カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


【ネタバレなし】アニメ「龍の歯医者」感想/見どころと舞城王太郎という作家について

※このエントリーはアニメ「龍の歯医者」のネタバレをしないように頑張って書きました。

 

ある日、目が覚めると嫁氏の姿がなくて、机の上には置き手紙だけが残されていた。

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嫁氏がアニメ「龍の歯医者」を見たのはリアルタイム。そしてぼくはといえば、いまのいままでまとまった時間がとれず、きょうやっとみたのだった。

 

前編・後編あわせて90分くらいと、視聴するにもちょうどいい時間だけど、しかし内容は濃く非常におもしろくみた。物語も映像も音楽も声優もすばらしかった。

 

目次

 

あらすじ

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わざわざじぶんで書くのもめんどくさいので、HPから引用する。

彼の国には龍が棲んでいる──
神話によれば、古の人々との契約により、龍は人を助け、人は龍を助けるという…
舞台は “龍の国”。
主人公は、国の守護神 “龍”を虫歯菌から守る新米・歯医者の野ノ子。
隣国との戦争が激化する中、ある日彼女は、龍の歯の上で気絶した敵国の少年兵を見つける。
少年の名はベル。
大きな災いの前に龍が起こすと言われる不思議な現象で、巨大な歯の中から生き返ったものだった。
自らが置かれた状況に戸惑うベル。そして彼を励まし、彼を龍の歯医者として受け入れる野ノ子。
激しい戦いに巻き込まれながら、二人はやがて自らの運命を受け入れて行くことに…

引用:NHKアニメワールド 龍の歯医者

やわらかいタッチの作画で描かれる個性豊かなキャラクターたちがおりなすファンタジー作品だ。

色調であり音楽、キャラクターの明るさが物語を良い意味で軽くしているのだけれど、徐々に残酷さが物語世界に現れてくる。この遷移が巧みで、作品固有の詩情をもたらしている。

主演声優のみんな大好き清水富美加(野ノ子役)も非常によい仕事をしていた。

 

エヴァっぽい?

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嫁氏の書置きに書いてあったとおり、このアニメは製作にそうとう気合が入っている。主なスタッフはこんなかんじ。

原作・脚本:舞城王太郎

脚本:榎戸洋司

製作統括:土橋圭介、柴田裕司、川上量生、庵野秀明

監督:鶴巻和哉

まぁ、すごいっていうか、おもいっきりエヴァの製作メンツで、もちろんネットをみていると「エヴァっぽい」という感想がめちゃくちゃ多い。エヴァはエヴァでとてもおもしろいアニメなのだけれども、エヴァ以降はそれに倣った世界観・プロットがあらゆる作品で引用されまくっていて、そういうものであれば食傷感が否めない。

ただ、ぼくは、

「エヴァ製作メンバーが主軸なのでエヴァっぽい」

となんていうつもりはないし、むしろエヴァとそれほど似ていないと思っている。

その理由の詳細を書けばネタバレになるので割愛するけれども、物語は舞城王太郎の寄与が大きいからなんじゃないか、とおもっている。

この物語で扱われているのは、「世界」「アイデンティティ」といったものではなく、「ひとがひととして生きて死んでいく運命」というものにあって、それを他者によって語られてしまうという特別な場所を描いている。

 

舞城王太郎的な性格:語り、語られること

といっても、「龍の歯医者」は一見してそこまで舞城舞城していない。

舞城王太郎の作風は、なんといってもベタであることだ。そしてそのベタを自覚的にいけしゃあしゃあと時に「軽薄」「表層的」といわれたりする饒舌体を用いてやってのけるところにある。そういうものは結構抑えられている印象だ。

しかし本作「龍の歯医者」も極論をいえば「ベタ」だといえる。とりわけ作品内で扱われる「運命」や「死」をめぐる議論について、それについて何を語るかに関係なく扱うこと自体が現代においては古典的(ベタ)なのである。

