カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


【書評】滝口悠生「高架線」/本当のことと語り手への信頼

 でもさ、と私は田村の話を遮った。僕の文通相手はね、本当は存在していないんですよ。いや、あの写真の男……男か、女か、何と言ったらいいかわかんない、僕は男と言ってしまうけれども、あの人はもちろんどこかに実在しているけど、僕が文通をしていた相手は北海道まで探しに行っても、どこにもいない。成瀬文香なんて人はね。いや、それはどうでもいいことで、いやどうでもはよくないけど、そんなことを言いたいんじゃなくて、僕は成瀬文香を、死んだ人のように思い出すことがあるんですよ。

滝口悠生「高架線」

 

 

詩情とは場である。

かつて詩人のオクタビオ・パスはそういったらしい。

らしい、といのは友だちから聞いて知ったからなのだけれども、この考え方には説得力があって、ぼく自身がそういうことを考えるうえでも軸になっている。

詩情が豊かだとか、詩的な文章だとか、そういう評価はおもに「いかにも文学な」文章になされるけれども実は必ずしもそうじゃなくて、ただの事実を事実として語るような文章や、そして「いかにも文学な」語彙や比喩が使われていない文章にさえ、すくなくともぼくは「詩情」なるものをかんじるときがある。

詩情に関して考えたりいざ論じようとしてもそれがなかなかうまくいかないのは、そもそも詩情が読み手の主観によってのみ感知されるものかもしれない。

「たしかに存在している、しかしそれが何かはよくわからない」

といった感覚について、厳密に定式化されるべきかあるいは曖昧なものとしてそのままにしておくべきかはさえ判別できないのだけれど、どうにかその中間となる「厳密かつ曖昧な」ものとして一般性が与えられれば、とはよく考える。こうした「語りの詩情」について考察するうえで現在欠くことのできない作家が滝口悠生だ。

今回は滝口悠生の初長篇となる作品「高架線」について感想を書いてみたいとおもう。

 

目次

 

文学への過剰な期待

滝口悠生の小説はさらりと読むならば、ある状況下にある人々の身辺雑記として回収され、脱線につぐ脱線により広く浅い世界が大規模に構築されていく奇妙さがあり、言語表現として表出するその運動がこの作家のオリジナルではあるけれども、なかなか一般ウケはしない。

芥川賞受賞作である「死んでいない者」は選考委員から多くの支持を集めたけれども、残念ながらAmazonレビューはなかなかひどいことになっている。作者や読者のことを悪くいうつもりはないけれども、ぼくはこうしたレビューから「世の中のひとは文学に対して過剰な期待をしているんじゃないか」とおもった。

 

 

「文学への過剰な期待」というのはかなり誤解を招きかねない口汚いことばかもしれないが、べつに文学を蔑んでいるわけじゃない。ブログだったりよく行く飲み屋だったりで小説を読むことについて度々ほかのひとと意見を交わすことがあるのだけれど、

「人間とはなにかへの言及」

であったり、

「人間の生の尊さ」

や、

「人生においてなんらかの糧となるもの」

を期待しているというひとはやはり多い。というか、現実としてこれが多数派なんじゃないかとおもう。

もちろんそういう価値観は否定しない。ただ、そういうものを期待するひとは「登場人物についての狭く深いところにある感情」に共感したいという願いがあって、滝口悠生のような「広く浅い」世界をつくりだす作風との相性は当然悪くなってくる。

そもそも「文学=人間を描く」という図式が単純に絶対化されてしまうのかという疑問にここで立ち入らないにしても、その「人間」を描く手法はひとつではないし、「秘められた孤独であり感情」は個人のみに所有されるものではないんじゃないか、とぼくは考える。

それゆえに滝口悠生のような「新しい小説」を生み出す作家の作品群は、じぶん自身が持ち合わせている既成の文学観を捨てて能動的に読書をしなければなにかを獲ることなどできはしない。ときにじぶんの好き嫌いすら、読書に持ち込むべきじゃなかったりする。そうなると、

「なぜ金を払ってまでしんどいおもいをせねばならんのだ!」

という見解が当然出てくるだろうけれど、なかなかこれが難しい。本が売れる・売れない問題の根本的なところなのだろうけれど、これになんらかの答えが見つかったならば出版業界は苦労などしていない。

 

日常系アニメが好きなひとは好きそうな長篇小説

前置きはさておき、「高架線」の内容について。

簡単に説明すれば、練馬区の東長崎駅近くにある家賃月三万円のボロアパート「かたばみ荘」を中心にすえた群像劇だ。かたばみ荘は不動産業者の仲介をせずに運営されていて、「出ていくときは次の入居者を紹介しなければならない」という決まりがあり、その「非常識な」システムによって家賃安く抑えられ、「非常識な」人間がちらほらと住み着いていく。

