カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


「囚われの島(谷崎由依)」感想/強迫観念と寓意、物語という感覚器官

 時間の感覚、そして空間の感覚。

 見えなくなるにつれて、わたしはわたしの内側に世界の地図を記録しはじめる。

 平面のそれではなく、絵ではなく、世界そのものを。奥行きと高さとでっぱりのある、この世界のおうとつを、そのまま内側に取り込もうとする。閉じた瞼の裏側に、色彩を映さない心の網膜に、世界をそのまま写し取る。わたしはわたしの内側に、世界が彫り込まれていくのを感じる。わたしの、この見えない目を鏡として、こちら側に世界がそっくり閉じ込められていく。部屋を、家のなかを、街を歩くとき、わたしが歩いているのは実在の街であり、同時にわたしのなかのその地図だ。

 

谷崎由依,「囚われの島」

 

 翻訳家でもある作家・谷崎由依の初となる長編小説「囚われの島」を読んだ。

作者のイベントにいったとき、彼女はガルシア=マルケス「百年の孤独」を読んだときの衝撃についてしゃべっていたのだけれど、神話や現代社会、フェミニズム、民話、奇想などなど多岐にわたる想像力によって紡ぎ出されたひたすらな物語の連鎖でもって、肉眼による視認をゆるさない世界へと大規模にアプローチを試みたこの小説はたしかにマルケスをおもわせるものがあった。ぼく個人の感想として、とても好きな部分もあればそうでない部分もあったのだけれど、デビューから一貫してみせるちょっとやそっとじゃ決して真似などできない文章運び、そしてなにより寓意をかたちにする底力は健在で、ありきたりなことばになってしまうけれど「読むほどにひきこまれる」小説だった。

 

目次

 

「オリジナル」であること

あたりまえのことだけれど、小説をささえるものは作家によってずいぶん変わってくる。文体であったり、物語構造であったり、モチーフであったり、その作者をかれないし彼女たらしめる「オリジナル」はそういう要素分解によって簡単に説明づけられるものじゃないのだけれど、あえていうならば「想像力の源泉」のみたいなものがそれにあたるんじゃないか、とおもった。谷崎由依の小説にはあきらかな「オリジナル」をデビュー作「舞い落ちる村」から感じていて、その源泉は「寓意」にある。

しかしどうやらまわりをみれば寓意というものは場合によっては好まれないこともあって、(べつの作家の)芥川賞の過去の選評を読んでみても「寓話ゆえの弱さ」というものを指摘し、否定的な見解を述べる選考委員も実際にいる。寓意が寓意のままであれば、それは単なる荒唐無稽のフィクションとして処理されてしまうというのは、ぼくの好き嫌いを度外視してもわりと重要な問題になるのだろう。たとえばオーウェルのように、寓意に現代社会との関連づけを施すことで、それはめでたく「意味」としてとらえられる。つまりフィクションに持ち出された寓意はメタファを求められてしまう運命にあるといえるかもしれない。だとすれば、寓意とは、「囚われの島」で語られる蚕や、ついには廃れた村のように、自力で生きることができないことを、生み落とされたときから運命付けられているのかもしれない。

 

「寓意」と「意味」

寓意をかたちにするという行為は、「意味」がメタファにあたえる強迫観念との戦いなのかもしれない。「囚われの島」では、夢というかたちで寓意がひとに取り憑くのだけれど、その夢をみるひとは夢に「意味」という呪いをかける。この小説に限らず、ほかの、これまでに世界で書かれてきたたくさんの小説たちのなかで、そこに生きるひとであり、ひとでないものたちはみずからの物語の特質がなんらかの「意味」であるという強迫観念を抱いて生きている。

そうおもうと、小説がひとによって書かれたものだとバレてしまってなおも求められるリアリズムが、ぼくはかなしい。正直、さいきんは現代を生きるわたしたちに通用する示唆や教訓がリアリズムと呼ばれている気がしてならないのだけれど、小説の価値がそれになるのならば、現代(の日本)は小説を必要としないだろう。現代の作家は、たぶんそうした状況に否応なく晒されているような気がする。それでもなお、物語の世界のなかで「表現」を獲得することは難しい。

 

物語という感覚器官

文学の話がされるとき、よく「身体性」ということばが用いられるのだけれども、これがなかなかどうして、気に入らない(余談だけれど、この「身体性」ということばを感覚的に多用したり、文章を読んで「美しい」という感想にまとめようとするひとを、ぼくは信用しないことにしている)。この身体性についての厳密な定義を見たことがないのだけれど、世界と身体感覚をつなぐ文章に対してよく用いられている気がする。

しかしそうなのであれば、身体性という観点での評価は日本近代文学的なものよりも、SF作品のほうがはるかに高いとぼくはおもう。SF作品はそもそも肉体を人為的に変化させ(=サイボーグ)、その身体変化が人間の思考に致命的な変化を穿ち、まったく異質な世界を描き出す。世界のありようとは、語り手の認識のありようにどうしようもなく依存してしまうと考えるならば、そもそも身体と世界の関係などというものは切り離すことなどできない。身体性について、その運動や機能の機微を評価するのは、読み手の美意識の問題でしかないとぼくは考えていて、むしろ見るべき場所は「いかなる肉体を得たのか」ということではないか、とおもう。

「囚われの島」で優れていると感じたのは、物語が感覚器官そのものになっているとおもわれたところだった。主人公の由良は、ひたすら物語を自身のなかに蓄積していき、やがて完全に異質な「わたし」へと致命的に変化する。

寓意を夢や村の構築という小説のガジェットとして発揮するだけでなく、主人公のありようを致命的に変えてしまうという現象としてかたちにしたことが、この小説の重厚さそのものだとぼくはおもった。

ただ、由良自身の物語が置き去りになってしまう事について、物語の毒牙を感じつつも、中途半端さをどうしても感じてしまった。これだけの規模の小説をやるには、これでもまだ長さが圧倒的に足りてなかったのかもしれないし、小説じたいが「意味」の格闘を放棄してしまったようにも思える。このあたりは読み手によって感覚が変わってくるだろうけれど、個人的に、おしいな、とおもった。