カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


【感想】大前粟生「のけものどもの(惑星と口笛ブックス)」/小説を読む瞬間にしか現れない物語

 

小説を読まなければ読めない小説がある、ということをよくかんがえる。小説は物質的な範疇でいってしまえば「単なる文字の配列」でしかないし、だからこそ言語さえ身につけてしまえばかんたんに読めてしまえるはずだ。しかし、事実としてとくていのひとにとって読了不可能な小説というものがある。さいしょの数行をよんでなにが書いてあるかわからないのは小説ではなにもとくべつなことじゃない、ということを受け入れる準備は、おそらく小説を読むことでしかおこなえないのではないか、と。

 

そういうことをつよくおもいおこさせる読書のひとつとして翻訳があげられる。翻訳家のひとと話したことがあるのだけれど、そのひとは、

「誤訳のない翻訳は不可能だとかんがえたほうがいい」

といっていた。このことばの射程距離が技術的な領域の内外のどこまでなのかはわからないけれど、そもそも、言語が離散的にしか意味できないという原理的な問題をはらんでいるのだろう。とびとびの意味のつらなりが文章であり、散文であり、物語であるならば、創意はその隙間にあらわれる。行間とかそういうもの以前に単語単位で、あたえられた環境のなかでぼくらがいかに知覚するか……このことばのはざまという環境において、おそらく作者と読者の区別はつかなくなる。その創意に自由や快楽をえるためには鍛錬が必要になる。

 

大前粟生を読むことは翻訳にとてもにている。

これは「大前という言語を理解可能なものに変換する」という行為を示すのではなく、むしろ提示されたテクストの変換不可能性についてだ。既存の日本文学とは感触がまるでちがう、その「日本のだれにも似ていない」がゆえにかんたんに読ませてくれないかれの処女短編集「のけものどもの(惑星と口笛ブックス)」について、特にそのなかでも出色の完成度におもわれた「生きものアレルギー」を題材に「小説の読みにくさ」について以下でかんがえてみたい。

 

目次

 

小説という束縛 

  ひとがある程度の長さとまとまりのある散文を読めないとみなすとき、ほとんどの場合「意味をとれない」という理由をあげる。ことばとは意味であり、その伝達によるコミュニケーションツールであるというかんがえかたはとてもかしこい。じっさいになぜ言語が生じたのかというのは個体の記憶をからだの外側に残し、(それが物理的に存在している限り)個体の死を超えて意味としてあり続けることを意図されている。しかし、その使用感や適用範囲を広げるために言語はそれが使用される時間や場所においてその形態を更新し続けてきたという説明が受け入れられる場所が世界のすべてだとみなすかんがえでは、おそらく、言語表現というところへは届かない。

そこに文章がある、という事実は、母語とともに思考し成長してきたぼくらに「読む」という行為をうながし、それは文章とぼくらのあいだになんらかの接点を持つためには「読む」という行為以外の選択肢を与えないということでもありえる。文章でひとを殴ったり、文章と性的な接触をおこなう、という行為は厳密な意味において不可能であるし、文章としてもそれは意味をなさないとかんがえられるのがふつうで、よくても暗喩としてしか回収されえない。

このただそこにあるという事実がぼくらに与える行為の限定・束縛を「意味」としてとらえるならば、そもそもぼくら読者は意識的であれ無意識的であれ、文章を(そして小説を)自由に読むというのはありえない。原理的に不可能だ。ことばから得られる拘束は、たとえば感情の喚起としてあらわれる。ひとの残酷な殺害に冷や汗をかいたり、だいじなひとが死んでしまうことに涙したりするのだって、ことばにより感情を特定の状態に束縛されているとかんがえていいんじゃないかとぼくはおもう。

そもそもなぜ言語を持たない動物たちが生命の危険にさらされたときにその回避方法をしっているのか……という問題をかんがえることはおそらく上にあげたことをかんがえるのにちかい。環境が生物を特定の状態・行動に束縛しているのであれば、個体と環境のどちらに知性があるのだろうか。

