カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


恋愛サイコパスが読める恋愛マンガは不倫SF「あげくの果てのカノン」/恋愛をSFで語る意味について

久々に恋愛ものの小説やマンガを読みました。

 

今日のお話

 

「恋愛サイコパス」なるもの

先日、友だちと江國香織「神様のボート」の読書会をしていたとき、恋愛についての話になった。普段そんな話はしないけれど、江國香織なので仕方がない。

 

正直、「神様のボート」について、物語だけに関して言えば「こんなオカンおったら嫌やな」くらいしか感じなかった。この小説は母娘が交互に語るこの物語で、母親はむかし自分のもとを去っていった男(=娘の父親)を待ち続け、ふるい恋愛感情を変わらずに持ち続け、それこそを生きがいとする女の(あるいは恋の)狂気を描いている。

変わらない母に対して、娘は変わってゆく者という対照的な存在として配置されていて、それがあるからかろうじて読了はできた。小説は共感しなくても楽しめる読み方なんていくらでもあるのだけれど、そもそも恋愛に興味のないぼくにとって、そういう話を長々と聞かされるのはそれなりに苦痛で、そもそも子どもに自分らの情交の話を美しいものとして語る母親の姿は、狂気と言うよりもバカにしか見えない。そんなことを思った。

 

ぼくは、「二十代中盤にもなって恋愛に一喜一憂できる神経が理解できない」というようなことをいうと、ちょっとそれはどうなの、ということを言われた。

「かわいい女の子と一緒にお話したり、どこかにデートに行ったり、プレゼントしたりしたくないの?」

と聞かれ、

「一切ない。そういう面倒臭いプロセスをぜんぶすっ飛ばして情交へと即座に移りたい。やむを得ない場合は金銭のやりとりも考慮している」

と答えたとき、「恋愛サイコパス」という言葉が生まれた。

この言葉の厳密な定義はなされなかったのだけれども、だいたい「恋愛において共感性が乏しく、性欲の最短経路を行くことを合理的と信じて疑わない姿勢」を指すようだった。昔のえらい人が「恋愛とは性欲の詩的表現だ」などといったものだけれど、たしかにぼくの中にそんなものは存在しない。性欲が恋愛を迂回しない。ある意味誰よりもピュアだと思うのだけれど、賛同は得られなかった。 

学歴を使って、マッチングアプリで某ドカタと優勝したいと思った。

 

「SF」と「純愛」の親和性について

「あげくの果てのカノン」(米代恭)を読んだ。

このマンガはちょっと前に西川貴教と松井玲奈の番組で取り上げられていた。

高校時代から8年間片思いをしていた先輩とバイト先で再会するシーンから始まる。先輩はすでに結婚していて奥さんがいるのだが、彼の誕生日に主人公のかのんはデートに誘われる 。しかし先輩はデートをドタキャンしてしまうのだけれど、テレビをつけたら地球を守ってました!っていう感じの「不倫SF」である。

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このマンガ、正直いって最初の方は個人的に「神様のボート」的なつまらなさがあった。

しかし、2巻の後半からこのマンガはおもしろさを見せ始め、おそらく「これが先輩の初めての不倫じゃない」とほのめかす妻のセリフ、そして吹っ飛んだ体を元に戻す「修繕」により、肉体だけじゃなく「感情」までもが変質してしまうという事実が明かされる。感情について、その制御が技術的な課題としてしまうこのアプローチは、王道のSF的アプローチといっていい。

恋愛小説・恋愛マンガの多くは、感情を感情として、「わかり得ない不完全なもの」だという大前提をまず読者は受け入れなければならない。

ぼくが恋愛の類を苦手としている大きな理由はここにあって、このように「感情を特別視」する考え方が支配する空間において、物理法則をはじめとする世界の論理性は価値の低いものとされてしまう。無論、このあらゆる「正しさ」から絶対性を剝ぎ取るこの凶暴さというのは場合によっては効果的に作品の強度を高めてくれる。しかし、恋愛小説・恋愛マンガにおいて、個人の性欲のメタファとして具現化した甘ったるい幸福が描かれる「だけ」で終わりすぎている印象がどうしてもある。「恋愛感情」しか描けない「恋愛」を、なぜ今更読まなければならないのかよくわからない。

 

ただ「あげくの果てのカノン」では、主人公の「変態的」な先輩への執着(変わらない恋心)は、「外的要因」によって先輩の内面が「変えられてしまう」というSF的展開によって相対化され、「恋愛」が「恋愛感情」以上のものを描き出そうとする。これがおもしろい。

このことについて作家の村田沙耶香が帯で的確に書いている:

この漫画を読んでいると、「恋」を解剖している気持ちになる。かのんは変わり続けていく先輩に、変わらない恋をしている。その純粋な発狂は、恋をする私たちの極限の姿のようにも思える。発情している私たちが残酷な化け物だとしたら、「恋」の根元には一体何があるのか。

「恋愛」と「SF」は、皮膚を隔てた内外の圧力として、対をなしているような関係にあるのかもしれない。

 

「最終兵器彼女」との類似

SF設定を取りながら「変質」と「純愛」を描いたマンガといえば、忘れてはいけないのが「最終兵器彼女」(高橋しん)だ。

シュウジとちせの十代の特別じゃない恋愛が、「戦争」と「兵器化」によって特別化される。恋愛はおそらくその内的な運動だけで語られると、胸焼けする恋愛感情が吐き出されるだけでしかないけれど、外的な強烈な力が加わることによって、恋愛では語りえなかったものたちが恋愛の射程距離に入る。この構造が「あげくの果てのカノン」とよく似ているように感じた。

その外的な力が実は「セカイ系」と呼ばれた作品群を影で支えていたんじゃないかと、今更ながらそう思えてならない。そして感情を感情として語るのではなく、感情を身体性と不可分なものとして語ることによって、ほんとうに感情を語れるのかもしれないという可能性はちゃんと評価すべき事柄だろう。

 

まとめ

優勝したい。