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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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ベビーカー付き東京観光はほぼ不可能/ひとりで「バベルの塔展(ボイマンス美術館所蔵)」の感想。

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ゴールデンウィークということで、家族(嫁・息子・義母・義叔母)で東京に来た。メインの目的はこの四月から東京へ引っ越してきた義妹夫婦のおうち訪問なのだけれど、一泊して嫁と息子と義母と義叔母は関西へ帰り、ぼくは明日と明後日にちょっとした用事があって、それからしあさっての文学フリマにちょっと顔を出して帰る予定。そのあいだ、息子を嫁と義母にまかせっきりになるのだけれど、ふだんずっと相手をしているぶん、半年に一回か、季節に一回くらいこういう日があると非常にたすかる。世の中の専業主婦(夫)のフレンズはきっとそんなことをおもっているんじゃないかな。家庭をかえりみることなくいわゆる「モーレツ」に仕事にいそしんでいるひとたちはたまにはこういう意見を聞いておいてもバチはあたらないだろうし、ぼくらだってたまにはこんなことをいってもバチはあたらないはずだ。

 

しかしながら、今週にはいってからというもの、どうも調子が悪い。

先週あたりから息子が風邪とはいえない程度の軽い咳や鼻水が目立つようになってきたとおもったら、それに似たような症状がじぶんにもあらわれたとおもったら微熱が出た。37度。それ以上あがることはないものの、その微熱がただただ終わる気配もなく続いていて、全体的にけだるく、鼻づまりによって睡眠が浅くなり体調はすこぶる悪い。今日も朝から浅草観光と洒落込む予定だったのだけれど、ぼくは体調がかなり悪く、午後から上野で合流することになった。動物園に行くのだ。いま住んでいる神戸の家は王子動物園から近いのだけれど、まだ息子を連れて行ったことはない。しかしなんとなく、子どもといえば動物園であり、ぼくとしてもなぜか妙に息子を動物園に連れていきたいモチベーションが高いときた。

家族とは13時にJR上野駅の公園口を出てすぐのところで待ち合わせることにした。しかし時間になっても一向にあらわれない。嫁氏にLINEを送れば「まだ浅草」。どうやら地下鉄を乗ろうにも人が込みすぎて身動きが取れないうえに、エレベーターが見つからず地下に降りれずさまよっているとのことだった。

結局、嫁氏たちはJR上野駅公園口までたどり着けなかった。地下鉄の上野駅からJR上野駅まで何とかたどり着いたものの、公園口にいくためのエレベーターを見つけるには疲れすぎてしまっていた。息子も空腹でギャン泣き。中央改札まで迎えにいって(ぼくも待っている間にまた体調を悪くした)、落ち合ったころにはもう14時、新幹線の時間が16時30分だから動物園をあきらめて昼食をとり、別れた。息子はおなかいっぱいになるとごきげんになった。

東京はベビーカーや車いすのひとにやさしくなさすぎるんじゃないか、とみんな口々にいっていた。疲れ切った声だった。エレベーター縛りにすると東京に限らず、どこの都会でも移動難易度は爆上がりするかもしれなかった。それでも東京が特別なのは、ひとえになんでもない段差と、出口の多さにあるとおもう。

 

「バベルの塔」展へいってきた。

今日から数日ほど町屋良平さんに泊めてもらうことになっていて、それまでのあいだネットカフェで体を休めようと決めていた。しかし、せっかく上野に来たのになにもしないで帰るのはやっぱりもったいとおもっちゃうし、それならばと、前から気になっていたボイマンス美術館所蔵「バベルの塔」展へいってきた。入館の列に並んでいるあいだいに、大友克洋のバベルの塔をバームクーヘンみたいに切って中身を覗くみたいな絵があったりして、へーっておもった。

 

この展覧会の見どころはなんといってもヒーテル・ブリューゲル1世の「バベルの塔」だ。この展覧会じたいは16世紀ネーデルランド美術のコレクションなのだけれど、「バベルの塔」はなかでも群を抜いて有名だ。それを生で見れる。

「バベルの塔」という作品は「塔の巨大さ」というインパクトが非常に強いものの、けっして大きいとはいえない作品だ。59.9×74.6cmの作品で、むしろ絵画としては小さいといえる。だが、じっさいにこの絵をじっくり見てみると(混雑のため、絵の前で立ち止まるのはできないのだけれど)、やはりこの絵は大きい。

この絵の大きさは、ひとの小ささによって支えられている。資料集のなかで縮小コピーされると見えるか見えないかがあやしいレベルのちいさな人間たちが、かなり大量にあくせく働いている。塔にむらがる小さな人間たちをはじめとする、小さき者たちの具体的な存在が、この絵を巨大なものにしているというたしかな実感があっておもしろかった。

 

ヒエロニムス・ボスの「放浪者(行商人)」の”わからなさ”

ほかにきになったものといえばヒエロニムス・ボスの「放浪者(行商人)」という丸い絵だった。

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この画家のことは今日この日まで知らなかったのだけれど、寓意を絵の中に積極的に盛り込んで、隠喩的に「意味」をつくりあげているらしい。そのため展覧会におけるかれの作品解説は解説というよりは「解読」という様相をかもしており、それが「わかりやすい」印象をつくっていた。

たとえば上の絵はこんな解説がされている:

男の足を見れば、片足はブーツ、片足はスリッパ。この様子から男はかなり貧しいと考えられる。

左の建物。屋根には水差し、鳩の看板などが「娼婦小屋」であることを意味している。

中央の男は娼婦小屋に後ろめたい視線を投げており、これは誘惑のなかで揺れていることを意味している。

木の上のフクロウは「知恵」と「悪(うろおぼえ)」の象徴。

ぼくがわからないのは、なにかの象徴として出されるモチーフを、実際に表現として絵に描くことの差異だ。上のような解読的な姿勢をぼくは否定しないし、それはそれでわかりやすくおもしろいし、おそらくまちがってもいないだろう(そこらへんは疑う知識も知恵も持っていない)。しかし、画家であれ詩人であれ音楽家であれ、なんでもいいのだけれど、表現を行うひとが「強すぎる(いわゆる”象徴”を逃れられない)モチーフ」を用いるならば、それを選定したことに加えてそれを表現として再構成する二重のプロセスをとるため、複雑さが不可避的に生じてしまう。ぼくはこの絵をしばらくじっとみていたけれど、フクロウが選ばれたこととフクロウが描かれたというふたつの事実の上にある目の前のフクロウのことが、とにかくわからないのだった。こういうわからなさが好きだ。