カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

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伏見つかさ「俺妹」→「エロマンガ先生」の発展がなぜ素晴らしいか真剣に考えてみた。

※このエントリーには伏見つかさによるライトノベル作品「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」「エロマンガ先生」の一部ネタバレを含みます。

お兄ちゃんのバカ!

変態!

ラノベ主人公〜!

でおなじみのエロマンガ先生がおもしろい。今期でぶっちぎりで好きなアニメはこれだ。

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今回は俺妹やエロマンガ先生を見ながら、ライトノベルについて前々からぼんやり考えていたことを漠然と書いてみたいとおもう。

 

ちなみにぼくは普段から小説を比較的読む方だと思うけれども、かなり偏った好みを自覚していて、基本的に好んで読むものといえば海外文学とライトノベルだ。

なぜそうなのかをちゃんと考えたことはないのだけれど、パッとおもいあたることといえば両者とも「ぼくの想像を超えたもの」である確率が他の小説に比べ高いからのような気がする。ぼくは「こいつ頭おかしいんじゃねぇか?」というようなありえない設定・出来事を大真面目に描き出す作風が好きで、また、作品を群として見たときに見える個性というものに強く惹かれる。

 

ライトノベルを読み始めたのはごくごく最近のことで、この分野において詳しくはないのだけれど(また、ライトノベルは良作と駄作の差がめちゃくちゃ激しい)、とりわけここ10年15年でえげつない進化を遂げたメディアだと思う。というか、Wikipediaにもあるように、そもそも「ライトノベル」というものの厳密な定義が不在だ。そのため作品そのものだけを抜き出して「ライトノベルか否か」の議論をすること自体に大した価値はなく、現状「ライトノベルレーベルからライトノベルとして売り出された作品」を「ライトノベル」と呼ぶしかない。いわゆる「純文学」と同様、商業的な便宜でしかない。

 

目次

 

キミが育てた「萌え」をオレの「萌え」と対戦させようぜ!

ただ、この「ライトノベルレーベルからライトノベルとして売り出された作品」群というのは、冒頭で言った通り特徴的な発展を遂げているように感じる。

ぼくが感じる、ここ10年ほどのライトノベルの特徴といえば「メタ性」だ。

いうまでもないことだけれど、「ライトノベル」という言葉から多くの人が想起するのはいわゆる「萌え」だ。ライトノベル市場はこの「萌え」という概念を駆動力として市場を大きく拡大してきたわけだけれど、これに関して興味深いことといえば「萌え」という感覚は極めて曖昧で多岐に渡っているにも関わらず、一定の集団を惹きつける強度を備えているということだ。

そしてそれを好む立場からしてそれは、

「なんかわからんけれど、わかる」

「わかるんだけれど、よく考えたらわからない」

 

のどちらでもない。むしろ、個々に「萌えとは何か」みたいなものに対して、かなり主観的な定義を持っている。漠然としていて、不確かなものについて自分なりの理解と解答を「育てあげる」ことが、「偏愛」が行為して表面化したものなのかもしれない。

 

ライトノベル読者の個々のそういった偏愛の形が議論となってぶつかりあうのは、ライトノベルについて自分の理解の正しさを主張するためでもあるだろうけれど、おそらくその根本には「ライトノベルとは何かを知りたい」という欲求なのかもしれない、とふと思った。

 

力学的な関係性とクラスター

そして本来定義すらまともになされていないこの作品群に対して、「ハーレムもの」「サバイバルもの」「異世界転生」「俺TUEEEE!」……などの詳細なジャンル分けがされているのはよく考えてみればちょっと奇妙だ。

しかし、自然科学としてこの現象を見るならば、雑多なあれこれが特徴的なクラスターを自発的に形成するというのは当たり前の話になる。原子みたいに具体的な物でもいいし、概念みたいな抽象的な塊でもいいのだけれど、個体と個体の間に何らかのポテンシャル(力学的な関係性)が介在するならば、集団として何らかの構造は形成されてしまうものだ。

たとえば小説という分野では、大きく分けて「作者」「編集者(出版社)」「読者」という3つの要素によって力学場が形成されている。それぞれは「入力」、「フィードバック」、「出力」という機能として働いていると言えるかもしれない(下図)。

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図:作品の価値付けモデル。読者に選ばれる(=市場価値)を高めるように編集者が作者と読者の差異を調整。

 

小説によらず、商業出版なら基本的にすべてこの構造が大元にあると思うのだけれど、「純文学」「大衆文学(エンタメ小説、一般小説)」「ライトノベル」という大きなジャンルにおいては、そもそものこの三者の力関係が違っている。何を持って良いとするのか、どういう意味を持って創作するのか、まぁいろいろ理由はあるけれども、作品を評価する際の係数が違う、という感じだと思う。言い換えるならば、ぼくがいう「大きなジャンル」というものは、この係数の大小関係によってなされる分類だ。

 

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※上式は作品の評価を感覚的に数式モデル化したもの。W,R,Eはそれぞれ作品xについての作者・読者・編集者の評価。係数a,b,cが三者の力関係を示す。

 

それを前提とするならば、「ハーレム」だの「俺TUEEEE」だのは「小さなジャンル」という風に言えると思う。この「小さな」という言葉の由来は、「ライトノベル特有の力関係によって生じる構造」という点にある。

 

