カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が発売されました。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しています。

「波 2017年7月号(新潮社)」など、雑誌にもちらほら取り上げてもらいました。

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「何者でもないわたしたちという誰か」のこと〜ノーベル賞、カズオ・イシグロ、現代世界文学とオートフィクション、母国語至上主義について

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きのう今年のノーベル文学賞がカズオ・イシグロに決まったというしらせをきいて、あまりにもびっくりして声が出てしまった。

もちろんカズオ・イシグロはいうまでもなく優れた作家であることはわかっていたのだけれども、2年連続英語圏の受賞ではないだろうなとおもっていたし、それにイギリスにはイアン・マキューアンがいるから「まさか!」というおどろきが強かった。

はずかしながらカズオ・イシグロはブッカー賞を受賞した「日の名残り」と、日本で話題作となった「わたしを離さないで」くらいしか読んだことがなく、現状ぼくがカズオ・イシグロ作品についてなにかを考えるのはむずかしい。

 

 

ということで、初期の作品である「遠い山なみの光」と「浮世の画家」をさっそく買ってきた。この二作は日本が舞台となっている。

それにしても、カズオ・イシグロ作品は電子書籍化されているのがありがたい!

 

 

ジュンク堂には記者のひとが取材にきていて、店内でも電話が鳴りっぱなしだった。カズオ・イシグロのコーナーが急造されていて、記者のひとはそこに並べられた本の写真を撮って、そこに陳列された文庫に手を伸ばした女の子に取材の許可をもらっていた。

女の子は快諾した。19歳で浪人生だった。カズオ・イシグロの小説はこれまでにも読んだことがあるみたいで、どうやら短編みたいだった。その子は「わたしを離さないで」を手にとっている写真の被写体になった。

 

目次

 

ノーベル賞の報道のされかた

ノーベル賞といえば、その報道のされかたが毎年話題になる。話題になる、といってもこれは一部のアカデミック志向のひとが「日本人の受賞者か否かのみにしか興味を持たないことについて」怒るだけの話で、ぼくもまた毎年このことでちょっと怒る類の人間だ。

いちおう怒る理由を書いておくことにすると、ノーベル賞はワールドカップじゃないとおもっているからだ。国別優秀学問選手権みたいに各国が競い合うものじゃなく、世界全体を同一の市民とみなし、世界そのものの前進やらなにやらについてのマイルストーンとなる偉業をたたえるものだとぼくはおもっている。

そういうものに国籍やらなにやらの世界を分断する概念はそぐわない気がしているのに、受賞者の業績の紹介はほとんどないままに受賞者のひととなりや半生を口当たりのよい物語として報道するのはいかがなものかと、やっぱりおもってしまう。

特に生理学・医学賞や物理学賞、化学賞の科学部門ではもっと研究内容に焦点を当てて、受賞者の努力肯定や天才信仰の一切を捨てて欲しい。努力や天才の物語の消費に終始する安っぽいものにしないで欲しい。

 

ことしのノーベル賞生理学・医学賞の「生物時計」の解説本でおすすめの「時間の分子生物学」↓

 

 

ことしのノーベル物理学賞の「重力波」でおすすめの「重力波は歌う」↓

「科学を安易な物語にするな」といったけれど、これは安易な物語じゃない。20世紀科学の発展に奇しくも大きな影響を与えた歴史背景も丁寧に描かれている。

 

 

何者でもないわたしたちという誰か

とはいえ、文学の世界ではやはり国籍や民族、宗教といった世界の分断線となりうるものの存在は否定し難く大きいことを認めなくちゃならない。そしてじっさいにそのような分断線を乗り越えようとしているのが現代世界文学のようにおもえる。

とりわけ最近は移民にスポットを当てたオートフィクションが世界中で流行っているけれど、そういった小説たちを読むたびに思うのは、いまや文学は世界規模で分類不能なものへとなろうとしているということだ。

世界中の小説を読み漁ったなんていえないけれど、ぼくがこれまでに読んできたもので母なるものの不在が希薄化したことによってアイデンティティが不安定な(あるいはその不安定さによりアイデンティティを確立しているともいえる)人々を扱った小説は、まさに移民で築かれた国であるアメリカで多かったような気がする。

