カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


子どもが生まれてからオナヌーできない問題。

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とつぜんだけど、セッ久とオナヌーはちがう。

ぼくはそうおもっている。
日頃のストレスやらお酒飲んだときとかのやり場のない性欲は射精によって回収されるといえばそうなんだけど、射精すりゃいいってもんじゃない。仕事でも主にビジネスビジネスとぶひぶひいってる連中がよくいうじゃないですか、
 
「結果よりも過程が大事だ」
 
って。ぼくはすげーそうおもうんですよ、射精より、射精にいたるまでの経過が、射精の満足度をあげる。そして射精の満足度っていう座標軸はひとつじゃない。
たとえばラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」でも、ピアノ独奏とオーケストラだとぜんぜん違うし、どっちがいいとかそんなん比べられない。独奏には独奏の良さがあり、あの音楽を作るまでの表現的なプロセスも独奏ならではのものがなされ、オーケストラでもそれはしかり。
射精もおんなじ。
 
射精は表現なんだ。
 
目次
 

 

なにがちがうの?

好きなのは2時間ぐらいじっくりコトコト煮込んだ射精だ。
ぼくはほんとうにムラムラきたとき、瞬間瞬間でさまざまな異なるおっぱいを想起しながら、できるだけゆっくりとecstasyの満ち干きを全身に刻み込むような射精をしたくなる。このプロセスというのはオナヌーならではのものだとおもう。ぼくは射精にいたる過程で、記憶や映像イメージを縫合し、匿名的な性的に理想的な女性をつくり、そのなかで惑溺し、現実からゆっくりと離れていく。セッ久は現実から逃れられない。現実そのものなのだから。
つまり、
 
オナヌーはシュールレアリスム
セッ久はリアリズム
 
なのだ。
 

結婚してからはどうやってオナヌーしてたの?

ぼくは結婚前にぼくの射精観を嫁氏に開陳し、理解を求めてきた。そのため、うちのオナヌーは自己申告制だ。
たとえば仕事から帰ってきて、ごはん食べたりしたらなんか無性にムラムラするじゃないですか。そんなとき、おもむろにリビングから洋室に移動し、嫁氏にいうんです。
「ぼくが出てくるまで、けっしてこの扉を開いてはならぬ」
と。で、ぼくは30分〜2時間ばかり、現実を離れて、物理的に到達できない彼方の宇宙と和合する。
短時間で済ませたいとき、あるいは申告が面倒なときは、嫁氏がお風呂に入っているときに寝室でサッと済ませる。だけどこれはあんまりしない。もっと一回の射精と、一回のオナヌーと向き合わないといけないなっていう反省が賢者タイムにやってくるからだ。
 

子どもがやってきてから

息子ができてもこの生活に変化はないだろうとおもっていたぼくが甘かった。子どもというのは家庭に大きな重力を与え、どんな精神をも地上に引き止める力がある。
たとえば嫁氏が入浴中、おもいたって(←ふたつの意味で)パンツをサッと下ろすと、となりで子どもが不思議そうな顔でこちらをみてくる。するとどうしてか、息子(戸籍的な意味)の無垢な瞳の輝きにさらされると、ぼくの怒張した息子(おてぃんてぃん的な意味)はゆっくりと首を垂れるのである。これが子どもが本質的にもつ重力だ。そうなるとぼくは息子(戸籍的な意味)を両手で抱きしめることしかできない。
また、自己申告制オナヌーでもまた現実の重力がぼくをとらえる。ぼくが洋室に短くない時間を過ごすとなれば、当然そのあいだの戸籍的な意味での息子は嫁氏があやすことになる。いま嫁氏は育休中だとはいえ、それはあまりにも無責任すぎるとぼくのモラルがうったえるのだ。もしぼくが心を鬼にして洋室から出てこなかったら、嫁氏は戸籍的な意味での息子に将来このような教育をほどこすだろう、
「あなたがまだ(年齢的に)小さかった頃、あなたのお父さんはずっとオナヌーをしていた。1日欠かさずね。たとえあなたがどんなにかなしく泣いていても。だからあなたは教育的な意味においての父なし子なのよ」
ぼくはぼくの息子(おてぃんてぃん的な意味)を溺愛すれば溺愛するほど、戸籍上の息子の教育的な意味での親権を失ってしまうだろう。ぼくはそれがとてもおそろしい。無垢な瞳の輝きにさらされたぼくは、戸籍的な意味での息子を両手で抱きしめることしかできない。
 

平和的解決に向けて

それでもオナヌーはしたい。ぼくはぼくの表現を、芸術をそれでも失いたくはないのだ。
状況はかわった。ぼくがぼくの表現を、芸術を続けるためには、ぼく自身もかわらなくちゃならない。嫁氏と戸せ(ry息子のしらない場所にアトリエを持たなくちゃならない。
だからぼくは毎朝4時に起きる。かたわらでやわらかい寝息を立てるふたりを横目に、音もなく襖を開け、洋室へ移動する。深海のような朝の静謐な空気のなか、ぼくの息子(おて(ry)はゆっくりと頭をもたげる。そして朝日が昇り始めるころ、ぼくはおびただしい数の行き場のない生を放つのだ。
 
寝室に戻ると、ふたりはまだ眠っている。
かすかな物音を立てれば、息子は目を開き、ぼくの顔をじっと見つめ、少し遅れて泣き声をあげる。つられて嫁氏が目を覚ます。幼い息子の声に被爆したぼくは、かれを両手で抱きしめることしかできない。
 

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