ともあれ、ぼくらはこうした非言語的な知性を頼りに小説と接しているという前提がまずあるのだとしっておいたほうがいい。その前提では一般にリアリズムと呼ばれるものは、非言語的な情報と描出されたものの誤差がちいさいものをさしているとかんがえられる。

 

大前粟生がおこなう言語・認識運動

大前粟生の異質さは、日常生活でぼくらを取り巻く環境ならびにそれがぼくらに与える意味(=拘束)をことごとく拒否するところにある。

じっさいに「生きものアレルギー」という短編の冒頭を見てみる。

 

 いままでこの学校で、教育実習生が全校集会で紹介されることはなかった。いつの間にか、ちょっと若い大人がきて、いつの間にか帰っていくだけだった。でもヒナタは紹介された。ただの教育実習生ではないヒナタがこの学校にやってくるのははじめてだったから、ハルたちだけじゃなくて先生たちも気になっていた。

  みんな体育館に集められた。まず校長先生が話した。校長先生はひどいアレルギーのために足元まで鉄の直方体を被っている。声はぜんぜん聞こえないから、校長先生は 鉄の内側を叩いてモールス信号で話した。なにをいっているのかハルにはわからなかったけれど、全校集会で長話しするのが校長先生の役割だった。長いこと単調に鉄を叩く音に、何人もの生徒がまどろんで、ハルが紙袋のなかに鼻ちょうちんを作ったとき、校長先生の隣にはすでにヒナタがいた。

  ヒナタは思っていたよりも小さかった。CMで見たときにはハルの肩から指先くらいの大きさだと思っていたけど、実物はハルの手のひらくらいだった。 技術は日々進歩しているんだ。ヒナタはマイクを持つのも大変みたいで、他の先生が校長先生の体にマイクを立て掛けた。でもヒナタは喋らなかった。

 喋るのがあまり上手じゃないとか、そういうことではなかった。電源が 点いていなかった。しばらくの沈黙のあと、校長先生がまたなにか言葉を 叩き出した。大方、緊張してるみたいだね、とかなんとかいっているのだ。

 

大前粟生,のけものどもの: 大前粟生短篇集 (惑星と口笛ブックス) 

 ※赤字・青字はぼくがつけた。

 

このみじかい引用のなかでも、すでに常識的感覚を意図的に拒否されたものが複数見られている。そしてその方法もいくらかあるのだけれど、ここではふたつ指摘したい。

ひとつは「すり替え」だ。たとえば赤字で示した「話した」は、その動詞から「日本語の声」を同時に想起するけれど、その声をまず「鉄の直方体」によって拒否され、声は「鉄を内側から叩いた音」に、日本語は「モールス信号」に書き換えられる。

青字は「破壊」だ。「教育実習生」は「ちょっと若い大人」と提示し、さらに「ヒナタ」という名前は女性を想起させこれによって「一般的な女性の教育実習生」の像を立ち上げてから、「ちょっとちがう」ことを宣言する。そしてここには直接的に描かれてない情報(大きさ・活動原理(電源))を指摘し、一般的なイメージを根本的に破壊する。

しかし大前はこのように拒否した一般的なイメージを完全に捨てることはない。もう一度赤字に戻ると、校長の発話「大方、緊張してるみたいだね」が日本語として描写されている。これは語り手によって推測されたもので、この小説の世界で起こっている現象(=鉄の内側を叩く音)ではないが、認識としてそれはおそらくまちがっていない。小説の内側と外側(=日常の環境)の認識を重ね合わせた像を提示することで、かれの小説のなかに生まれなかったぼくらがかろうじて読める、破綻ギリギリのラインを保っている。

 

運動神経と意味

こうした表現じたいはいままでにまったく存在しなかったというわけではないのだけれど、かれの小説のオリジナルはこうしたイメージのすり替え・破壊・重ね合わせといった運動を非常にすばやく行っているという点にあるとおもう。小説の大まかな環境は冒頭で提示され、その後はその環境にもとづいた連鎖的なイメージが、読者に息をつく間すら与えないスピードで描かれる。

(これは個人的な実感なのだけれど)それゆえに、大前粟生の小説は「それを読んでいる」瞬間にしか存在してくれない。言い換えると「どのような小説だったか」はうまく説明できないけれど、「どのような読書体験だったか」をいうのはたやすい。