各章の冒頭は「◯◯です。」という自己紹介からはじまり、かたばみ荘の住人やかれらと親しい人物たちが次々と好き勝手語り出し、なんだか「サザエさんの予告編」を延々と観ているみたいな、のほほんとしたやわらかさとユーモアで満ちているのが読みどころだ。

こうした概略が示す通り、従来の滝口作品に比べてエンターテイメント性が高い。そして滝口悠生ならではの「語りの技術」へのこだわりは健在で、何度読んでもおもしろい小説に仕上がっている。

ぼくは総じて非常に楽しんで読んだ。

おもしろかった。

 

大きく分けて2つの物語をつなぐ「かたばみ荘」という詩情

次々と語り手を変える小説で、奔放に雑多なエピソードが飛び出してくるけれども、前半後半で主軸となっている物語が異なっている。

前半は、「髪の長いバンドマン・片川三郎の失踪事件をめぐり新井田千一、七見歩、七見奈緒子によって藪の中方式で語られる騒動劇」で、そして後半は「峠茶太郎、木下目見、日暮純一、日暮皆実により語られる蒲田行進曲と重ね合わされた人生とかたばみ荘解体の物語」だ。

この両者のあいだにはそれぞれに別の小説として成立しそうな断絶があるようにも感じられるけれども、ひとつなぎの小説として成立させているのはいうまでもなく「かたばみ荘」という場だ。

もちろんこうした手法は小説をつくるうえで「よくあるもの」なのだけれども、この手法をとると「小説全体がこじんまりしてしまう」ということも往々にしてある。しかし、この小説で語られるエピソードは軽々と物質的な枠組みである「かたばみ荘」を超えた遠くまでにも及んでいる。「かたばみ荘」という場が詩情として機能しているのだ。

 

「ひとの気配」を継承する

かたばみ荘が単なる小説の枠組みでなく、「詩情としての場」たる特質を得ているのは、前述した独特な運営システムにある。

通常、アパートの退出・入居のあいだには復元清掃がなされる。この清掃の目的は単に部屋を綺麗にすることにあるのではなく、「かつてここに誰かが住んでいた」という気配を消すことにある。

しかしかたばみ荘は「退出時に次の住人を紹介する」といった独自のシステムが採用されているために、退出・入居の引っ越しは当人たちの交渉により行われる。同日に行われたり、「そのまま入って好きに使ってくれ」的に済まされたり、部屋には前住人の家具や生活品、嗜好品、そしてモノではない痕跡が残される。

そして重要なのは、この「かたばみ荘」の特質はそのままこの小説の語りに反映されているということだ。

自由奔放に登場人物たちはそれぞれに語るのだけれど、それはすべて自身の経験であり、感情であり、思い出である。そしてそれはじぶんひとりのもののように見えて、実はそうじゃない。かれらはじぶん都合で話を脱線したり、ごまかしたり、嘘をついたり、虚構を信じたり、他人の嘘を看破ったりするのだけれど、語られるエピソードのいたるところに他人の気配が感じられる。ひとりで語っているように見えて複数で語るというような、「私」でない「私たち」というに近い手触りの文体を獲得している。

ちなみに語り手の人間性や心情が文章に反映され、読者のミスリードを意図的に引き起こすことを狙った叙述形式を「信頼できない語り手」ということがあるのだけれど、この小説はこれに該当しないと思う。というのも、かれらは多少の嘘やごまかしがあるとはいえ、すべて「ほんとうのこと」を話しているからだ。

それはまさにこの記事の冒頭で引用したエピソードにとりわけ顕著に現れている、とぼくは思った。存在している、という認識はなにも「ここにいる/いない」ということ、あるいは「実在している/いない」という単純な事実によるものじゃない。小説は事実を書こうが空想を書こうがどうしようもなくフィクションではあるけれども、フィクションは認識のリアリズムを否定するものじゃない。「ここにないものの実在」という気配は存在の物理的な可能性により保証されるものでなく、私や他者によって語られたものたちの関係性のなかで結晶化する。リアリズムとは紛れもなくその結晶であり、それこそがすべての語りを「ほんとうのこと」と保証するのだとぼくは思う。

 

けっこうデタラメでいい加減な人物であるこの物語の語り手たちを、ひとまず信頼してみてはどうだろうか?

 

というわけで今回はここまで。

みなさま、良い読書を。

 

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