そういう作品はいうまでもなく、過去にいくつもあったし、きっとこれからも放っておいても世界のいたるところで生み出され続けるだろう。ただ、時代を下っていくにつれて、いまぼくらが語ろうとする事柄が、何十年も何百年も前にすでに語られ、少なくない結論を下されている。このことはよく林修先生がいっている「過去の文豪がぼくらの悩みのほとんどを解決してくれている」ということをおもい浮かべてもらえば、なんとなくわかるんじゃないかっておもう。

もちろん、これまでになかったもの、その普遍的な問題について「語ろうとする現在」固有の解答を導き出すことはいうまでもなく尊い。しかし、その問題に現在進行形で直面するぼくたちが、過去の解答をあらたに見出し、それを現在形で語ることについて、時間とのかねあいは無視できる問題ではない。そういう視点に立ったとき、「運命」や「死」を語ることは、それじたいが問題にとって変わられる。

それを徹底して書いた舞城王太郎の代表作品が「好き好き大好き超愛してる」「ビッチマグネット」だとおもう。

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 
ビッチマグネット(新潮文庫)

ビッチマグネット(新潮文庫)

 

この二作では「物語を語る私」が、もどかしい感情のうずのなかで「実作」を経験することで具体化していく。

また、「淵の王」では「私」が何者かによって語られ、語りのなかで芽生えた想像力が現実化するということが起こる。

淵の王

淵の王

 

つまり、という接続語を使うのもちょっとおかしいのだけれど、創作の題材として古典的なテーマを取り上げるとするならば、それは小説でありアニメであり、なんらかの系譜のようなものとの関係性が切実な問題として浮上する。

 

話を「龍の歯医者」に戻す。

非常に重要な要素として「語られる」ということがこの物語の中盤(前編の終盤)で起こる。それに対してベルは「ベタな」疑問というか、強い不快感を抱く。

「語ること」「語られること」について、もちろん作品内では直接言及されることはないのだけれど、その差異はおそらく「現実」と「非現実」の距離と非常によく似ている。

 

回収しないことでいたずらな象徴化から逃れている

賛否分かれる点であり、それこそエヴァのそれとはおなじなのだけれど、いくつか回収されない伏線があったりする。

それについて、エヴァでは物語が支離滅裂といわれてもおかしくないレベルだったのだけれど、「龍の歯医者」では過度な説明は意図的に避けられていて、それがフィクションとしての独立性を高めているようにかんじられた。

「事実は小説より奇なり」ってことばがあるのだけれど、それをフィクションと現実の力関係だととらえるならば、フィクションというものはこの世の中でまったくの無価値であるということになる。その無価値のなかで良し悪しを直感的に決めてしまってもいいかもしれないけれど、ぼくはそういうのはやだな、とおもう。

そういう考えに回収されないために、フィクションはフィクションとして、現実と切り離されて自立する強さを持たなくちゃならない。主題であり、いわゆる「メッセージ性」であり、そういう現実に還元できる意味を軸と据えてしまったならば、実生活上で考えられる問題を実生活において考えたことにしかならないだろう。

具体的な弊害が、「象徴化」だ。本作は「龍」をはじめとするものがなんらかの「象徴」のように描かれているかもしれないけれど、それを断ち切って、「龍」がいる世界をそのままに受け止めることによってこそ、とくべつなことを感じたり考えたりできる。過度なフィクションが現実に従属してしまうと、それは劣化した現実でしかない。たまに「寓話ゆえの脆弱さ」ということばでもって、現実とフィクションの距離を測りかねているえらいひとがいるけれど、そういう発想ではもう今後の創作物を読む意味も価値もない。

重要なのはフィクションという特別な場所でのみで働く力学に身をゆだねることなんじゃない。

 

ちなみにぼくはdTVで見た。

無料おためし期間が31日あるので、dTVを使ってないひとは以下のリンクからためしてみることができるよ!

dTVで「龍の歯医者」を観るならコチラ↓

「dTV」ムゲン楽しい映像配信サービス

 

詳しいdTVの使用感などは過去記事で書いているので、そっちも参考にしてください。

www.waka-macha.com