これはまぎれもない個性だとおもうのだけれど、好き嫌いがはっきりわかれる原因にもなる。(そもそも好き嫌いがでない作家なんてものは想像しにくい)

短編集「のけものどもの」はそういう感じで運動場に似た印象を受けた。いろんな子どもが無邪気なデタラメさで激しく運動している。しかしかれらのおこなう遊びには名前がつけられていない。その遊びを一緒になっておこなっている瞬間にしか、その遊びがなんであるかを知覚できない。

その一過性はかれのひとつひとつの小説に武器として現れている、しかしそれは諸刃の刃なんじゃないか、という不安もある。その不安はぼくが山下澄人に感じることなのだけれど「なにを書いてもおなじもの」として読まれてしまう可能性、最悪の場合は「単なることば遊び」と読まれてしまう可能性だ。

現状では高い運動性の文章が持つ小説の「軽さ」に頼りすぎているきらいがあるようにおもえる。いうなればことばと認知のずれを軸に構築された環境に対して、そのなかを生きるものたちが環境に対して無抵抗すぎる。これは「軽さ」でなく、(人間とは何か!を求めすぎるひとたちにとっては特に)よくない意味で「軽薄さ」にもなる。

けれど、それを殺さない「重さ」はちかいうちに得られるだろうと、「生きものアレルギー」を読んでからは確信している。

 

まとめ的なやつ

小説に対して「人間とはなにか」を中心とする(哲学的な)意味を求めてしまう先入観も、一種の環境が人間に与える拘束なのかもしれない。そういう印象が人間から小説へと投げ返されたとき、小説が小説たる理由=「意味」が強調されすぎてしまい、結果的に小説という表現を人間が狭めてしまうかもしれない。

小説の多様性を認めた読書をするには、小説に人間を想起させないこと、小説→人間というリアクションの解体が必要になってくる。 大前粟生の小説は人間よりも先に環境が与えられる。その環境になじむ身体を獲得するには、何度も生まれ直して小説を読むことが必要かもしれない。

そしてそのむずかしさを受け入れるのは、かんたんなことじゃない。

 

読書の瞬間にしか現れない小説を読んでみたいひとは「のけものどもの」をぜひ読んでみて欲しい。

 

 おかあさんの実家は、傷ついた動物を引き取っていた。ハルよりも幼く て、すぐ死んでしまう動物がほとんどだった。死んでいる生きものがやってくることもあった。飴玉よりも小さい、赤ん坊の死体だって、おばあちゃんは持って帰ってきた。おばあちゃんの家の庭にはたくさんのお墓があって、石だったり、空き缶だったり、粘土だったりした。おばあちゃんの 家にいったとき、ハルもよくお墓を作るのを手伝わされた。

「こんなの、意味あるの?」とハルは聞いたことがある。おばあちゃんは こう答えた。

「ちゃんと死んだことにしてあげたら、本当はそうじゃなくても、ちゃんと生きてきたってことになるでしょ?」

 当時のハルにはよくわからなかった。いまでもあんまりわから ない。体 が抉れたり、体がなかったりする動物が、檻のなかでハルを睨み、叫びつけて震えるとき、ハルは人間なんてみんな死んじゃえって思う。死んだ生きものは、土に埋めることもあったし、燃やすこともあった。赤ちゃんたちをよく燃やした。

「こうすると、みんなのところに早くいけるの」とおばあちゃんはいいながら、薪の上にヤギ を置いた。産まれたばかりのヤギで、おかあさんが取り上げたヤギだ。

 何度か立ち上がって、何度かこけると、ヤギは死んだ。ハルとおかあさんとおばあちゃんは、ヤギを抱いて、お別れの言葉をかけた。おとうさん はヤギを抱くことができなくて、お別れの言葉も、ゼリー越しに聞こえなかった。ヤギに火が点いて、燃えていくゼリー越しの景色が、できはじめ たいぼいぼで揺らめいて、ぼやけていく。

 

大前粟生,のけものどもの: 大前粟生短篇集 (惑星と口笛ブックス) 

 

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