カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


【翻訳短編】スコット・フィッツジェラルド「祝福」(原題:Benediction)

フィッツジェラルドの短編「Benediction」を翻訳しました。

今回は、Twitter上でお友だちから翻訳リクエストをいただいたのをきっかけに取り組んだ感じですが、なにか「これを訳して!」というのがあれば、お気軽にお問い合わせいただけると嬉しいです。モチベーションにもなるし!

ただ、著作権切れのものでないと公開できないのですが……!

 

ちなみに「Benediction」はこんな感じの短編です↓

 

「Benediction」はキリスト教での食事前の祈り・儀式のことで、「祝祷」あたりがタイトルの直訳になるかと思います。この小説にももちろん祝祷のシーンはかなり重要な局面で出てくるのですが、いろいろ考えて「祝福」をタイトル訳として採用しました。

 

英語で小説を読むのは慣れれば意外といけるので、興味がある方は試してみてください↓ 

www.waka-macha.com

 

ではでは、以下で翻訳を全文公開します。

 

目次

「祝福」 スコット・フィッツジェラルド作

 

  ボルティモア駅は暑く、混雑していた。そのせいか電報事務所に寄らなければならなかったロイスはひどく不快な心地で長々と待たされていたのだが、カウンターでは前歯の大きな事務員が四十九語ならよし、五十一語じゃダメ、と図体のでかい女の電報の語数を何度も数え直している。

 待っているあいだ、ロイスは電報の宛先をちゃんと憶えていない気がして、バッグから手紙を取り出しもう一度読み直した。

 

 ダーリン、いま、かつてないほどのしあわせなんだってことはわかっている。ぼくだってきみの指に馴染む指輪をあげられたらって思うよ……。でもね、ロイス、できないんだ。ぼくらは結婚できない。だからといって離れられないし、この美しい愛を無意味に終わらせていいはずがない。

 きみから手紙が来るまで、薄暗いこの部屋に座ってきみをすっかり忘れるにはどこに行けばいいだろうって考えていたんだ。イタリアかスペインを放浪して、古く崩れ落ちた廃墟や、大都会とか、ぼくの心の寂しさを映し出してくれる場所で、きみを失った痛みを感じながらぼんやり過ごすとか、そんなことをね。そしたらきみから手紙が来たんだ。

 愛するきみよ、凛としたきみよ、電報をくれたらウィルミントンで会おう。そのときまでちゃんとここで待っているし、ずっと待ち焦がれていたきみの夢が現実になることを望んでいる。

ハワード

  

 彼女は何度もその手紙を読み返して一字一句覚えていたのだが、またしても手紙を読んでどきっとした。文面からはかれの苦悩が滲み出ていた。話しかけられようものなら、かれの黒い瞳のなかで恋心と悲しみがないまぜになり、隠しきれないほどの熱い想いが絶えず押し寄せてくるのを彼女は時折感じていて、まるで夢を見ているように感性に直接訴えてくるかれへの想いで夜も眠れなかった。十九歳のロイスはロマンティックで好奇心旺盛で、そして凛々しかった。

 図体のでかい女と事務員が五〇語ぴったりの妥協案を模索しているあいだに、ロイスは白紙を取って電報を書いた。簡潔で過不足ない文章だった。

 運命だわ、と彼女は思った。このクソみたいな世界でも、ちゃんとうまくいくはずだから。わたしを引き止めるものがあるとしたらそれは臆病さだけ。わたしたちはなるようにしかならない。だからぜったいにかなしくなんてない。

 事務員が電報を打ち込んだ。

 

本日ぼるてぃもあニトウチャク うぃるみんとんデ兄ト会イ一日過ゴス 午後三時 水曜日 アイシテル

ロイス

 

「五十四セントです」と事務員は丁寧にいった。

 ぜったいにかなしくなんてない。ロイスは思った。ぜったいに。

 

  まだらな芝生に木漏れ日が落ちている。木々は鳥の羽をあしらった扇子を手に男に媚びを売る長身痩躯の女のように、ぼろぼろの男子修道院に寄り添っている。あるいは執事のようでもあり、歩道や小道に整然とならんでもいた。丘へと続く道の片側に立っていて、所々に点在し、メリーランドの東側に列をなし、黄色い芝に降りた薄いレースが花々や草木、遠くの高台にある手入れされていない庭の輪郭を暗く曖昧にしていた。

 なかには若く、活き活きとした木もある。しかし男子修道院の木はその建物以上に古かった。この修道院は伝統的な様式で建てられていているが、そこまで古くはない。実際、これは厳密には男子修道院ではなく、神学校と呼ぶのが正しい。とはいっても、ヴィクトリア様式だろうがエドワード七世風だろうがウッドロー・ウィルソンの時期であろうが、百年前から続く特徴的な屋根をしてようが、やはりここでは男子修道院と呼んだほうがいいだろう。

