一人ぐらい言っておいても悪いことはないだろう、ということで書いた。

そうなると彼の小説観や作品系譜の話を避けることができず、1万字を超える長い記事になってしまった。

 

今回はこれについての補題のようなものを。

「村上春樹はメタファーをどう考えているのか?」という話をごっそり削ぎ落としたのだけれど、これをここで公開することにした。

できれば上記リンク先の記事を読んでからの方が読みやすいかと思う。

 

目次

「イデア」と「メタファー」

前置きが非常に長くなってしまったが、作品の中核になる「イデア」と「メタファー」について、ここで考えてみたいとおもう。

まずは、両者が作中でどのようなものと捉えられているかを整理しておく。

 

イデア:姿かたちを持たない概念。ただの抽象的なもの

メタファー:事象と表現の関係性が命ずるままに動いているもの

 

なぜ騎士団長は殺されねばならなかったのか?

そして「メタファー通路」なるものの入り口を開くために、「私」は騎士団長(=イデア)を殺さねばならなかった。騎士団長を出刃包丁で刺殺すると、顔なが(=メタファー)が現れる。

そもそも「メタファー(暗喩)」とはなんだろうか。そのことについては作中で「それはほんとうに起こっている」ということばで半ば直接的に言及されている。このことはおそらく、作中の文脈ではメタファーとは表現技巧を指すものでない、ということをいっている。技巧ではなく、認識の問題だ。ここでひとつ例を挙げてみる。

たとえば、あまりいい例が思いつかなくて申し訳ないのだけれど、

「桜が舞い落ちていた。それは雪だった」

という文章があったとする。これは「桜の花びらが雪のように舞い落ちていた」という状況の認識に基づいて発せられたことばであれば、それは表現技巧として処理される。しかし、村上春樹のいう「メタファー」はそうではない。桜と同時に雪も舞い落ちているのである。つまり、ひらひらと舞い落ちるあるひとつのものがなにかひとつのものを一意的に指すのではなく、「ひとつのものを桜であると同時に雪でもある」という現実をひきうける認識のことを「メタファー」と呼んでいるのだ。

そして、このメタファーというものがどこから生まれるのか、ということについて考えたときに「イデア」についての言及が不可欠になる。客観的事実として「桜=雪」の同義性をもった物質があるとは考えづらい。しかし表現主の認識としてそういうものが生じてしまったのは、その肉体のなかにある「魂(=イデア)」の活動だ。そしてイデアとメタファーの決定的な違いは「かたちの有無」にある。イデアは表現以前、ことば以前のものであるのに対し、メタファーにはすくなくとも(小説という表現においては)「ことば」というかたちを持っている。それは「私」あるいは「システム」により無自覚もたらされる不条理であり、そしてメタモルフォーゼそのものだ。

イデアがメタファーへメタモルフォーゼすることで現実世界では目に見えない認識の世界(「メタファー通路(=「家」の地下)」)の扉が開かれる。だから騎士団長が殺されなければならなかったのだ。

 

「メタファー通路」とはなにか?

「メタファー通路」は乱暴にいえばご都合主義的展開、この記事文脈でいえば「不条理」がまとう気配(=「私」や「システム」の無意識)が具体化したものだ。そしてそれをくぐり抜ける(=表現に触れる=小説を書く・あるいは読む)ことにより、「私」(あるいは「システム」)は致命的になにかが変わってしまう。その変化は常に良いものか悪いものかがわからないために「危険」であり、そしてそれを自覚的に通過すること(=表現と向き合うこと)は決して生半可なものではないがために、「血は流されなくてはならない」。村上春樹作品の大半の主人公のように他者や世界との関わりに消極的な姿勢では決して踏破できない過酷な道だ。

この「メタファー通路」を進んでいくという行為は、かれの作品系譜において極めて重大な問題を示しているように読める。それが自身によって明言された「デタッチメント(不干渉)」「コミットメント(関わりをもつこと)」というふたつの態度だ。

村上春樹作品はこのふたつに分けることができるとされている。そして「デタッチメント」は前期作品群を、「コミットメント」は後期作品群を指し、その転換期は1995年だといわれている。道である以上、「メタファー通路」はいったいどこにつながっているのかという問題は考えられなければならない。それは世界だ。その世界が具体的にどのようなかたちをしているかはその道を通るひとりひとりによって異なっているだろうが、世界であることには変わりない。この道をくぐり抜けることによって、「デタッチメント」な態度をとっていた「私」が、まりえを救い出すという「コミットメント」のために存在するという劇的なメタモルフォーゼが起こる。「メタファー通路」とは、これまでの作品群で描かれてこなかった、変態のプロセスを具体的に描いたものだ。

 

村上春樹について触れた記事はこんなものもあります

www.waka-macha.com

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