カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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川上未映子「シャンデリア」感想/わたしじゃない他者のすべてに思考が宿っているということ

 

シャンデリアが落下する瞬間 ─ ─ きっとその瞬間にわたしはどこ にいたってその真下にいるはずで、わたしは目を見開いて、ものすごく見開いて、その落下のすべてを目に入れる。一瞬がひきのばされたその感覚のなかで、わたしは落下そのものになる。叩きつけながら叩きつけられて、突き刺されながら突き刺して、下敷き になりながら押し潰す。落ちるなら今なのにとわたしはいつも話しかけるように呟きながら、 その下を通り過ぎる。

 

引用:川上未映子. シャンデリア  Kindle 版.

 

むかしむかし、ぼくはじぶん以外の人間が思考するだなんて思いもしなかった。

この世で誰よりも何かを考えているのはじぶんだし、他者というのはぼくの世界のなかで「何者か」によって思考を促されているだけの作りものでしかなく、ぼくのことをぼく以上に思うことなんてできず、そしてぼくの住む町が雨ならば、この世界のあらゆる土地ではおなじ強さの雨が降っているのだと信じていた。

 

川上未映子の短編小説「シャンデリア」を読んだ。

この小説は電子書籍のために書き下ろされたもので、電子書籍でしか読めない。しかし価格は安く、99円で買えて、Kindle Umlimitedの会員であれば読み放題の対象だった。

 

読んでみて、むかしのことをいろいろ思い出した。

 

川上未映子の文章でおもったこと

このブログで何度か書いたことがあるけれど、ぼくが小説を書き始めたきっかけは川上未映子の文章だった。「先端で、さすわさされるわそらええわ」という詩集であって、小説ではなかった。 

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ

 

これを読むまで、ぼくは本を読むことこそ好きだったけれど、じぶんで小説の類の文章を書いてみようだなんて一度もおもったことがなかった。大学院修士2回生になったばかりのことだった。

文章を書くことを仕事にしたい、という気持ちはたぶん高校生の頃からあって、そのときは漠然とそれが「論文」の類のものであり、そして職業でいうなら「研究者」になるとおもっていた。そういうものだとおもってじぶんの人生にあまり大した疑問を持つことなく大学へ行き、院に進学し、そしてはじめてじぶんが筆頭著者の論文を書き上げたとき、なんとない違和感というのをはじめて覚えた気がする。

筆頭著者として書いた論文はなんとか三人の査読者を説得することができ、夏頃に掲載になったのだけれど、文章はといえばあまりにひどいものだった。英語で書くわけであり、業界に合わせた言葉遣いを慎重に選んで、二週間ぐらい研究室に缶詰になって書き上げた初稿はといえば、指導教官の先生にずいぶんバカにされた。はじめは赤字で添削していたけれど、それすらも面倒になって、2ページ目からはもうほとんどぼくが書き換えたよ、と先生はいった。

そういうものは(よほど優秀じゃない限り)学生であれば誰でも一度は経験するものであって、「現状そうであった」というじぶんの技術に関して悲観することなどおそらく何もない。そういうことはわかっていた。しかし、いざ研究室のぼくのデスクにぽんと置かれていた掲載論文を手に取ってみたところで、じぶんの文章がかたちになったという実感というのは、ほとんどないに等しかった。

ぼくにはむかしから主張のようなもの、世のなかに命をかけて訴えたいというような感情とか衝動とか、そういうものは全くなくて、しかしなぜ文章を書くことに(ほとんど無自覚に)こだわっているのだろう、ということをそのときはじめて真剣に考えた気がする。研究者になりたい、学者になりたい、というのは実生活上の、あるいは社会的な問題にすぎず、それにならなければならないという切迫は、どうやらぼくにはなさそうだ。このとき博士課程への進学はもう決まっていて、これからいわゆる「修羅の道」に踏み出そうとする人間が果たしてそんなものでいいのか、という不安は同時に(強烈に)芽生えたわけだけれど、続く3年はそれを見極めるための時間だと考えても遅くないような気がした。というよりも、「何になるか」という問題なんて究極的にはひどくくだらないもののように思えた。「何者かになって、それから何をするかが決まる」という処世術的な生き方を飲み込んでしまうのは簡単だ、しかしそれにより「何か」がないがしろにされる。その「何か」がぼくにはわからなかった。