 裏には農場があり、野菜畑のまわりを死ぬほどのろのろと歩き回りながら一心不乱に祈りを捧げる平修道士が六人いた。その左側、楡の木の裏には適当につくった野球のダイヤモンドがあり、新米修道士たちが野球に興じている。満塁で、バッターがボールを打つとランナーは息をぜーぜー切らしながら夢中でダイヤモンドを走り回っていた。そして正面では、古い大きな鐘が三〇分にわたって鳴り響くと、蜂の大群のような黒い修道服を着た男たちが溢れ出してきて、やがてきれいに整えられた木のならぶ小道は市松模様に彩られた。

 黒い修道服を着た者のなかにはさざ波のような皺を頰にきざんだかなりの老人もいた。また、横から見るとガウンのなかの服がわずかに乱れている中年の修道士もちらほらいた。かれらはトマス・アクィナスやヘンリー・ジェイムズ、メルシエ枢機卿、イマヌエル・カントの分厚い書物と、講義録が納められた膨大な数のノートを運んでいた。

 しかしほとんどは若い修道士だった。ブロンドの髪の十九歳の少年はいかめしく、勤勉そうで、二十代後半の青年は世を捨てた五年で得た自信に満ち溢れていた。数百ほどの修道士はメリーランドやペンシルヴェニア、ヴァージニア、西ヴァージニア、デラウェアなどの様々な街や国からやってくるのだ。

 アメリカ人が多く、ほかはアイルランド人がいてそのなかには荒くれ者もまざっており、わずかではあるがフランス人やイタリア人、ポーランド人もいた。かれらは互いに腕を組んで二人組か三人組、あるいはもっと大勢で列をなして不揃いに歩いていて、きりっとした口もとや頰の凛々しさですぐに見分けがついた。ここはイエズス会の修道院だ。俗世を断って修行に励むべく、不屈の精神をもった戦士によって五百年前にスペインにて創立されたのだが、いまここでは説教が説かれ、盟約書が作られている。このことについて、ここでは立ち入るのはよしておく。

 ロイスはバスを降りると陽の光を浴び、外門をくぐった。彼女は緑というより黄色い髪と目をした十九歳だった。女好きの男が路面電車で見かけると、こっそりとちびた鉛筆と封筒を取り出し、裏面に横顔や目元をさっと描くなんてこともままあった。そして男どもは描き終わって彼女を見ると、決まって思わしげなため息をつきながら絵をやぶるのだった。

 ロイスは呑気にお出かけ用の高い服を着飾っていたのに埃をちゃんとはたききれていなかったのだが、彼女はそのまま玄関に続く道の片側をしげしげと見つめながら歩きはじめた。熱意にあふれる顔つきでさながら聖職者候補のようだったが、実際はむしろプリンストンかニューヘーブンの高校卒業記念のダンスパーティーに到着したばかりの少女といった場違いな表情だった。

 兄はどんなひとなんだろうと彼女は思いをめぐらせた。ほとんど写真でしか見たことがなかったのだ。写真は母が開けっ放しにしていたタンスにあって、そこに写る兄はとても若く、頬がこけてひどく痛ましい顔つきで、きりっとした口元とぜんぜん似合っていない修行僧のガウンが、自分の人生に腹をくくったのだという覚悟を物語っていた。当時十九だったかれもいまや三十六になっていたが、まったくそのようには見えない。もちろん最近の写真ではかつてより肩幅ががっちりして、髪も薄くなっていたが、日々強くなる兄の印象はタンスにあったあの大きな写真そのものだった。そのせいか、彼女はいつもすこしだけ兄に対して気がひけた。男の人の人生ってこうなのかしら! 十七年修行してもまだ神父になれていない――きっともう一年修行してもまだなれないだなんて。

 放っておけば万事うまくいくだろうとロイスはわかっていた。しかし、彼女は兄に無垢な陽光の代わりになるものを与えたかった。それはたとえ彼女の頭がおかしくなっても、母が病床にふしていても、彼女がロマンティックで好奇心にあふれ凛々しいときでも、兄に与えてあげることができるんだと彼女は信じていた。兄は間違いなく励ましを求めているだろう、そして気持ちを奮い立たせたいのだろう。ロイスは兄がほんとうにそうして欲しいのか、ちっとも考えていなかった。

 大きな玄関扉を引くと、男が突然グループから飛び出し、スカートをたくし上げて彼女のほうへと走ってきた。男は笑っていて、彼女は気づいた。とても大きく、そして安心感のある人だった。彼女は足を止め、待った。かつてないほど不規則にはやく心臓が脈打っているのを感じた。

「ロイス!」かれが叫んだ刹那、ロイスはかれの腕のなかにいた。突然彼女は震えだした。

「ロイス!」かれはもう一度叫んだ。「どうしてここに? ほんとうにうれしいよ! きみに会えるのをどれだけ待ち焦がれていたことか。信じられないよ、ロイス。綺麗になったね!」

