カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


「ヒドゥン・オーサーズ(惑星と口笛ブックス)」についての雑感/自由と不自由は相反しない

このブログで何度も宣伝してきた「ヒドゥン・オーサーズ」という電子書籍アンソロジーが発売されてもうじき3ヶ月になる。

小説を書きはじめたのは23歳の夏くらいで、はじめはネットの小説投稿サイトでちらほら短編を書いていて、それが気がつけば文学賞に応募したり友人と同人誌を作ったりしてきたのだけれど、そのたびに「読まれる」ということを思い知らされてきたなぁ、とふとおもう。

特にブログや小説投稿サイトで文章を公開するとこの「読まれる」という意識は希薄になりがちだ。せいぜい10000字未満の文章であれば割とスルッと読んでくれる方が多く、賛否様々なコメントがもらえたりして、それがけっこう当たり前に感じられてしまう。有料の、それも現在まだ浸透していると言い切れない電子書籍、それも有料での販売となるとそもそも「読んでもらえる」ことがまずむずかしいわけで、たった一言の「おもしろかった」がずいぶん身にしみる。

ネットで様々な方がヒドゥン・オーサーズを取り上げてくださりました。 ほんとうにありがとうございます!(単なるイチ寄稿者でしかないのですが……!)

s-taka130922.hatenablog.com

lfk.hatenablog.com

okirakukatuji.blog129.fc2.com

www.machikado-creative.jp

 

ひょんなことから西崎憲さんに「惑星と口笛ブックス」の企画にお誘いいただくことになったのはおそらくちょうど1年前で、ぼく自身、あのときはもう何を書いてもダメなんだと感じていて、じぶんの「おもしろい」とおもう感性やまがりなりにも考えている「文学」について他のひととずいぶんズレていることがいよいよ重大な問題だと自覚しなければならない時期にあった。

いまもそうなのだけれど、そういう危機感を持つと卑屈になってしまうし、ネット上に書いたものを公開しても「読まれている」という意識がどうしても希薄になってしまう。他者とのかかわりが読書や創作において重要だというひともいれば害悪だというひともいるのだけれど、ぼくにとってどうしてもわからなかったのが、ある本に対して「じぶん以外の読者が存在するのか」ということだった。

 

目次

読書がもたらす「不自由」とは

ひとつのテクストに対して「多様な解釈」というのはほんとうに許されるのだろうか、とずっとおもっていた。それが不思議で小説なんてものを書きはじめたとも言えなくない気がしないでもないけれど(もちろんそれだけじゃないし)、テクストによって多様に許されるのは意味ではなく感情なのではないか、とぼくはおもっていた。意味とは客観的であり、論理的に、そして一意的に決まってしまう強さがあって、読者はその限られた範囲でしかものを考えたり感じたりすることはできない。いまもずっとおもっていることだけれど、ぼくらは読書の瞬間において決して自由なんかじゃない。むしろ不自由にある。目の前のテクストによってなにを考えなにを感じるかをある程度拘束されているのだから、それを自由とよぶのはぼくにはむずかしかった。意味のもとにおいて、読者の複数性は認められないんじゃないか、とすら考えていた。

 

ネットでの反響を見ると、ヒドゥン・オーサーズは表現の「自由さ」を多くのひとにたのしんでもらえているようだった。そこからぼくが感じたことといえば、ことばが持っているそもそもの意味を即座に解体してみせる言語芸術として、あるいは荒唐無稽な世界モデルとして、またあるいは言語を使うという行為そのものの哀切や滑稽さとして、様々な読みかたが許容されているということだった。しかしそれはやはり「意味」ではない。意味ではない、などといってしまうと否定的なことをいっているように誤解されてしまうのだけれど、具体的な意味という枷の外側で言語表現をやるには強さがいるし、詩や短歌であればなおさら言語的に激しい運動量が求められる。ゲラがあがったときにはじめて他の寄稿者の作品を読ませていただいたのだけれど、(まだこういうことをいうのは早いかもしれないけれど)この「意味」という点においてぼくは激しい敗北感をかんじた。ぼくの小説はほかのかた以上に「意味」であろうとしていて、文章表現の自由さという意味で非常にせまい創作しかできてないんじゃないか、とけっこうへこんだ。

 