 

なにかかたちのないものをかたちにしたい。

 

たぶん、ぼくの根っこにあったのはそれなんじゃないか、ということに気づいたきっかけが、川上未映子の「先端で、さすわさされるわそらええわ」だった。

現代詩というものをそもそもよくわかっていなかった当時(いまもよくわかっていない)、決して同居することのない遠く距離を隔てたことばやイメージが、息の長い一つの文のなかで出会ったり衝突したりすること、その現象のなかで、そもそも具体的なかたちを持たないもの、持ち得ないものたちが群れをなし、ぼくという読者の思考や感情とよべるものを書き換えていくような感覚を、ちゃんと自覚的に感じられたのは川上未映子の文章だった気がする。ありていにいえば「ことばは自由だ」とおもった。伝えるでもなく、そもそも意味とも呼び難いものにこそ、ぼくは大きな感動を覚えた。こういうことが許されるならぼくにも何か書けるんじゃないかと錯覚し、その翌日に原稿用紙8枚ほどの短い小説を書いた。

死ぬほどおもんなくて、もうそれは闇に葬った。

 

シャンデリアについて

芥川賞受賞以降の川上未映子は好きになれなかった。正直嫌いだ。

「ヘヴン」にしろ「すべて真夜中の恋人たち」にしろ、川上未映子は意味を超えたところで創作をするのではなく、意味のなかで創作をする方向へと向かっていっているようにおもえ、その方向性というのはぼくにとって初期作品の頃に持っていた「輝き」のようなものがひどく損なわれているようにおもえた。彼女の文章の身振りに現れる「ことば」や「表現」の自由さが好きだったのに、作品を重ねるごとにそれを彼女のなかから意識的にそぎ落としていくように感じられた。

 

しかし今回読んだ短編「シャンデリア」は、かなり初期作品に近い感覚があった。もうこういうものは書かないんじゃないかとおもっていたので、素直に驚いた。それも関西弁を使って創作していた時期よりもはるかに洗練されているようにおもえた。

物語らしい物語はない。

簡単にいえば40代の独身女性の「わたし」がデパートにいってふらふらするだけの話だ。

しかしこの小説は奇妙な自意識が巧妙に張り巡らされている。そもそも小説において「わたし」と語りはじめることは、原理的に「わたし」を世界で特別なものへと押し上げる。そしてこの小説内で「わたし」が語る他者は、非常につまらない、名前を与える価値すらもない「特別さを失った存在」として描かれている。まるで「わたし」がこの世でもっとも思考していて、他者というのは何も思想を持たないあんぽんたんかのようなアイロニーを漂わせた文体。

しかしこの小説のなかで、「わたし」は「わたし」を客観的に、冷めた目線で見つめている。この冷たさは他者に向けられた眼差しと非常によく似ている。特別な存在である「わたし」にとって、「わたし」や「わたしの人生」なんてちっとも特別じゃない。無数の「わたし」が存在し、起きて、飯を食い、買い物をし、誰かの悪口をいったり、誰かに憧れたり、歯を磨いたり、寝たり、様々なことを世界中で行い、その各々の自意識の世界であらゆる他者は究極的には「とるに足らない」ものでしかない。どいつもこいつもつまらない、とおもう側から、じぶんはその「どいつもこいつも」のなかにあっという間に取り込まれていく。

 

始まりと終わりのある文章は、それが望む/望まざるにかかわらずなんらかの「かたち」をしている、とぼくはおもう。

「かたちなきもの」は無限にあり、有限でしかありえない「かたちあるもの」は相対的に尊いともいえる。

ぼくが詩や小説に関して断言できることは、それらが「かたちである」ということだけだ。そしてすべての書かれてしまった詩であり小説というものたちが「かたちである」という尊さを受け入れ、そして読み、思考するという行為を経て「意味づけ」が行われる。いままで「意味」を憎悪さえしてきた。しかし、「かたちである」ということはいかなる「意味づけ」からもおそらく逃れられない。すべての「かたち」は「意味」によって飲み込まれる運命にあるのだろう。「とるに足らないわたし」が「特別である」という刹那において、ことばや物語は「かたちなきもの」をとらえる感覚器官となる。

 

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