カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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無機質なものとしての生命、人間依存しない知性/「BLAME!」「横浜駅SF」について

 

毎週水曜日はシネリーブル神戸が安いので、午前中に映画「BLAME!」を観てきた。

原作は弐瓶勉のマンガ作品であるのだけれど、その個性の強さゆえに一般性は低い。「ハードSF」と呼ばれるように非常に重厚で煩雑な設定を持った世界観であるにもかかわらず、作中でセリフはめちゃくちゃ少なく、設定が設定として語られる機会というものがほとんどない。そのため、このマンガは「よくわからないデカい場所をひたすら歩き続けるだけ」という印象を持ってしまうのもぶっちゃけ無理はないのだけれど、しかしぼくはそれが悪いとは思わなかった。

 

原作について

「BLAME!」で徹底して描かれるのは「基底現実」と呼ばれる人間がかつて生み出した機械が自律的に制御する都市だ。そしてその都市はといえば、果てしない階層構造へと成長し、惑星を覆い尽くしている。

人間たちはかつて都市の管理機構の制御権を持っていたものも、ある日突然始まったという「感染」という厄災によりその権限を失い、機械により「排除対象」とみなされる。昨今よく言及されるシンギュラリティ(科学的特異点)以後の世界についての「最悪の結果」だとも言えるありかたになるだろう。

作者の弐瓶勉自身もたしか言っていたことなのだけれど、

「BLAME!は背景(都市)が主人公」

だという。SF作品らしいアクションシーンは決して少なくはないのだけれど、この作品の特徴の1つとして、動的な印象が全くないということがある。絵画的、とでもいえばいいだろうか。どれだけ生物たちが都市のなかで激しく立ち回ろうとも、都市の巨大さゆえにかれらの振る舞いなど無視できるレベルの微小さでしかないことを思い知らされるような、冷徹な巨大さがなにもかもを静止させる。

この作品はひたすら「都市の全体像」を立ち上げようとする意思に満ちていて、主人公の霧亥とは、究極的には都市を内側から覗くための感覚器官でしかない。しかし、この都市の全貌が見えすぎてしまうと、丹念な描写によって作り上げられた「都市」そのもののアイデンティティが根本的に損なわれてしまう。このことに関しては、余計な説明をうだうだ続けるよりも、カフカの未完の長編作品「城」を思い浮かべてもらったほうが早い。これを引用すれば一言で済む。すなわち、「城」は辿りつけないから「城」なのだ。

映画版「BLAME!」について

同じく原作弐瓶勉のテレビアニメ「シドニアの騎士」の制作チームにより、三次元コンピューターグラフィックス(3DCG)で作られている。

物語は原作の要所要所を再利用しながら作られたオリジナルプロットで、原作以上に「ヒューマンドラマ」が中心に据えられ、そこで一般性が担保されている。このことの良し悪しについては特に何かをいうつもりもない。ただの好みの問題でしかないだろう。

 

それ以外に映像版とアニメ版の大きな違いといえばやはり「動き」にある。

 

原作ではどんなアクションでも「静的」な印象を受けたのだけれど、アニメ版ではとにかく動きが強調され、非常に「動的」な仕上がりになっていた。

これによっていわゆる「SFらしいSF」になっているだけではない。ぼくが非常に楽しんだのは、霧亥のチート武器である「重力子放射線射出装置」を放った際の時間の静止だ。重力子放射線射出装置は威力の強大さゆえに、激しく動く戦闘の場ですら強制的に静止させ、それが放たれた瞬間に世界が変わる。この静止の瞬間こそがまさに「BLAME!」だと思った。

 

人間のためじゃない「知性」のありかた

しかし横浜駅は具体的な最終形態に向かって百年間工事が続いている訳ではない。むしろ横浜市および日本全体の鉄道ネットワークという外界の状況に応じて柔軟にその姿を変化させる事こそが、都市の中枢である駅のあるべき姿だと言えよう。すなわち「常に工事が行われている状態」こそが完成形と考えるべきである。

柞刈湯葉,横浜駅SF(あとがきより引用)

 

カフカの「城」にも似た 「BLAME!」で描かれる世界の果てしなさについて、(間接的にではあるが)端的に言及していると思われるのは上記に引用した「横浜駅SF」のあとがきだ。

「横浜駅SF」は工事が終わった事のない日本のサグラダファミリアとも揶揄される「横浜駅」が、自己増殖の末に本州のほぼ全域を覆い尽くすという世界を描いているのだが、都市の自己増殖や人間の排除やら、「BLAME!」のパロディ的なカラーも強く、その事は作者の柞刈湯葉も言及している。

ただ「横浜駅SF」のおもしろさというのは、「無機生命体として都市」というイメージをかなり具体的に持って作られているところにあり、そのコンセプトはイリヤ・プリゴジンの「散逸構造理論」に基づいているという。これについてはプリゴジン自身の教科書を読んでもらいたいのだけれど、京都で大学生をやっていたぼくはといえば、「鴨川沿いに恋人が等間隔で並ぶ」という現象を例に授業での解説を受けた。要するに、

「絶えず外とのやりとりがある環境下で、その環境に即した構造を自律的に形成する」

という理論だ。

これは熱力学のなかでも極めて難しいとされる「非定常開放系」というものの研究につながるものである。系そのものが外から物理的な影響を受ける事で、自身の物理的状態を変化させるという挙動は知性を想起させるものではあるが、そこに通常ぼくらが「生物」と呼びたがる「有機的なもの」は介在しない。

上記はあくまで感覚的なものにすぎないのだけれど、「知性」とはなんたるかを定義する事の重要性を実感するには格好の題材となるような気がする。たとえば「知性とは環境に適応する能力だ」と定義するならば、知性についての議論に生物と無生物の区別は無意味になる。

知性というものを自然科学と捉えて機械的な立ち位置から研究を初めてしたのはおそらくアラン・チューリングだろう。「チューリング」という名前と「知性」というキーワードを出すと、だいたいは「チューリングテスト」やら「人工知能」の話が出てくるのだけれど、「BLAME!」や「横浜駅SF」で扱われている「知性」はむしろチューリングパターンだといえる。チューリングパターンもまた生物ではないものの環境適応(自律的なパターン構築)についての研究であり、「知性」を人間依存するもの出なく自然現象として捉え直したという点で、もうちょいチューリングの他の研究と同様に世の中に知られてもいいんじゃないかと思う。

なんにせよ、「BLAME!」の原作で徹底されている「無機質さ」はこういうスタンスにあるのではないかとぼくは思っている。

自然現象のなかで生きるぼくらもまた、究極的には自然現象でしかない。