自由と不自由は相反しない

すごいいまさら!な話になるのだけれど、自由というのは絶対的なありかたをしていないんだな、とおもった。自由とは相対的なありかたをしているのであって、きっとなにもかも望んだことができたりしてしまうひとにとって自由なんて存在しないんじゃないか、とおもった。神さまは自由じゃない。

これはすごい単純な話で、「できないことをできた瞬間」にだけ自由は現れ、テクストによる拘束という外的要因によって、それがなければ生まれて死ぬまでのあいだに決しておもったり感じたりしなかったことを、おもったり感じたりできるようになる。

そうなるとぼくが考えていた「不自由」は、「自由」にいたるための舞台装置みたいなかんじだな、とふとおもった。ヒドゥン・オーサーズでほかのひとの作品を読み比べていちばん強くおもったのはそれだ。

不自由と自由は相反しない。

あるいは永遠ともいえる途方もない死のなかに有限の生が存在するように、不自由のなかにすこしだけ見える輝きみたいなものを自由というのかもしれないな、と。そうであれば自作についても劣等感がなくなってきた。個々がそれぞれになんらかの「不自由」はきっと抱えているのだろうし、それに対して言語でもって抗っている。不自由を自覚するほど自由になれる。そういう読書がこれからできるんじゃないか、とおもった。

 

新潮社「波」2017年7月号で取り上げられました。

あと個人的にうれしかったことといえば、文芸ライターの瀧井朝世さんに取り上げていただいたことだ。

波 2017年 07 月号 [雑誌]

波 2017年 07 月号 [雑誌]

 

「西崎さんの活躍」というエッセイで、かれの最近の仕事のひとつである「惑星と口笛ブックス」の始動とヒドゥン・オーサーズについての話題が1ページあり、収録作品のひとつとして大滝瓶太の「二十一世紀の作者不明」への言及があったことに素直におどろいた。

じぶんの筆名と作品、そして登場人物の名前が活字に載ったのははじめてのことで、なんだか「小説をまだ書いててもいいよ」といわれたみたいでうれしかった。シンジ君的なアレだ。

こういう「他者からの承認」みたいな感覚は「読まれている」という自覚を強くしてくれる。じぶんの精神状態なんてじぶんで管理できなきゃダメだ!とはおもうのだけれど、冒頭でもいったじぶんの「おもしろい」とおもう感性やまがりなりにも考えている「文学」のズレというのは強い不自由・自由を感じるために不可欠だとおもう。賛否どちらのコメントであってもとにかくぼくはちゃんと、もしくは「否応なく」社会に組み込まれているっていう証明に変わりないし、「読まれている」とはそういうことの自覚なんだろう。表面上の孤独さえあたえられない場所で正しく差異をかんじとり続けなくちゃならないし、そのことについてだれもいってこなかった気がする。「とくべつ」ばかりが目立ってしまうけれど、だれも語ってこなかった「「とくべつ」じゃない「とくべつ」」は、きっとそういう場所でこれから語られはじめる。そんな気がする。

すくなくともぼくは作家性に頼らない小説が書きたい。だれが書いたかが重要な文章など、ぼくにとっては言語表現じゃない。じぶん自身に「とくべつ」なんて求めないけれど、せめてじぶんの書く文章には、なんらかの「とくべつ」を見出したい。

 

小説を書くことは孤独だ!なんて古臭いことをいうつもりはないけれど(むしろぼくは「孤独にすらなれない」とおもっているけれどそれは別のお話)、たったひとりで表現を行い続けるのは不可能だとおもっている。

これは「小説は読者に読まれて完成する論」ともまたちがう。じぶんの小説がたしかに読まれたという経験は、「龍に黒目を入れる」行為というよりも「龍そのものを書く」行為と区別できないんじゃないか、みたいな。

読書と創作の区別や、作者と読者の区別がなくなればいいなとぼくはおもう。ぼくなんかがいっちゃいけないような気がするけれど、読者であることは作者であることと同等にクリエイティブであるとぼくは信じている。クリエイティブなんてことば、めっちゃうさんくさくてきらいだけど……!

 

さて、長くなりましたがヒドゥン・オーサーズはそういう経験ができる本ですので、まだお読みじゃない方はぜひ読んでみてください。

ではでは、きょうはここまで。