カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

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ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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懐かしさ、あるいは重ね書きされた世界のリアリズム/映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」感想

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※このレビューはアニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?上から見るか?」の内容についての言及を含みます。

 

岩井俊二原作のドラマ作品が、「物語シリーズ」や「魔法少女まどか☆マギカ」などで有名な制作会社シャフトによって映画化された。シャフトは好きだからうれしかった。

ともあれ岩井俊二(原作)×大根仁(脚本)×新房昭之(総監督)なので、見なくちゃなぁとずっと思っていた。

ヒロインは戦場ヶ原ひたぎに似ていて声が広瀬すずだったのだけれど、途中、「(花火に)イキたいの?」と問うシーンがあって、瞬間最高シコリティを記録した。

 

目次

 

あらすじ

主人公の島田典道が夏休みのあいだに転校してしまう及川なずなとの1日を何度もやり直す的な話。説明も面倒なので、予告動画を見て雰囲気を掴んで!

 

いまでは〝ありきたり〟になってしまったセカイ系とタイムリープ

ぼくがこの映画を見ておもったことは、物語の設定やプロットといったフィクション的な想像力について、ほとんど批評的に介入できる余地がないということだった。しかし、これはこの映画の強みでもあるとも感じた。

創作においてぼくはフィクション的な想像力にこそ、表現が意思として現れるようにおもっていた。過去の多くの創作物は、時間というものに対しての問題意識が物語を与えてきた。それはたとえばプルーストやヴァージニア・ウルフのように記憶と現在が同居するようなテクストのありかたや、ジョジョのような「最強の敵が時間を操る」という想像力に現れるように。

 

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しかし、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の物語を、あらすじでざっくり言ったような「僕と君がたった二人きりになれる世界を目指して、何度も同じ時間をやり直す」という風に真面目に受け止めてしまうと、この映画が昨今氾濫している類似したアニメ作品にすぐさま埋没してしまうだろう。リメイクにあたってifストーリーからセカイ系やタイムリープへと移行したけれど、しかしこのこと自体に大きな批評性は存在しない。もうこれは使い古された記号だ。

そうなったいま、この物語はリアリズムとしてのありかたが強調される。この映画はリアリズムだとおもった。

 

フィクションとリアリズムは相反しない。

このことはこのはブログで何度も書いてるのだけれど、リアリズムとは現実に起こり得るかによって決まるものではない。すくなくともぼくはそう考えている。そしてSF作品のような「現実に起こりえないこと」が平然と起こる、あるいはそういう強いフィクション性を含むからといって、事物が前提とされているからといってリアリズムが損なわれることはない。フィクションとリアリズムは相反しない。

リアリズムということばは「写実的」なものに対して使われてきたのだけれど、ふるい時代に比べて「写実」という概念の守備範囲は更新されるべきなんじゃないかと、ぼくはおもう。ぼくらが身を置く世界にありえない自然現象を描くことはたしかに「写実」であるとはいえやい、しかし、フィクションという環境のなかであらたな感覚器を獲得できるのであれば、あらゆるものが写実化する。

そうかんがえたならば、そもそもあらゆる創作において「写実(=リアリズム)」でないものなどありえない。そのうえであえて「リアリズムでない」というならば、それは物語という環境の構築性に向けられているような気がする。

 

重ね書きされた世界

タイムリープの物語は、いまは不可能な「可能だった世界」を経験するものではなく、世界のうえに世界を重ね書きするようなものだ。つまり、この種の物語は多数の世界が存在しているというわけではなく、「多数の世界が存在しているひとつの世界」のなかで行われている。

この構造にももちろん新規性はない。シャフト自体がオリジナルアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」でかなり高度にまとめ上げて見せたし、また、「ノベルゲーム(ギャルゲ)→アニメ」への移植が関わっていると思うけれど、それについてはここで深く触れるつもりはない。 

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ここで特筆すべきは、「ゲーム」というメディアのありかたが、プレイヤーに物語への積極的なアクセスを要求する。イベントを蒐集することで、トゥルー・エンドへと向かうことができるというゲーム構造は、プレイヤーが世界を重ね合せた結果見える世界だ。

 

この映画では、タイムリープ前後の記憶は原則的にタイムリープ後には持ち込まれない(ただ島田典道は記憶の残滓のようなものを持っていて、終盤ではっきりと思い出す)。そして視聴者が積極的に物語に関わる必要性もなく、そういうことはメディアの特性上、原理的にできない。

ただ、複数の時間軸を見ることによって、エピソードの断片は「映画を見ている私」に重ね書きされる。エピソードが記憶になり、それらが続くエピソードでリフレインされることで、堆積したエピソードたちは懐かしさを帯びる。

 

子どもという「懐かしさ」

ぼくがこの映画を見ていちばん感じたのは、「懐かしさ」だった。しかし、この映画で描かれる「ひと夏の恋」がかつてのぼくの記憶に触れたというわけではない。子どもである、というただそれだけによって生じるシステムへの懐かしさだった。

〝駆け落ち〟を試みたなずなは、

「16歳だと言い張れば女の子はどこでだって生きていける」

という、無邪気な空想を典道に語るけれども、同時にそんなことできるはずがないともおもっている。どれだけ逃げても必ず母親に捕まえられてしまうということを、彼女はわかっている。そしてそれは典道もわかっている。だから、〝フィクション的な想像力〟として「二人っきり」を望む。ベタにセカイ系だ。

しかしなずなと典道に〝できないこと〟というのは、物理的に不可能ということじゃない。彼女と彼が子どもであるからできないのであり、たとえば大人になったぼくたちにはあまりにも簡単にできてしまうことだ。そしてかれ(ら)の望む「二人っきり」にはさざなみのような性欲程度の切実さしか伴っていない。やがて、なにもかもが未熟な、宙ぶらりんの世界にふたりはたどり着く。

この物語はそういう「子どもであるがゆえ」の束縛からの逃避行で、そこからもう抜け出してしまった大人がこの物語に接したとき、時間が巻き戻されるたびに子ども時代をやり直すような感覚があるんじゃないか。この感覚にたしかなリアリズムが備わっていてよかった。生きれば生きるほどに、この物語は懐かしいのだろう。

 

 

岩井俊二の小説「少年たちは花火を横から見たかった」