 彼女は息を飲んだ。

 かれの声は抑えられていたが、活力に満ちて力強く、そこに家族だけが持つ独特の個性を彼女は感じとった。

「わたしも、ほんとうにうれしいわ……。キース兄さん」

 兄の名前を初めて口にすると、彼女は顔を赤らめた。かなしいことなどなかった。

「ロイス……ロイス……ロイス」かれは不思議そうに繰り返した。「はやくこっちにおいで。教区牧師様に紹介したいんだ。それから近くを散歩でもしよう。話したいことがたくさんあるんだ」

 かれは真面目な声になって、「かあさんはどう?」といった。

 彼女は兄を一瞬見上げ、言うつもりじゃなかったこと、絶対に言わないと決めていたことをしゃべった。

「キース兄さん……母さんは……母さんは日に日に悪くなってるわ」

 かれは事態を理解したようにゆっくりとうなずいた。

「心配だな……その話は後にしよう。じゃあ……」

 彼女は大きな机のある小さな書斎に案内された。人の良さそうな白髪の牧師がいて、簡単な挨拶をした。そしてかれは彼女の手を数秒間ぎゅっと握り、

「これはこれは、ロイスさん」

 と、まるで旧知の仲のような口調で話し、どうぞお座りください、といった。

 べつの司祭がふたりやってきて、彼女と力強い握手を交わすと、「キースの妹さんですね」といった。悪い気はしなかった。

 かれらはロイスがおもっていた以上に内気で、控えめなひとたちだった。知的とは言い難いジョークがいくらか飛び交い、それで場は盛り上がった。レクター神父は三人の司祭を「できの悪い老修道士」といい、もちろんかれらは修道士よりもずっと身分が高いわけであり、彼女は笑った。司祭たちはキースに愛情を持って接しているという印象を抱き、彼女はうれしかった。レクター神父は兄をキースと呼び、司祭のひとりは会話中ずっと兄の肩に手を添えていた。それから彼女はもう一度握手をし、アイスクリームを食べたらまた戻ってきますといった。笑顔にあふれていた。うれしくてうれしくてたまらなかった。妹がこんなにもみんなの注目を集めているんだからキースはうれしいに決まってる、と彼女はじぶんに言い聞かせた。

 それから彼女とキースは腕を組んで小道を歩きはじめ、かれはレクター神父がどれほどかけがえのない人物であるかを語った。

「ロイス、」かれは突然話を打ち切った。「きみがここへ来てくれたことがぼくにとってどれほどの意味があるかってことを、いまここで伝えておきたい。ほんとうにうれしいよ。生きてていまほどしあわせだったことなんてない」

 ロイスは嘆息を漏らした。こんなことを言われるなんておもってもなかった。当初のひそかにこしらえていた予定では、ボルティモアで夜に友だちと会うことを兄にカミングアウトし、気むづかしい兄がこれまで一度も修道院を訪れなかったことを口やかましく咎められたりしたら嫌だな、とおもっていた。しかし木立のしたをともに歩くというなんでもないことが、おどろくほどしあわせなことにおもえたのだった。

「でもね、キース兄さん、」彼女は口早にいった。「なんというか、一日でも早く会いたかったの。ほら、五歳のときに会ったきりだったし、ぜんぜん顔もおぼえてなかったし。たったひとりのお兄ちゃんに毎日会えないでいたわたしの気持ちってわかる?」

「きみはほんとうにかわいい妹だったんだよ、ロイス」かれは繰り返した。

 彼女は顔を真っ赤にした。兄はたしかに変わり者だった。

「きみの話を聞きたいな」ちょっと間をおいてかれはいった。「もちろんこの十四年、きみと母さんがどう暮らしてたかってだいたいわかるよ。ぼくらはね、ロイス、心配だったんだよ。きみが肺炎で、母さんとここまで来れなかったんでしょ。たしか二年前かな。だからね、新聞できみの名前を見て、すごく不安になったんだよ。ぼくはね、ロイス、きみのことを知らなかったから」

 気づけばこれまでに出会った男たちと兄を比較していた。かれが何度も彼女の名前を呼ぶことによって、兄妹愛が育まれているのだろうか、とおもった。兄はロイスの名を愛しむように、生まれながらにかけがえのないものであるかのように、口にするのだった。

「で、学校は卒業したの?」かれは続けた。

「うん。ファーミントンよ。母さんは女子修道会に行ってほしかったみたいなんだけどね。でも、わたしはいやだったな」

 彼女は横目でちらっとかれに視線を投げ、この返答に兄が嫌な気分になっていないか探りをいれた。

 しかしかれはゆっくりと頷くだけだった。

「海外の修道院はどうだったの?」

「そうね……修道院じたいがやっぱりちがうくて。いちばんいいとこでさえ、ふつうの女の子ばっかりなのよ」

 かれはまたうなずき、彼女のいうことに同意した。

「わかるよ。おもうにね、きみがどう感じるかの問題なんだよ。ロイス、ぼくだってこんなとこ最初はいやだったさ。ここだけの話だけどね。ぼくらはみんなよりも繊細なんだよ」

