カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


温又柔「真ん中の子どもたち」感想/「アイデンティティの安全」を生きるわたしたちの無自覚な暴力

第157回芥川賞の選評が公開された。

 

芥川賞の特殊なところはなによりもその影響力なのだけれど、それ以外にも「選考委員全員が現役作家」というものもある。選考委員に選出されるひとたちは日本の文学シーンを支えてきた「一流」の作家という印象がつよいのだけれど、しかしいざ選評を読んでみると「良き作家=良き読者」というわけではないんじゃないか、という不信感が年々つよくなっていくかんじがある。もちろんそれは全員なのではないけれど、あたらしい文学にたいしてじぶんたちが「試されている」という自覚のないまま、小説を漫然と読んでいるだけの選考委員がたしかにいる。

しかしこういう風に賞の選考委員への不信感をあらわにすると、その賞の候補に選出された作品や受賞作の信憑性にまで影響してしまうのであって、ぼくとしても安易な発言はしたくない。

しかし、今回あえてこの話題をとりあげなくちゃいけないな、とおもったのはちょっとしたあるできごとを見てしまったからだ。

 

 

今回候補にあがっていた温又柔「真ん中の子どもたち」にたいして、宮本輝が「対岸の火事」だと切り捨てた。このことについて、いろんなことをおもった。

 

目次

 

アイデンティティの「安全」

「お忘れですか? ぼくの親はどっちも中国人なんですよ。帰化したからいちおう日本人になっているけど、そうじゃなきゃ、ぼくだって今頃、中国人……いや、うちの親はどっちも中華民国籍だったから台湾人だったはずなんや。そしてらおれはどうなる? 日本人やないのに、日本語が母国語っていう状態になるんや」

 日本人ではないのに、日本語が母国語。息を呑む私の隣で玲玲も舜哉のことばにじっと聞き入っている。

「それがあるから、おれずっと思ってたんだ。ナニジンだから何語をしゃべらなきゃならないとか、縛られる必要はない。両親が日本人じゃなくても日本語を喋っていいし、母親が台湾人だけれど中国語をしゃべらなきゃいけないってこともない。言語と個人の関係は、もっと自由なはずなんだよ」

 

温又柔,「真ん中の子どもたち」

 

温又柔という作家は「台湾に生まれ日本語のなかで育った」という経歴を持ち、言語と国籍についてのせつじつさを軸にした作風の作家だ。

候補作「真ん中の子どもたち」はまさにそれをアイデンティティの問題として真正面からとりくんだ小説といえる。それは上にあげた引用を読めばどういうことなのか、だいたい想像がつくんじゃないかとおもう。

「言語と国籍の不一致によるよるべなさ」を中心にすえた物語というのは、過去に芥川賞を受賞した楊逸や、前々回に候補になった崔実の小説でみられるけれども、日本文学としてのなじみは薄い。

しかし、世界文学、とくに英語圏の小説をみればこういった題材は意外とめずらしくなかったりする。とりわけ移民によりなりたち、いまでも移民の受け入れに寛容であるアメリカやカナダといった国なんてそうだ。ダイバーシティということばがあるけれど、アイデンティティという面において、これらの国は日本とは対極の態度をとっている。なぜこうもちがうのかということを述べるのはかんたんなことじゃないのでここでは深く追及するつもりはない。

しかし、重要なのはこういった国や環境でそだってきた、こういう国や環境に移り住んだ、ということはまったく日本で生まれ育ったひとたちが想起するもとはまったくちがった「アイデンティティの危機」があるということで、アメリカやカナダは、植民地意識という影が国を飲み込む。そして個人でなく国そのもののアイデンティティの危機が指摘される。

そういう「ダイバーシティ」を常識としない日本という国に生きるわたしたちは、それこそ「対岸」にあるそうした国々と比較して「アイデンティティの安全」が保証されている、とぼくはおもう。日本では日本民族が日本語を使うことがあまりにもあたりまえで、ことばや姿かたち、名前など、ちょっとでも日本じゃない「なにか」があればすぐに目立ってしまう。そしてそれは、「あなたは”厳密な”日本人じゃないんだよ」という、差別というには弱い疎外にひとしい。

こういうことはたぶん、小説を多少読んでいればだれでも知っていることだとおもうし、温又柔の小説はこうした意識が現実に存在しているという前提ではじまる。

 