「力関係」がもたらすもの

 ここで、

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というモデルについて、もうちょっと細かく見てみる。

「作者の意思(関数W)」 が作品評価の際に支配的に働くならば、いうまでもなく他の作品との関係性は希薄になるし、市場(読者)のニーズに応えるためのフィードバックがうまく機能しない。そのため個々の作品はそれぞれ気体分子のようにぐちゃぐちゃに市場に飛び交うことになり、名付けるに値するような「小さなジャンル」はほとんど形成しないだろう。

これは「読者の意思(関数R)」が支配的に働いても同じことが言える。どこかの偉い人が「作者とは究極の読者だ」みたいなことを言ったのだけれど、「自分の読みたいものが欲しい」という欲求が肥大化すると、その良し悪しの評価・ひいては供給に作者が存在しなくなる。これは読者自身がオリジナル作品や2次創作を行うという現象で現れているような気がする。同人誌や小説投稿サイトに見られる作品の氾濫がその一例かもしれない。

しかし、完全に「作者」となるかと言われればちょっと違っていて、とりわけ2次創作では他作品との相互関係が大きな意味を持つ。※もっとも、ここでの作者Wは「模倣なきオリジナル」を生み出すという簡略化をしているため、事実はこんな単純じゃないのだけれど。

関係性があるということは、「小さなジャンル」を作る駆動力として働くことと同義になる。東浩紀の「動物化するポストモダン」はオタク文化やら消費やらをこの「小さなジャンルの生成」として捉えているんじゃないか、と改めて読み返すとそう感じられた。

じゃあライトノベルはといえば、編集者(関数E)が(極端にいえば)支配的に働く特徴を持っているとぼくは考えている。

ライトノベル作品は出版時にシリーズ化が想定されているため、企画書をあげてから作品の校正などのプロセスが入ってくるあたり、他の小説ジャンルとは全く異なるフローだと言える。

「作者と読者の差異を読み取る」ということは、市場の統計的性質を作品評価・次作の制作に盛り込むということになる。そしてその統計的性質というのは「小さなジャンル」に他ならない。読者が自身の「萌え」に関する正義を戦わせる消費行動によって現れた特徴を、これらの作品では新たな意味として自身の中に取り込み、増殖する。

具体的に何が起こるかといえば、「パロディ」であり、「メタ化」だ。

過去の作品群で話題を作ってきたものをパッケージ化し、展開の「ご都合主義」をライトノベルの歴史性を含んだ強固な意味として作品へと還元する。

この市場の振る舞いを積極的に盛り込んだ作品群は、その分野特有の系譜・歴史によって重層的な感触を獲得するに至っている。

 

「俺妹」→「エロマンガ先生」の進化

前置きが長くなったけれども、ここから本題に入る。

ぼくは「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」に非常に感動したのだけれども、その理由は上述の歴史性にある。

このライトノベル作品では、「リア充系完全無欠ギャルの妹が実はエロゲオタクだった」というエピソードを起点とした妹萌えホームコメディとして始まるのだが、話が進むに連れて「学園ラブコメ」・「ハーレム」・「妹との禁断の恋愛」というテンプレート的なエロゲ展開へと発展していく。

もちろん、この筋だけをこのように書いたところで「ありがちな話」にしか見えないのだけれども、この作品を重層的な仕上がりにしているのは、主人公・京介とヒロインである妹・桐乃が実際にエロゲをプレイする描写が挿入されることで、現実とゲームの世界観が相対化される点にある。

つまり、エロゲという表現形式を持って現実とフィクションに入れ籠構造を導入し、あたかもエロゲをプレイしているかのような物語になっているのだけれど、この複雑さは上記で述べた多数の作品・多数の読者・市場からのフィードバックによって生じる「小さなジャンル」を1つの作品の中で生成させ、独自の生態系を作り出している。たった1つの作品の中で「文化」を作り出したのだ。

 

この作品の根本の狂いは「妹に恋をする」ことにあるのではない。そもそも、

「好きなものを好きと言って何が悪い」

という激しい感情こそが、現実と虚構、常識を解体する大きな力として作品以前に働いている。そしてそれを貫くためにはエロゲをはじめとするオタク文化が重みを持って作品世界に存在していなければならず、「隠れオタク」という桐乃の生活の二重性を導入したことにより、「オタク」と「非オタ」の歴史を同時に引き受けることに成功した。これが「俺妹」が描き出した「文化」だ。

 

それを受けて「エロマンガ先生」では、「俺妹」すらも暗に引用・パロディ化しながら物語を押し進めている。妹を愛している状態から始まり、妹に愛していると告げるために妹を主人公にしたライトノベルを創作することで物語の扉が開かれているという展開は、「俺妹」のプロットを高密度に圧縮したセルフパロディだ。

もちろん、ただのセルフパロディではない。伏見つかさはオタク文化を正当に継承しながら「妹」を起点として、独自の作品系譜の構築に成功している。そしてその構築というのは、雑多な作家たちの雑多な作品が市場で軋り合うことで形成されるクラスターを、自分ひとりで行っているということになる。ただ小説を書いているわけでない、という凄みを感じずにはいられない。

 

ライトノベルはぱっと見の内容的には「重く」はない。しかし、「業界あるある」「オタクあるある」の背後に耳をすませたとき、ただの笑いにはとどまらない「重さ」と「狂気」が満ちている。