「みんなって、ここのひと?」

「そうそう、でもみんながみんなじゃないけどね。すごいひとだっているけど、やっぱりむかしは苦手なひとのほうが多かったかな。たとえばレーガンって奴がいるんだけど、最初は苦手で、でもいまじゃ親友さ。性格がいいんだ。あとで紹介するよ。拳を交えた仲ってやつだよ」

 ロイスは自分とキースは拳を交えたことがあっただろうかと考えていた。

「でもいったい……何があったというの?」彼女はすこし恥ずかしそうにたずねた。「ああ、そもそもなんでここに来たのかってこと。もちろん母さんからは寝台車の話は聞いてるわ」

「ああ、あれは……」かれはすこしバツが悪そうに舌打ちをした。

「教えてよ。兄さんの口から聞きたいの」

「ああ、たいしたことじゃないよ。あれは夜だったな。ぼくは一日乗りっぱなしで、ほんとにたくさんのことを考えていたんだ­。そしたら突然向かいの席にだれか座った。かれはしばらくそこにいて、他の乗客のことをぼんやり考えているようだった。するといきなりかれは身を乗り出して、こんなことをいったんだ。『牧師になってくれ。これは私の望みだ』とうぜんぼくは飛び上がって叫んだよ。『そんな、ありえない!』ってね。二十人くらいの人前でバカみたいにね。で、向かいの席にはだれもいなかった。一週間後、フィラデルフィアのイエズス会学校に行って、教区牧師事務所で最後の階段を上ったってわけさ」

 感じたことのない静寂があった。ロイスは遠くを見つめるよう細めた兄の眼を見ると、かれは燦々と陽光に照らされた芝生のはるか遠くを見るともなく見つめていた。彼女は兄の声色の変化と、話し終えた直後に唐突に現れてかれの周りを漂うこの静寂に心をかき乱された。

 彼女は気づいた。芝生を見つめたままの兄の目は本質的には彼女とおなじだが、口は写真よりもずっとやさしい――もしかしたらつい最近そうなったのだろうか? かれの頭のてっぺんには小さなハゲが作られていた。彼女は帽子のかぶりすぎなのだろうかと思った。ハゲが大きくなるのはひどく不恰好であるなんて、だれも思ってもいないようだった。

「あの……キース兄さんは、若いときから信仰深かったの?」彼女はたずねた。「ねぇ、わかるでしょ。兄さんはむかしからそんな信仰心を持っていたの? 立ち入ったことなら答えなくてもいいわ」

「ああ、」かれは依然として遠くを見ながらいった。そして彼女は、かれの強い抽象概念がやさしさとおなじく、かれのひととなりと分かちがたいものであることを感じ取った。「そうだよ、そう思う。ぼくはね……酔ってなんかなかったよ」

 ロイスはわずかに身震いした。

「飲んでるの?」

 かれはうなずいた。

「悪いことが次から次にやってきていたからね」かれは笑い、灰色の目を彼女のほうに向け、話題を変えた。

「ところで母さんのことを教えてくれよ。きみには酷なことかもしれないけどさ。きみが、これまでにほんとにたくさんの犠牲を払ってきて、つらいことにもたくさん耐えてきたってわかってる。ぼくがこう考えるのはね、きみが強い子だからなんだよ。それはわかってくれ。さぁ、ロイス、今度はこっちが聞かせてもらう番だよ」

 ロイスはその一瞬でいかにじぶんがなにも犠牲にしてこなかったかを考えた。半分病人の母親のことなど、嫌なことからは逃げ続けていた。

「犠牲なんて、そんな年じゃないわ」彼女は落ち着いていった。

「ああ、」かれはため息をついた。「きみが背負うべきじゃなかったね。そばにいて、助けてあげられたらよかったよ」

 かれの変わり身の早さを目の当たりにして、彼女は即座にかれから滲み出るある種の性質に気がついた。かれはやさしい。彼女の思考は脱線し、それから奇声をあげて沈黙を破った。

「やさしさは酷よ」彼女は突然そう口にした。

「なに?」

「なんでもない」彼女は混乱しつつも否定した。「ひとにいうようなことじゃないの。考えごとをしてて……そう、フレディ・ケベルってひととの話よ」

「モーリー・ケベルの兄弟かい?」

「そう、」兄がモーリー・ケベルを知っていることにむしろ驚いた。そのことについておかしなところはまだなにもなかった。「そう、かれとわたしは数週間前にやさしさについて話してたのよ。ああ、なんだっけ……ハワードって名前だったかな……その男のひとがやさしいんだけど、フレディはそう思わないっていうの。で、男のやさしさについて話し始めたのよ。かれがいうに、やさしい男ってのは泣き虫なんだけど、わたしはそうは思わない。でも正確にはどういったらいいのかわからない。ちょっと考えさせて。わたしはね、ちょうど真逆の意味だと思うの。ほんとうのやさしさっていうのは、厳しさなの……強さなのよ」