いわゆる「対岸の火事」について

ここで宮本輝の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当事者にとっては深刻だろうが退屈だった」という発言について、ぼくがおもったことを書いてみたい。

結論からいうと、ぼくは宮本輝がこう発言したのも「わからなくもない」が、現代日本文学の評価をあずかる者として、この言い分は極めて不適切だとおもっている。

宮本輝の選評では指摘されているのは物語の冗長さであり、退屈さであり、「真ん中の子どもたち」を読んで、ぼく自身も扱っている主題のせつじつさや、言語的な差異をたえずはかり続ける実直さ、そしてその蓄積によって重さを帯びる「言語という存在の異質さ」はとてもおもしろかった、しかし、フィクションとしてすぐれていたかと聞かれれば、(個人的な好き嫌いもあるけれど)一本調子なかんじに退屈さをかんじてしまった。

しかし宮本輝の選評では、あえてこの小説の選評に、

「日本人の読み手として」

ということばを用いた理由がまったく見えない。これにぼくはとてもこまった。何らかの意図をもってつかったのか、それとも素朴にそう思ってつかったのか。

もし選考委員という立場で後者のようなかんじならばただのバカじゃねぇの?とおもうけれど、しかしそういうことがもし起こり得てしまうなら、それは温又柔の小説の弱さを真正面から指摘していることになる。

「真ん中の子どもたち」は言語や国籍意識のダイバーシティへと向かう小説で、アイデンティティの安全にある日本人に対しての敵対ともいえる立場をとっている。この小説がほんとうに力のある小説ならば、「日本人」をとりまくアイデンティティの安全を解体しえるものあるはずなのだけれど、現に宮本輝が「日本人の読み手として」といってしまったことは、小説が対抗すべき価値観に敗北してしまったことに他ならない。

とりわけ小説はいま、かかれているすべてを現実だと思い込んで読んでくれるひとがずいぶんとすくない。どれだけ想いを託して血を流して書いたとしても、想像上の物語に対してリアルなモラルをもって接してくれることなどほとんどない。だから、この小説が日本で多くのひとに読まれたとして、宮本輝が選評に書いたようなことをおもうひとはきっとめちゃくちゃ多い。

ぼく自身の率直な感想として、物語としてこの小説をとらえるなら、上記のような「不粋な」価値観をあたりまえとして生きてきたものとして、ハーフ特有の自意識過剰とか、言語的なオリジナルでマウンティングとってきてるかんじの悪い小説、と読めなくもないという本音がどこかにある。なんというか、この小説の登場人物たちのアイデンティティや思想は、じぶん自身を差別することによって得られているんじゃないか、という疑念がどうも払拭できない。

このなんとない不快感が、「日本人の読者として」ということばを引きずり出してきているとぼくは考えていて、温さんはこの暗くぼんやりした感情とじゅうぶんに戦えていないのではないか、とおもう。

すくなくとも、ぼくはマイノリティであるというアイデンティティを主張する小説を支持したいひとじゃない。それが文学であることに否定するつもりもないが、それだけが文学じゃないし、ぼくは「そうじゃない小説」を積極的に文学とよびたい。

温さんが戦うべき相手は宮本輝というひとりじゃなくて、そういう巨大な集合意識なのであって、あんなじいさんに怒りをかんじている場合じゃないよ、とおもった。

なにより同業者のひとが反論ツイートをせっせと行なっているのは、さすがに閉口してしまった。

宮本輝の選評を「差別だ」と批判するのは、宮本輝の選評と同等に愚かしいとどうして「プロの」作家が気づかないでいるのか、ぼくは理解に苦しむ。

文学というあらゆる価値観が等価に配置されてしまうフィールドにおいて、ぼくらは物語でしか戦えないのだということに、どうしてここまで気づけないものだろうか。

マイノリティとされるひとたちが、みずからのマイノリティ性を自覚し、そして自身に差別化を施すことをアイデンティティとするならば、それこそ「他人事」だといわれてしまっても仕方がない。しかしこういうことは「モラル」によって封殺されてしまう。この構造こそ、真に焦点を当てられるべき問題なんじゃないの?とぼくはおもう。

ともあれ、渦中の作者本人はまだしも、そのまわりの「プロの」 作家があまりにもくだらなくて辟易する。

 

彼女にはもっとおおきなものに打ち勝てる小説を書いてほしいです……!