「フロンティア」と「ホーム」のあいだをたゆたう旅が、アメリカでは長大な物語になる。ケルアックの「路上」にしかり、マッカーシーの「すべての美しい馬」をはじめとする三部作はまさにそんな「何者でもないわたしたちという誰か」の小説だ。

「旅」というのは、どんな確かな個人であってもアイデンティティを保証するものを強制的に剥ぎ取ることのできる「激しいシチュエーション」だとぼくはおもう。

 

 

そして人生そのものが旅となるときに「移民」という問題が出てくるのだとおもう。

日本翻訳大賞受賞作のハルフォン「ポーランドのボクサー」やテジュ・コールの「オープン・シティ」というオートフィクションでは、生活を「旅」としてあらためて認識し直そうとする深い内省により、力強いテクストが続いていく。

 

 

眼に映るものや眼には映らないかたちのないものでさえ、物語のなかをたしかに「旅」している。その旅の終着地は、はすごく乱暴にいえば「わたしが安住できる地」という答えなのだろうけれど、しかしそれは「場所」ではないのかもしれないとおもった。A→Bという移動があったとして、これをA→C→Bという経路を辿ってしまえば、文学においてこれはもはやBではない。

オートフィクション作品の多くでは「旅路」についての詳細な描写があるけれど、これはA→B→……といった経路のひたすらな複雑化が意図されている。

この複雑さが過剰になることによって、「テクスト総体の意味の強さ」=「A→Bという旅におけるBの強さ」よりも、そういう図式が通用しないという複雑さそのものが小説のなかで支配的な強さを持つようになる。

ひたすらな複雑性によって構築された現代世界文学の主流とも言えるこれらの作品群は、「何者でもないわたしたち」を等価に「何者でもない」とみなす方向に向かっている気がする。

文学はアイデンティティに偏りすぎると、みずからがマイノリティであることをうっとおしく掲げるゴミになるので(ぼくはマイノリティ・マウンティング現象と呼んでいる)、なかなかむずかしいところである。あれはあれで超不快。

 

母国語至上主義と翻訳

カズオ・イシグロはオートフィクション作家ではなく、むしろ小説を「フィクション」としてきちんとまとめあげようとする志向の作家だとぼくはおもう。

カズオ・イシグロについての報道がなされるなかでぼくが思い出したのは、温又柔さんが提起した先日の芥川賞選評問題だ。

 

 

今朝、テレ朝のニュースでどっかのジャーナリストが、

「私は翻訳の小説が好きじゃない。小説は文体や文章のリズムによって伝わるものがあるのだから、原文で読まなければならない」

などと、さももっともなことをドヤ顔でいっていたのにすごく腹がたった。その時の怒りは、まさに温さんの引用したツイートの怒りと同じかもしれないとおもった。

日本語のうつくしさは日本人にしかわからない、英語の感覚は英語を使う人にしかわからない、母国語は母国語でしか理解できないというような感覚をぼくは母国語至上主義と呼んでいる。読める・読めないといった言語能力でなく、意識の問題だ。

これらの感覚はたしかにわからないでもないこともあるのだけれど、しかしそれは「言語表現というのは翻訳に耐えれないほど脆弱だ」と過小評価しているに過ぎないとぼくは思う。

朝のニュースのジャーナリストの発言はまさに「小説で描かれる世界は、原文の言語を母語として育ったひとたちだけのものと信じて疑わないひと」による暴力に他ならない

実際に翻訳をやってみるとわかるのだけれど、そもそも言語は完全に一対一対応しないので、どのように翻訳したとしても何かしらの「解釈」が生じてしまう。母国語至上主義者たちはこの「解釈」を不純物だとみなしているのだけれども、それが常に作品の質を下げる忌むべきものだとは考えない。良い翻訳とは何かはまだ全然わからないけれど、しかし翻訳というはある意味で「究極の読書」だとおもっている。作者によって丹念に描かれ、翻訳者によって深く読み尽くされたその文章は、果たして「原文」よりも劣ったものなのだろうか、とよく考え込んでしまう。

いま、カズオ・イシグロの日本を舞台とした小説を呼んでいるのだけれど、これらの小説はまさにそういう意識を客体化してきちんと見つめることを求めているような気がしている。