 キースはうなずいた。

「わかるよ。そういうものを持っていた老牧師がいたんだ」

「わたしは若い男のことをいってるの」彼女はより反抗的にいった。

 ふたりは草の生えてない野球のダイヤモンドまでやってくると、かれは彼女に木のベンチに座るよう促すし、じぶんは手足を芝生のうえに投げ出した。

「兄さんはこういう若い男のひとって幸せだとおもう?」

「そうは思えないかな。ロイスは?」

「わたしもそうおもう。だけどあそこの若いひとは、あそこのふたりは……そうだったのかしら……そうなのかしら……」

「かれらはここのひとなのかな」かれは笑った。「ちがうよ、でも来月からここで修行するんだ」

「ずっと?」

「そうだよ。もしかれらが心や身体を壊しでもしなければね。もちろん、ぼくらのような人間はたくさん辞めていくよ」

「でもあの子たちはちがう。あの子たちは外の世界にあるチャンスを諦めようとしているんじゃないの? 兄さんのように」

 かれはうなずいた。

「いくらかはね」

「でもね、キース兄さん、あの子たちはじぶんがなにをしているのかわかってない。じぶんたちがなにかを失いつつあるっていう経験すらないのよ」

「ぼくはそうはおもわないね」

「こんなのぜったいおかしいよ。なにを生き急いでいるの。あの子たちみんな、ここに来るには若すぎるとおもわない?」

「ちがうよ。あの子たちのなかでももうたくさん経験してきた子だっているさ。すごく荒んだ生活をしてきた子だっている。レーガンがそんなひとりさ」

「そういうタイプの子ならまだいいわ」彼女は深く目を閉じた。「人生をもうさんざん見てきたならね」

「そうじゃないよ」キースは真剣にいった。「人生経験が他人とわかりあうために必要なある種の経験を与えてくれるかはぼくにはわからない。いくら世間慣れしたひとでも頭の固いひとはいるからね。実際に何人かそういうひとを知っている。改心した放蕩者でも悪評が絶えなくて心が狭いひとだっている。ロイス、そうおもわないか?」

 彼女はうなずいた。まだ瞑想するように目を閉じていて、かれは話を続けた。

「ぼくがおもうにね、いいわけをして逃れても、それは望みどおりの救いにはならない。罪の意識とどう向き合うかっていう問題なんだ。きみが生まれてから、母さんは調子が悪くなりはじめると例のコムストックさんのところへいって泣いてたんだ。まぁね、身体が震えたもんさ。母さんはそれが落ち着くっていってたよ。だけどちがうんだ。ぼくはね、ひとを助けるためには己の弱さをさらけ出さないといけないなんておもわない。ほんとうの救いは尊敬するひとが持つ強さによってもたらされる。そういうひとたちのおもいやりは非人間的だからこそ巨大なんだ」

「でもひとは人間的なおもいやりが欲しいものよ」彼女は反論した。「魅力あるひとに共感したいの」

「ロイス、心のなかでは他人の弱さを感じとりたいっておもってるよ。人間によってもたらされるんだから。それにねこの古い修道院ではね、」かれは笑顔で続けた。「牧師はそういったすべての自己憐憫やプライドをすぐさま見つけ出すんだ。ぼくらが気づきもしない場所にあるぼくらの意思をかれらは見つける。洗濯とか、そういう感じかな。それを洗い流して人生を守るみたいな。きみのいうところの人間味のないひとが、良き伴侶たる人間性を備えているってぼくらは感じている。ぼくらも死ぬまでそうするんだ。仲間のひとりが死んだら、その家族でさえもうかれを所有できない。かれはここに、千もの他者とともに簡素な木製の十字の下に埋葬されるんだ」

 突然かれの口調は変わり、灰色の瞳にはつらつとした輝きを宿して彼女を見た。

「だけどひとの心ってものに話を戻すと、取り除き難いものもある――そのひとつがぼくの妹へのイカれた愛なんだよ」

 衝動に駆られて、彼女は芝生の上でかれの横にひざまずき、寄りかかってかれの額にキスをした。

「兄さんは厳しいわ」彼女はいった。「そういうところ好きよ――兄さんはやさしい」

 

  応接室に戻ってロイスは六人の親しい友人に会った。そのなかにジャーヴィスという名前の若者がいて、ひどく青白い顔をした繊細そうな男だったのだが、かれはジャーヴィス夫人の孫で、この夫人は心のなかでこの苦行者を粗暴なおじたちの歯止め役だとみなしていた。

 そしてレーガンもいた。傷がある顔にはロイスを部屋中追いかける真っ直ぐな瞳が穿たれていて、ときたま崇拝に近い感情を抱きながらキースを目に留めていた。そのとき彼女はキースがいった「拳を交えた仲」がどういうことなのかを悟った。

