カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
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ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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小学生のころからカブトムシのかっこよさが一貫してわからない

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夏といえば虫とり、というのがちびっ子たちのあいだでは定番で、幼少期を瀬戸内海の島の山奥で育ったぼくとてやはりこの時期になるとよく虫をとった。先日、母親が近所のおばちゃんから「おいしい肉」をもらってそれをわざわざ神戸にあるうちまで持ってきてくれたのだけれど、どうやら親父の虫とりに付き合わされたという話をしていた。カブトムシやクワガタのいそうな木を田舎特有の第六感で察知すると、どうやら血が騒いでしまうらしいのだが、かれはもう還暦を過ぎている。

この時期になるといつもおもうことがある。それは、

「カブトムシ、ほんまにかっこいいか?」

という疑問だ。

別にカブトムシについてはなんの恨みもないし、はっきり言って無関心な事柄になるのだけれど、「虫とり」についてはそのおもしろさが理解できないまま幼少期に全身蚊に食われながら明け暮れていて、そのことに関する違和感をちょっと書いてみたいとおもう。

 

目次

 

虫=かっこいい?

いちおう、親父が虫をとったのは田舎育ちの野生がそうさせたというよりも、一歳半になる孫(うちの息子)をよろこばせたいという気持ちがつよいからだとおもう。じっさいぼくも親父にそうやって育てられてきたし、しっかりその影響を受けた。

小学校の低学年のころから「田舎育ちのくせに」外で遊ぶよりも家のなかで本を読んだりゲームしたりするのが好きなインドアスタイルは確立されてはいたのだけれど、夏がはじまるとカブトムシやクワガタをとらねばならない義務感にかられる。自宅から学校まではおよそ3キロあって、その大半が山道なので第六感に働きかけてくる木は無数にあるわけで、登下校を通常の3倍くらいの時間をかけ、つかまえた虫を黄色い学校指定の帽子のなかに入れて、休み時間とかに友だちとトレードしたり戦わせたりしていた。生き物をそんな遊戯王カードみたいに扱っていいものかなどいいだすと複雑でデリケートな問題になるのでここではやめておくにしても、しかしあのとき、虫に執着することが心の底からたのしいとおもえていた自信というのは、ぶっちゃけない。ただまわりもカブトムシやクワガタをかっこいい!とする価値観がぜったいで、子どもに付き合う親たちもみなそれらをかっこいい!とみなす。

 

価値観と政治的構造の骨格

おとなになってからつくづくおもうことなのだけれど、価値観というのは政治的構造をつくるうえでの骨格となる。大げさになるが例を挙げてみると国なんてものがそうで、一国の宗教なんてものは領地を治めるうえで重要になってきたし、民主政治として実務的な議論を交わすにしても土台となる意思がそれなりに統一されてなければちゃんと機能してくれないし、そもそもの価値観が根本的に違えば殴り合いのケンカ(戦争)ぐらいしか方法がなくなったりする。

田舎の、それもインターネットもなかった当時において、小学校なんていう狭い社会で価値観が違ってしまったらほとんど一対多数の対立構造しかできず、へたすると昼休みのキックベースにすら呼んでもらえなくなってしまうかもしれない。ぼくはちいさいころ「ハブられる」ことを過剰に怖がっていて、みんながカブトムシやクワガタをかっこいい!と愛でるならばそれはそうなんだとおもうことにした。

いやいや虫とり、ぜんぜんおもしろくないよ!なんていうのはあまりにもリスクが高い。そういう異端児は全体からみたら少数であっても複数あることが確実ならば、マジョリティに対して異を唱える価値は多少なりともあったんじゃないか、なんておもうのだけれど、世界が狭すぎるゆえにそういうやつはぼくひとりかもしれない、というのがなによりも怖い。虫の正義を友だちも親も先生も雄弁に語るので、ここでひとりというのはヤベェぞ、みたいな危機感は本能的にかんじていた。

めちゃくちゃ些細なことだけれども、割とこうした感じの「(抗いがたい)空気を読む」 はどこのコミュニティでも避けがたく存在していて、サラリーマン時代にも似たようなことがあった。

 

「カブトムシ愛好家に変える」ことが「教育」なのか?

所属していた会社は関西にありがち(!?)な、「お笑い意識が高い」会社だったのだけれども、会話のなかでオチを必要以上に求められたり、弄りやすい特徴があるほど「見込みのあるやつ」とみなす傾向があった。

それが会社内の出世などに直接影響していたなんてことはなかったとおもうのだけれど、しかし「気に入られる」かどうかは職場でのポジショニングで結構重要な意味を含んでいた。例えるなら、

「カブトムシがかっこいい!」

と言える新人を「見込みがある」と先輩たちは言いたがっていた気がする。しかし、その根っこには「カブトムシを好きだ」と新参者に言わせることに快感を持っているというのがあるような気がする。それを象徴することばが、

「ウチらしさ」

というやつだ。

ほんとはカブトムシがかっこいいとかそういうのは割とどうでもよくて、カブトムシをかっこいいとおもっている集団の形成にこそ価値を覚えている。そういう傾向はむしろ子どもよりも大人の方が強くて、子どもであればあるほど純粋にカブトムシを好きだと言える。

ぼく自身、お笑いは割と好きな方だけれども、しかし自分でお笑いをやりたいとは全くおもわないし、それを仕事や職場の飲み会でも求められるとかなり辛いところがある。あ、飲みケーション不毛だわ、とおもったのはその時だった。

 

とはいえ、じぶんでも無意識でやってしまっている感が否めない

最近、大学時代のサークルの同窓会があって、そこに現役生も何人か混じっていたのだけれど、ぼくが所属していた時とはかなりキャラクターの違う子が多かった。

一言でいえば「真面目そうになった」という印象で、これはウザい先輩が後輩にいう定型句でもあるので、飲み会が終わった後になんか自己嫌悪で死にたくなった。

いつからぼくもカブトムシを強要する人間になってしまったのか、という感じで。

 

けっこう、自分のなかで「孤独」みたいな感情が生まれるとカブトムシを強要する欲みたいなのが生まれてきちゃうようで、あ、じぶんもなんか「心地よい居場所」が欲しいんだな、とか思えちゃって、すごくいやな気分になった。

 

まとめ

たしかムガル帝国で最大領地を実現したアクバル帝はジズヤ(人頭税)を廃止することで非常に安定した国を作れたのだけれど、そういうことを思い出した。そして後々の代にジズヤを復活させると国が滅亡に向かったとかそういうのがあるので、カブトムシ問題は割と闇が深いかもしれない。

「カブトムシかっこよくない」を受け入れる大人、かっこいい。