カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

また短編集「教育と育児」も好評発売中です!


「回遊人(吉村萬壱)」感想/死者の居場所

 

彼女の夫の居る時空と私が居るこの時空とは、何がどう違うのだろうか。私は一体、本当はどこにいるのか。確かな事は、女将の夫は既に死んだという事だ。その事を、彼自身も自覚しているらしい。しかし私は、自分が死んだのか、それとも単に元の世界から消えてしまったのか、何も分からない。彼女の夫は、自分が死んだ時点以降を死に続けている。しかし私は……。

吉村萬壱,「回遊人」

 

小説の歴史、というようなものをいうつもりはないのだけれど、19世紀後半から現在にかけて小説は常に「時間」というものとの関わり、小説のなかでの時間のあつかいはもとより時間のなかでの小説のありかたの正しさについての解答なき問いにさらされてきたように感じる。

ウェルズの「タイムマシン」やみんな大好き筒井康隆「時をかける少女」などSF世界を構築することで(あるいは無垢な想像の結晶として)表現されたり、ジョイスやプルースト、ウルフなどのモダニズム文学を代表する「意識の流れ」や、保坂和志や山下澄人らによって現代日本で行われている一人称と三人称を浮遊する「移人称」など、文章レベルでも「時間」は絶えず小説に影響を及ぼし続けてきた。

少なくとも、書くことでしか小説内の時間を動かすことのできない書き手たちにとって、時間との関わりは原理的な問題かもしれないけれど、時間の進行が書き手によって委ねられてしまっているからこそフィクションという特別な場所でしか感じたり考えたりできないことがリアリズムの問題として還元されうるんじゃないかとぼくはおもう。

時間が巻き戻り、戻れないあの日あの時をもう一度現実として目の前に現れるというシチュエーションにおかれたとしたなら、これから起こるべく未来はすべて過去化され些細な選択の違いをきっかけに「なかったこと」として損なわれていくのか、はたまたまったくことなる未知の世界に迷い込んでしまったのか。吉村萬壱の書き下ろし小説「回遊人」はその両方の可能性のなかを彷徨う物語だとぼくは感じた。

もちろんタイムリープの物語は小説に限らず、いまの時代では使われすぎているとさえ感じるけれど、吉村萬壱のこの小説の奇妙さは時間に関する様々な問題についての無関心が徹底されているところにある。

以下、小説「回遊人」の感想を書いてみたいとおもう。

 

目次 

 

あらすじとざっとした感想

この小説は、スランプに陥った中年作家がデビュー作を書いたときの感覚を取り戻そうと「縄首」(おそらくは大阪のあいりん地区がモチーフ)というドヤ街へひとり旅し、そこで拾った錠剤を飲むことで妻と付き合い始める10年前にタイムスリップするという筋書きだ。

本の帯にも書いてあるように「何度も」この10年間を繰り返すことになり、そしてお約束のように「抜け出せない時間の檻にとらわれる」という感じではあるのだけれど、しかしこの果てしない反復におそろしさはほとんど感じない。

この種の「おそろしさ」は、タイムリープの反復を行う多くの物語ですでにやり尽くされてきた感が否めず、それゆえに「回遊人」ではこのおそろしさを感じなかったという面もなくはない。しかし、実際はそうじゃない。こうした迷宮と化した時間の恐怖以上に、小説内で描かれる日常の方がはるかに地獄の様相を帯びているからだ。

10年前に戻った主人公は、作家になるべく、かつて新人賞を受賞してデビューする事になった小説を記憶を頼りに書こうとするが、それをうまく再現できない。しかしベストセラーとなる他人の作品を書き上げる事で作家としての地位を確立し、兼ねてから欲望の対象であった女をめとるが、そこに幸福はない。

過去と違う行動をとるにつれ、世界がどんどん自分の知らないものへと変わっていく。ディテールが積み重ねられていくにつれ、世界そのものが損なわれていくグロテスクさがこの小説にはあり、そういう点で「可能な他の世界」という多様性へと向かう他の多くのタイムリープ小説とは一線を画している、とぼくはおもった。

 

吉村萬壱という作家

ここで吉村萬壱についてざっと振り返ってみる。

かれは2001年に長嶋有とともに文學界新人賞を「クチュクチュバーン」で受賞しデビューし、「ハリガネムシ」で芥川賞を受賞した。

 

 

個人的に「クチュクチュバーン」はとても好きなのだけれど(芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」は好きじゃない)、この内容はといえば一言でいえば「人類滅亡の物語」だ。人類が異形の物へと変態を遂げ、天変地異に荒れ狂う世界の中で無感傷に破壊が繰り広げられる、ただそれだけの小説だ。すべての人類は人間と呼びうる程度の尊さを剥ぎ取られ、世界はただの動物でしかないかれらにどこまでも無関心である。

吉村萬壱の以降の小説でもこの「無関心さ」が徹底されている。時代の流行についても、愛や悲しみといった共感を誘う感情的なつながりにも、人間とは何かという「文学的な」問いにも、少なくとも作中では義務的に触れられてはいても深く立ち入ってはいない。そういうものが現れたとおもった側から他者や世界によってグロテスクに握りつぶされる。それが逆説的にかれ独自の文学性を強固なものにしているのは、自分さえも他人だと断言できる非情なリアリズムを源泉とした想像力なんじゃないか、とぼくは思う。

近年の作風の特徴は、「しがない中年作家」という、(邪推でしかないが)作者自身の分身に感じられる主人公を据えることが多いといえる。

特筆すべきは島清恋愛文学賞を受賞した「臣女」という作品であり、主人公の高校非常勤講師兼作家である「私」の不倫発覚を期に妻が巨大化を始めるという小説だ。

 

 

この小説の優れた点は「妻の巨大化」という奇想に頼ることがなく、妻の介護により糞尿にまみれた陰鬱な生活のリアリズムを貫くことで刹那的に美しい肉体を得た妻との情交にこの小説固有の詩情を結実させたことである。安易な「美しさ」を持った文章に頼ることなく、古風でも無骨とも言える筆致で作品に詩情を与える作家を、吉村萬壱以外にぼくは知らない。

 

死者の居場所

話を「回遊人」へと戻すことにして、思い出したことといえば「死んだらひとはどこへいくのか?」という他愛のない想像だった。

死者は星になる、死者は天国へいく、地獄に落ちる、何もない無へと還る……など、様々な物語で様々なことが言われ続けていたけれども、死者は死者として生き続けるならば、みずからが生きた時間のなかを永遠に過ごすかもしれない。それはおそろしいことではなく、幸福や不幸とも縁のないもので、不幸だったひとが不幸を繰り返し、幸福だったひとが幸福を繰り返す場所でしかない。

この種の世界観は認知症を扱った小説で時々描かれることがあるけれども、死生観などと紐付けて直接的に描かれることはなかったような気がする。

肉体的な死だけでなく、この小説の主人公が当初おそれていたことは「作家としての死」だ。小説を書けないことに悶え苦しみ、遺書を書き怪しげな錠剤を飲むなど、肉体の死にすがってでも作家として生きようとしていた。

しかし、皮肉なことに人生の反復を通して書くことを捨てた時に心の平穏がはじめてもたらされる。何度も繰り返す時間のなかで肉体と精神の年齢の乖離はいよいよ大きくなり、生き死にの感覚に鈍くなる。

そして生と死への無関心が、かれに永遠の時間を求めさせ続けるのだ。