 かれは布教活動をするタイプのひとだ――彼女はぼんやりとそうおもった――中国か、どこか別の国で。

「ぼくはキースの妹さんにシミーを踊ってもらいたいね」ある若者が大げさに歯を見せて微笑んだ。

 ロイスは笑った。

「レクター神父に外につまみ出されちゃうわ。それに、わたしプロでもないし」

「ともあれ、ジミーにとってベストなことではないだろうね」キースが真面目にいった。「こいつはシミーみたいなダンスのことばっかり考えてるんだ。あいつらがちょうどはじめたのは――マーシェなんじゃないか? そうだろ、ジミー?――こいつが修道僧になったときなんて丸一年とりつかれたからね。ジミーがジャガイモの皮を剥くところを見るといいよ。バケットを腕に抱え込んで、神をバカにしたようなステップをするからさ」

 自然な笑いが起こった。

「ミサでここにきたおばあさんがキースにこのアイスクリームを送ったんだ」ジャービスが笑いをこらえながら小声でいった。「というのもきみがくるって聞いたからなんだって。すごくいい話じゃない?」

 ロイスの目が涙でうるんだ。

 

  それから三十分に渡る礼拝で、物事が突如おかしな方向に進んだ。ロイスは五、六年前に祝祷に参加したことがあったのだが、いざはじまると真ん中の白い部分がきらりと光る聖体顕示台、お香の香りで重苦しく荘厳な雰囲気、頭上にあるフランシスコ・ザビエルのステンドグラスから差し込み目の前にいる司祭の服のあたたかな赤の網目模様に落ちる陽の光にどきどきした。「ああ、救いの生贄よ」の第一節が彼女の魂に重くのしかかってきた。キースは彼女の右に、ジャーヴィス青年は左にいて、彼女はかれら二人をちらちら盗み見した。

 いったいどうしっちゃったんだろう、と彼女はそう思わざるをえなかった。

 再びかれらに目を向けた。ふたりの横顔にはある種の冷たさがあんじゃないか、青白い口元や目に宿した好奇心とか、そういうものは以前の自分ならわからなかったものだ­。彼女はわずかに身体が震えた。二人が死者に思えたのだ。

「どうしちゃったんだろう」

 彼女は目に手を当てた。魂にのしかかる重さはさらに増加した。お香の匂いで気分が悪くなり、ぼろぼろのノートを手に持った聖歌隊の孤児のテノールがちびた鉛筆の甲高い音のように彼女の耳をつんざいた。彼女は身じろぎ、額を触ると湿っていた。

「ここちょっと暑くない?」

 再び彼女は笑いを押し殺すと、その瞬間に心にのしかかっていた重さは冷たい恐怖のなかに忽然と紛れていったのだった。祭壇にあったのはろうそくだった。何もかもがおかしかった。誰かそれを見なかったのかしら? そのなかに何かがあった。それから出てきた何かが、姿かたちを変えて祭壇の上にいたのだ。

 彼女は湧き上がる混乱をなんとか抑えようとし、祭壇にあるのはろうそくの芯だとじぶんにいいきかせた。もし芯がまっすぐじゃなかったら、ろうそくに何かが起こっていた――でもそうじゃなかった。計り知れない速さで彼女の内に力が集まり、とてつもない、同化作用のある力が脳の隅々にあるあらゆる感覚を引き寄せた。内なる力が湧き上がるに連れて凄まじく恐ろしい反発力を感じた。彼女は手を引っ込めて、キースとジャーヴィスから離れた。

 ろうそくのなかに潜むもの……そのことに意識を集中していると彼女は前方に倒れた――その瞬間、それに近づいた気がした――だれもそれを見ていないの? だれも?

「うっ!」

 傍に気配を感じそしてなにかが語りかけてきて、ジャーヴィスが恐怖に喘ぎながら突然その場に座り込んだことを知った。彼女は跪いていて、燃える聖体顕示台が牧師の手によってゆっくりと祭壇を離れるそのとき、怒涛のごとく押し寄せるノイズを耳にした。まるでハンマーブローのように鐘が壊れる音が鳴ると、永遠のごとき一瞬のうちに彼女の心のなかを激流が駆け抜けた。一筋の叫び声があがり、波のように悲鳴が押し寄せた……。

 ……彼女は助けを求めていた。自分でもキースに助けを求めていると感じていた。くちびるはその言葉をなぞろうとしているけれども、声にはならなかった。

「キース兄さん! お願い! 兄さん!」

 突如、彼女は新たな存在に気付いた。それは外部にあるなにかで、目の前にいて、すべてが完全であり、あたたかな赤色の網目模様で形作られていた。それで彼女はわかった。それはフランシスコ・ザビエルのステンドグラスだった。彼女の心はそれをつかみ、やがてひとつとなり、キース、キースとなすすべもなく何度も繰り返し助けを求めた。

