カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


文芸誌を読むということ/おもしろい・おもしろくないを言い切る尊さ

長編を読み切る時間と気力がないのだけれど(その割に実入りが悪い)、いちおう毎日本は読んでるので、きょうは最近読んだ文芸誌の短編・中編の感想を書きたいとおもう。

読んだのは「文藝2017年冬号」「たべるのがおそいvol.4」だ。

 

 

そのまえに、ちょっとだけ文芸誌の話を。

 

文芸誌というものは知らない人は永遠に知らないものだけど、とにかくどこの会社でも赤字事業として出版業界では有名らしい。

今年の初めか去年の年末か、はあちゅうが講談社の文芸誌「群像」に短編を掲載したとき、誰かとの対談で「文芸誌を読んでいるひとなんてあったことない」といっていた。

この認識はけっこう文芸誌の認知度を客観視するうえでわりと重要なもので、すなわち

「読書好きとおぼしきひとさえ、その大部分が読んでいない」

ということを意味しているととらえるとわかりやすいかもしれない。各文芸誌でも特にここ数年は読者確保にかなり四苦八苦しているなというのがひしひしと伝わってくる。

はあちゅうの件の短編集はいくつか追加されて最近本になった。

 

 

この小説についてぼくは特に言及したいことはないのだけれど(おもしろい・おもしろくないではなく、小説観があまりにも違いすぎる)、ただ一言だけ「群像」には言いたいことがある。もっと他に「群像」だからこそ推すべき作家がいたんじゃないか?

「純文学はこういうものだ!」という線引きをしてほしいというわけじゃなくて、少なくとも「群像じゃなくていい小説」と「群像だから載せられる小説」というものは一定数存在していて、ぼくにとってはあちゅうが群像に掲載した3つの短編は前者に相当すると思えてならなかった。

ちなみに後者に該当しそうな小説をかけそうなのが「世界一即戦力な男」「二代目水嶋ヒロ」「カップ焼きそば文体模写」で話題になったWEBライターの菊池良(今月号のベスト3にも出てた)なんじゃないかという期待が個人的にあるので、こういう人にはどんどん得体のしれない小説を書かせてほしいともおもう。

 

 

目次

 

かつてあった文芸誌レビューブログのおもしろさ

まだまだ前置きが続いてしまうのだけど、以前はブログで文芸誌を片っ端からよんでがっつりレビューを掲載しまくるという「文芸誌特化ブログ」 というものが存在した。厳密には未だウェブ上にはあるけれど、更新が完全に止まってしまった。よくよんでいた文芸誌特化ブログは2つあったけれど、どちらも更新停止の理由は多忙とのことらしい。

ぼくがネットの文芸誌レビューを面白いと感じていた理由は、「おもしろい・おもしろくない」という判断をかなり明確に下していたところだった。

というのも、文芸誌に掲載される類の小説は「おもしろいというのは簡単だけれど、おもしろくないというのが難しい」といったものが非常に多い。

よく、書評やら何やらでは「これをどうどうおもしろがればいいのか」という視点の意見を見かけるけれど、この悩み(?)のようなものが「簡単におもしろくないと言えない」現象そのものともいえる。

「おもしろい」は理由なくいえるけれども、「おもしろくない」にはそれが許されない。

だからこそ「おもしろくない」と言わざるをえなかった書評には、(ときどき)とてもキレの良いものがある。「おもしろくない」と言い切ることをしっかり覚悟していたように感じた。

 

町屋良平「水面」(文藝冬号)/「身体性」に定義を与える小説

まずは町屋良平の新作中編から。

この小説は「主人公の失恋と兄弟愛」みたいな甘酸っぱくてハートフルな筋書きではあるのだけれど、実は「文章を書く」ということに対してかなり自覚的に踏み込んだイカつい小説だ。個人的には終盤のハートフル展開が邪魔で仕方なく、この展開でちょっと小説が悪い意味でぶれてしまったように思えて残念だったが、それ以上にこの作家の文章のおもしろさががっつり現れている箇所もあり、そのことについて書いておきたい。

二回失恋で二回水の中に落ちるという体験を主人公はしていて、「2度あることは3度ある」的な感じの軽いオブセッションが小説の軸となっている。そこで現れるのが、主人公の「日記を書く」という習慣だ。

前作「青が破れる」でもそうだったけれど、町屋良平は作中人物の「ルーティン」によって小説の思考を作る。「青が破れる」では主人公がボクシングの練習をしていて、今作ではスマホで日記を書く。両者は全くちがうものに感じられるけれどたぶん本質的にはおなじもので、身体を動かすことで思考を促している。

町屋良平の文章のおもしろさは、

・習慣化された肉体の運動=ルーティン

・思考を促す肉体の運動=スポーツ

 という意味づけが割とかっちりなされているだろうと思えるロジカルなところで、それをロジカルに見せずに情緒に擬態するところにあるんじゃないか、とぼくは考えた。

「文章の身体性」なることばは文学シーンで頻繁に使われる割に明確な定義がなんなのかよくわからないから嫌いなんだけど、この感覚に対するなんらかの定義を町屋良平は持っているのだろうという感触がある。

そう考えるとこの小説は何度も失恋したのではなく、「失恋し直している=スポーツとしての失恋」を描いていたのかもしれない。

 

宮内悠介「ディレイ・エフェクト」(たべるのがおそいvol.4)/過去の想起と視認はまるでちがう

前置きの段階で「おもしろいというのは簡単で、おもしろくないというのは難しい」という話をしたけれども、簡単におもしろいと言えてしまうのがこの作品だった。つまり、設定や物語がふつうにおもしろいというやつである。

現代の日本に、1944年の戦時中の日本の幻影が「ダブる」という現象「ディレイ・エフェクト」によって社会が混乱するという話で、そこに主人公と妻との関係、妻の曽祖父についてまで手際よく扱った、長さの割に豊富な内容でありながらスラッと読めるという読書コスパ抜群の小説だった。

いうまでもなく、現在という時間は過去の影響下にあり続けている。しかし過去であったはずのものが目の前に現れたら、もうそれは過去でなく現在になってしまう。そんなことをこの小説を読みながら考えた。

ちなみにチャイナ・ミエヴィル「都市と都市」はコチラ↓

 

木下古栗「人には住めぬ地球になるまで」(たべるのがおそいvol.4)/「アイドルにすかし屁させる」小説

このブログをこれまでに何度か読んでくれた方なら、ぼくがいかにこの作家を偏愛しているかをわかってくれているんじゃないかと思う。

 

www.waka-macha.com

 

しかしこれだけはちゃんと言いたい。今回はおもしろくない。

木下古栗という作家の特徴について、ネット上の誰かが「文学というアイドルにうんこさせる作家」というこれ以上にない批評をしていたのだけれど、まさにその通りだ。

もう少し説明するならば、木下古栗は「文学の現場で使われる叙述スタイルや語彙を過剰に用いて、死ぬほどくだらなくて恐ろしいほどに下世話な話をする」という独自の作風を展開している作家だ。

それによって何か人間が新たなステージに向かうかどうかといえば間違いなく原始レベルにまで退化しかないだろうが、それでも「ユーモア」ではなく「笑い」を貫く力強さは唯一無二だといえる。

しかし、今作はその武器である「くだらなさ」と「お下劣さ」が全然足りない。むしろちょっとした感傷まで入ってきている始末である。

なんだか「アイドルがすかし屁した」ような拍子抜けな小説だった。

 

 

みんな文芸誌を読もう!