カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


【書評】若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(芥川賞受賞作)/「思考の言語」と「体験と肉声」

※このエントリーには若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」の感想を書いていますが、ネタバレはありません。というか、ネタバレ云々の小説じゃないです。

 

満二十四歳のときに故郷を離れてかれこれ五十年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりだ。なのに今、東北弁丸出しの言葉が心の中に氾濫している。というか、いつの間にか東北弁でものを考えている。晩げなのおかずは何にすべから、おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごとにこの頃は全部東北弁なのだ。というか、有り体にいえば、おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる。

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

 

いまぼくがなにを考えているのかということが、たまにじぶん自身でもわからなくなるときがある。

それは「思考というものはいったいどこから湧いて出てくるのか」なんていう問いにもなるし、そうした一連の認識や問いはすべて言語によってもたらされているという感覚がある。

しかし科学的な立場からみると、「言語が人間に思考を与えている」ということはないらしい。世界には数学教育を一切受けなかった男性が「数(すう)」の概念を持っていたという事例があるのだけれど、そのことをおもうたびに、もしこの宇宙が存在しなくても「1+1=2」が絶対的にそうなんだ!というおもいが強くなる。読みかじっただけのスティーブン・ピンカー「言語を生みだす本能」によれば、ぼくらは日本語や英語といった自然言語でものを考えているというわけじゃなく、その手前に「思考の言語」みたいなのがあって、それがぼくらに思考をうながしているのだという。

 

 

先日芥川賞を受賞した若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」はまさにこの思考の言語に焦点をあてた小説だった。桃子さんという東北に生まれ育ち、東京オリンピックの時期に上京して以後50年以上この街で暮らしてきた。息子と娘は家を出て、夫には先立たれた。この老女はいま、ひとりで生きている。

そうしたひとりぐらしのなか、桃子さんはじぶんの体内に「東北弁のわたし」がいることに気づく。桃子さんはこの50年を生き抜くために、標準語で生活して標準語で思考してきたけれど、人生の終盤になって体のなかに東北弁が溢れ出す。そんな肉声を小説的技術によってひきずりだしたような小説だった。

 

目次

 

語りと文体はちがう

「おらおらでひとりいぐも」をかんたんに説明するならば、標準語の三人称と東北弁の一人称が交錯する思弁小説だとぼくはおもう。三人称で語られる桃子さんの生活のなかで東北弁一人称の記憶や思考がとりとめなく浮上し、それが断片的なエピソードを描き出すことはあっても物語らしい物語は描かれない。よくある純文学小説とか、意識の流れとか、そういうかんじでいってしまうことはかんたんだけれども、この小説の特異性はやはりその「言語」にあるといえる。ぼくがおもったのは、この小説には「文体」という概念がほとんどなく、その代わりに「語り」というものが過剰に徹底されている、そうかんじた。

「文体」と「語り」はなにがちがうのか、という問いについて考えることはむずかしい。事実、ぼくもこれまで両者をほとんど区別することなく使ってきた。しかし今回「おらおらでひとりいぐも」を読んだとき、

「この小説は書かれたのではなく、語られたのだ」

というおもいが強かった。そしておそらく、「書く」という行為と「語る」という行為は部分的に対極的な意味を持ちながら、しかし相反することはない。この小説はその両者を見事に両立してみせたということで大きな成功をしている。

当然ながら、小説は「書く」ものであり、小説であるがゆ絵の「語る」という行為もまたその影響下にある。このブログでもぼくはたびたび「身体性」というものについての言及をおこなっているけれども、肉声という点において「語る」という行為には独特の身体性(もちろん、身体性は肉声にのみ認められるものではない)が顕在化する。そしてこの小説の主人公である桃子さんは、この「語る」という行為が持つ身体性を使ってひたすら思考している。

東北弁はたしかに彼女の思考を彼女特有のものにしているという要素はあるけれども、しかしそれが「思考の言語」たるものだろうか。論点はそこなんじゃないか、とぼくはおもった。思考はピンカーが指摘するように自然言語によってはじめて人間にもたらされるものではないだろう。それ以前に存在する「思考の言語」は、(精神論になっちゃうけれど)おそらくは体の内側に生得的に存在していて、それを呼び覚ますための媒介物のような役割を担っている。じゃあそれは「作者自身の身体にあるのか」といわれればその可能性はもちろん否定できないけれども、しかし「東北弁のわたし」が東北弁との関係性を過去の体験と緻密に結びつける試みを反復的に行うことにより、文芸作品として「思考するわたし」という身体を獲得した。

 

「体験と肉声」の時代?

 

先日、ぼくはこういうことをつぶやいたのだけれど、お笑いやアニメといったエンターテイメントの現場での表現ではポストモダン的な試みが注目される傾向にある(お笑いでは松本人志の前衛志向が強く反映されている側面があるだろうけれど)のに対し、いわゆる「純文学」の現場においては、かつての近代文学のような人々の肉声や体験を描いた作品が注目を集めているように感じ、またそれらの作品は「共感」というかたちで高い評価を得ている気がする。もっともこれはちゃんと検証したわけでなく、ただのぼくの印象でしかないわけだけれども、しかし又吉の「火花」以降、そういう作品が「人間を描いた」として受け入れられている気配を感じる。

そういう流れがある(と仮定した)なかで、「おらおらでひとりいぐも」はどのような評価が与えられるのだろうか、というのは結構重要な問題である気がする。

ぼく自身は上記のように、言語表現についての問いをもたらす技巧的な小説だと読んだけれども、この作品が持つメタ性や構造的な観点の指摘は佐々木敦氏がおこなっている以外にあまり見かけない。

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」/石井遊佳「百年泥」/温又柔「空港時光」 - 西日本新聞

 

この小説は「現代を生きる老女の日常」として、「老い」ということを中心とした人生観であり死生観が内容のほとんどを占めるわけだけれども、ここについての「共感」はおそらくたやすいし、内容的にそういうものはこれまでになかったわけではないとは思うけれど、そこに新しさを感じることもおそらくはたやすい。そうなるとこの小説は言語表現としての技巧的作品でなく、「体験と肉声」という最近の流れの作品として位置づけられる気がする。何度もいうけれど、そういう位置づけは誰かがやっているわけでなくあくまでぼくが勝手にいっているだけだ。この流れについて、ぼくは嫌いじゃないにしてもどこか好きになれないところがあって、つまるところ「保守化してる??」みたいな疑念がどうしてもでてきてしまうところにもどかしさを感じる。このあたりは、今回の選評で見所になるんじゃないか、とぼくはおもう。

 

小説についてなにか意味のあることを考えるのはむずかしい。

そのむずかしさというのは、読む人間自身が「思考の言語」のありかを確信できないところにあるからだと、ぼくはおもった。