 そこへ荘厳な静寂を破る声がした。

神のご加護があらんことを

 次第にあたりがうるさくなるなか、その声の反響が教会じゅうを重く響きわたった。

「神のご加護があらんことを」

 その言葉は即座に彼女の胸の内で口ずさまれた。お香が神秘的で甘く、おだやかな空気を漂っていて、祭壇のろうそくはもうそこになかった。

「かれの聖なる名を祝福せよ」

「かれの聖なる名を祝福せよ」

 揺れ動く蒸気に紛れてすべてが不明瞭になった。半分息を切らし、半分泣きながら彼女は足をじっと見ていると突然両手を広げたキースが後ろから彼女を抱きしめた。

  

 「まだ横になってなよ」

 彼女はふたたび目を閉じた。芝生に横たわり、キースに腕枕をしてもらっていて、レーガンは冷やしたタオルで彼女の頭を軽く叩いてくれていた。

「大丈夫よ」彼女は静かにいった。

「わかってる、でももうちょっとだけこうしておいた方がいいよ。暑かったからね。ジャーヴィスも暑さでやられたんだ」

 レーガンがまた恐る恐るタオルで触れると彼女は笑った。

「大丈夫だって」彼女は繰り返した。

 しかしあたたかな平穏が彼女の心のなかにおとずれても、まるでだかれかが彼女から魂を剥ぎ取って笑っているような、妙な喪失感と違和感があった。

  

  三十分後彼女はキースと腕を組んで玄関へと続く道を歩いていた。

「あっという間だったね」彼はため息をついた。「体調を崩していたんだね。ごめんよ」

「もう大丈夫だから。ほんとよ。気にしないで」

「ごめんよ。暑いなかここまで来るのも大変だっただろうに、長い祝祷につき合わせちゃって。気が回ってなかったよ」

 彼女は明るく笑った。

「祝祷に慣れていなかったっていうのはほんとだとおもう。宗教的な行事って荷が重くて」

 少し間をとって、それから早口に続けた。

「兄さんをがっかりさせたくないんだけど、でもなんっていったらいいんだろ……カトリックは不便よ。他の何かの役に立つなんておもえない。道徳に反しない範囲でだけど、わたしの知り合いでガラの悪い男の子でカトリックの子は何人かいた。良い子は――本をたくさん読むような子は、大した信仰なんて持っていなかった」

「詳しく話を聞かせてくれ。次のバスまで三十分ある」

 ふたりは小道の脇にあるベンチに座った。

「たとえばジェラルド・カーター。かれは小説を出版したわ。心ないことをいうひとがいたら決まって怒っていた。それからハワー……じゃなくてもうひとりのハーバードで全米学生友愛会会員のひとがこのあいだ、知的な人間はだれもキリスト教の超自然的世界観なんて信じないっていってたわ。キリストはとんでもない社会主義者だって。いやな気分にさせちゃった?」

 彼女はそこで急に話し終えた。

 キースは笑っていた。

「そんなんじゃ坊さんは驚かないよ。そのかれはプロのショック吸収職人だね」

「そうね」彼女は続けた。「それがすべてよ。カトリックなんてすごく……すごく狭い世界よ。教会の学校なんてまさにそれ。カトリックのひとには縁のない物事にもっと自由があるの。中絶とかね」

 ほんのすこしだけキースの表情が曇ったが、ロイスは見ていなかった。

「ああ、」彼女は口早にいった。「いまじゃみんながいろんなことを話すわ」

「たぶん、そっちの方がいいだろうね」

「そうね、そうよ。こっちの方がいいわ。だからねぇ、兄さん。わたしは兄さんに話したかったの。わたしがどうして……どうして体温がちょっと高いのかってことを」

「ぼくは驚かないよ、ロイス。ぼくはきみが考えている以上によくわかっているよ。ぼくらはみんなそれを経験して生まれてきたんだから。でもね、その子はちゃんと生まれてくるよ。信仰にも才能があって、ぼくらは、きみとぼくは、それを持っているんだ。その信仰の才能があやまちを犯した過去の地点へとぼくらを連れていくんだよ」

 かれはしゃべりだすと同時に立ち上がり、小道を歩きはじめた。

「ときどきでいいからぼくのことを祈ってほしいんだ。きみの祈りが必要におもえるんだよ。この数時間でぼくらはかなり仲良なったからね」

 彼女の目は急に輝きだした。

「そうね、そうおもうわ!」彼女は叫んだ。「いまは世界のだれよりも兄さんと仲良しよ」

 かれはふと立ち止まり道端を指差した。

「ぼくらは……ちょっと待って……」

 それはピエタだった。岩に彫り込まれた等身大のマリア像だった。

 わずかな自意識を抱きながら彼女はかれの傍に膝をつき、みずからの企てがこの祈りを前にして失敗に終わったことを悟った。

 かれが立ち上がっても彼女はまだ立ち上がれずにいた。かれは彼女の腕をとった。

「ぼくはね、きょうこうして一緒に過ごせたことを、マリア様に感謝しているんだ」かれはそう簡潔にいった。

 彼女は突然のどになにかがこみ上げてくる感覚にとらわれた。兄にこの湧き上がる感情がどれほど大切かをいってやりたかった。しかしことばが出てこなかった。

「ぼくはいつもこんなことをおもっているんだ」かれは声をすこし震わせながら続けた――「きみと過ごしたこの夏の日は、ほんとにずっと待ち望んでいた日だった。ロイス、きみはぼくがずっと待ち望んでいたひとなんだよ」

「すごくうれしいわ、兄さん」

「そう、きみが小さかったころ親はきみの写真を送ってくれた。最初は赤ちゃんで、それから靴下を履いてベンチに座ってバケツとシャベルで遊ぶ姿、そして急に無垢な目をして物欲しそうに歩き回る少女になった――ぼくはよくきみの夢を見たよ。人間は執着すべき生きる理由を持たなくちゃいけない。おもうにね、ロイス、それはぼくが寄り添おうとしていたきみのおさない純白の魂なんだ――たとえ人生のクライマックスがきても、すべての神の叡智がどうしようもないまがいものだったとしても、欲望も愛も他の百万もの物事が押し寄せようとも、生命は声を上げるんだ、『わたしを見て! 見るんだ、わたしは生命だ。きみは生命から目を背けようとしているんだよ』ってね。その暗い声を通り抜けてきてね、ロイス、きみの赤ちゃんの魂が目の前を軽やかに飛び回っているのがいつだってぼくには見えるよ。その魂はかよわくて、清らかで、そして素晴らしいんだ」

 彼女はやさしい涙を流した。ふたりは玄関門までやってくると彼女は肘を門の上に置き強く目をしばたかせた。

「それからね、きみが病気だったときぼくは一晩中ひざまずいてきみの苦しみをぼくに移してくれって神さまに頼んでいた――もしかしたらそれ以上を望んでいたんだ。きみがおなじ世界で身体を動かし息をしていて欲しかった。きみが大きくなって、きみの生命が純白の無垢から炎となって、別の弱いひとに光を与えて燃えているのを目の当たりにした。そしてぼくはいつの日かきみの子どもを膝に乗せてひねくれ者のキースおじさんってぼくを呼ぶ声を聞きたかったんだ」

 かれは話すにつれて笑っているように見えた。

「ああ、ロイス、ぼくはそのときそれ以上を神さまに望んだよ。きみからの手紙が欲しかったし、きみと一緒の食卓に着きたかった。ほんとひどい話だよね」

「手紙なら受け取ったじゃない、兄さん」彼女は鼻をすすった。「そう、そうよ。ああ、わたしって赤ちゃんみたいね。でも兄さんがそんな風に思っていたなんて知らなかったわ。わたしは……兄さん……兄さん……」

 かれは彼女の手をとりやさしくなでた。

「バスが来たよ。また来れるだろ?」

 彼女は手で兄の頬に触れ、頭を引き寄せると涙で濡れた顔をかれにうずめた。

「キース兄さん、いつかお話しましょう」

 かれがバスに乗るのを手伝い、バスに乗り込んだロイスはハンカチをしまって凛々しい笑顔を兄に見せると運転手はアクセルを踏みバスは動き出した。分厚い排気ガスを残して、彼女は行ってしまった。

 数分間かれは手をポストの上に置いて道に立ち尽くしていて、口元は半分笑っていた。

「ロイス、」かれは不思議な感情にかられて大声で叫んだ。「ロイス、ロイス」

 その後、通りすがりの数人の見習い修道士はかれがマリア像の前でひざまずいているのを見かけ、しばらく後に戻ってくるとまだかれがそこにいるのを見かけた。それからかれは夜が明けるまでそこにいて、整然とした木々が頭上でざわめき、ほこりっぽい芝生ではコオロギがいつものように鳴いていた。

 

  ボルティモア駅の電報ブースにいたひとりめの事務員は出っ歯をすーすーいわせてもうひとりに向かって口笛を吹いていた。

「どうした?」

「あの女の子を見ろよ――いや、あの黒い点々のついたヴェールをかぶっているかわいい方だ。おせぇよ――もういっちまったよ。ざんねん」

「その子がどうかしたのか?」

「別に。クソかわいかったんだよ。きのうここに来てて、どっかで会おうって電報をどこぞの男に打ってたんだ。そのちょっと前に清書した電報を持ってきていたんだけど、しばらく突っ立っていて、そいつを渡そうとおもいきや気が変わったのか急に破り捨ててしまったんだ」

「へぇ」

 ひとりめの事務員はタイル張りのカウンターまでふらっとやってくると床に落ちていたふた切れの紙を拾い上げ、なんとなしにつなげてみた。ふたりめの事務員はひとりめの肩越しにそれを読み、読みながら無意識に語数を数えていた。ぴったり十三語だった。

  

サヨナラ いたりあニ イキナヨ

ロイス

 

「これを破いたのか?」とふたりめの事務員はいった。

 

〈了〉