カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


文学作品の書評寄稿についておもうこと/「名前があるひと」になること

UNLEASHさまに、コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』の書評を寄稿しました。

 

unleash.tokyo

 

2月中になんとしてでもこの書評の受け入れ先を見つけようと決意して、けっこう必死に(半ばムキになって)提案をしまくっているなか、運良くUNLEASHさんに受け入れていただけた。

文芸書評について、ぼくはここ数年このブログでひとりゴリゴリと書き続けてきて、そして「めんどうくさい」内容であるにもかかわらず、一部の小説好きのひとたちから「おもしろかったよ!」といってもらってなんとか続けてきた、という感じだけれど、いざ書評を仕事にするとなるととてもむずかしい。ここ2年ほど、それをすごく痛感した。

 

「本が売れる/売れない」の問題は実際にあるのだけれど、それ以上に書評はべつに「プロの」ライターが書かなくてもいいみたいな風潮を感じるし、なにより読者の自発的なレビューの説得力というのはすさまじい。この「読者」と呼びうるすべてのひとたち一人ひとりにそれぞれの読書経験や趣味趣向があるわけで、一概にひとくくりにすることなどできないのだけれど、その多くはひとこと「おもしろかった/おもしろくなかった」の結論を手短に書いたものが多い。どれだけそうした「感想」の数が集まったか、という「量」が書評としての説得力を強くし、それが「真の読者の声」という風な印象を与える。そうなると、そもそも「ライターに金を払って書評を書いてもらう」というのはバカらしいのかもしれないな、と感じた。もちろん、これは個人の所感にすぎないし、真剣に主張する気もない。

 

ずっと言われてきたことだけれど、ぼくのレビューは長い。

そして長い上に実作上の諸問題を取り上げたり、個人的な読書という営みについて書いたり、他の作品と横断的に話したりする。時間が経つと書いた本人ですら一読してもその意図を読み取れない(!?)ことがあって、明らかにWEBメディアの文章に向いていない。

ぼくとしては「読書ってなんだろう?」みたいな問題意識があって、それがあるからずっと読書を続けているのだけれど、書評を仕事にするにあたって「それが一番邪魔」というのが現実としてある。どれくらいその本が検索されるのか、おもしろいのかおもしろくないのか、映画化するのか、文学賞はとったのか、という対象作品の外的な要素の説明(作品の商業的な位置づけ)をきちんと調べ、それをあらすじとともに小綺麗にまとめる能力が「WEBライターの価値」として評価されている気がする。書いたひとの読書はまったく必要とされない。だから、「読書ってなんだろう」という思考を進める行為として読書を書くことはできなかった。

それはあんまりだ!と思っていた矢先、UNLEASHさんに「書いていいよ」といってもらえたのはとてもありがたいことでした。ありがとうございます。

皆さんもぜひ、『地下鉄道』を読んでみてください!

 

拙作『コロニアルタイム』にアマゾンレビューがつきました

今度は「作者」としてのうれしさなんだけれど、昨年秋に発売した短篇集『コロニアルタイム』にアマゾンレビューがつきました。

 

 

ほかにもグレッグ・イーガンの翻訳でおなじみの山岸真さんや、『構造素子』でハヤカワSFコンテスト大賞を受賞した樋口恭介さんにも拙作をコメントしていただいたりしていて、ゆっくりとですが、読んでくださる方が増えていることがうれしい。

 

 

 

この小説についてひとことだけいうと、樋口さんが指摘するように「細かいところで色んな仕掛け」があるのだけれど、それすべてがぼくにとってとても大切なもので、大切だからぜんぶ詰め込んだという感じで、そしてそれをぜんぶ詰めこめるだけの規模の小説にしよう!とおもって書いた。それゆえに「難しさ」が出てしまったのはぼくの力不足でもありますが、しかし「わからない」という感覚こそがぼく自身を読書にかりたたせるものだから、それを楽しんでもらえたというアマゾンレビューの感想は、ほんとうにとてもうれしいものだった。

Amazonでの匿名の方のレビューと、上記のおふたりのような「名前のある」方々のレビューは、もらった本人として綺麗事でもなんでもなく、どちらもおなじくらいうれしいかった。けれど、うれしさのベクトルというものは違っていて、匿名の方のレビューは「これだけいろいろやり散らかして大丈夫なのか?」という作者としての不安に対して「大丈夫だよ」といってもらえたような安心がある。

そして「名前がある」方のレビューというのは別の安心があって、たとえばおふたりは「グレッグ・イーガン」という大SF作家の名前をあげて言及してくれているけれど、こうしたハードSFに深い理解がある読者というのは、正直なところ一番こわかった。いってみればあたらしい数学や物理、音楽をつくったりする小説だったので、どこかで「大嘘」をつかなくてはいけなくて、その嘘のつきかたがハードSFにとって非常に重要な問題になる。このあたりは(ぼくの小説に限らず)どれだけ緻密にやっても絶対にどこかで悪い違和感が生じてしまい、それがそのまま作者の力量として読まれてしまうこわさがあるなか、このジャンルにおいての世界最強の強度(!?)を持つイーガンの名前を出してくれるのは、「ちゃんとできてるよ」といってもらえているみたいでうれしい。

そして、樋口さんからは「きっとこれまでに読んできた小説たちが似ているんだろうな」といってもらえて、ぼくもまた『構造素子』を読みながらそんなことをおもっていたのでうれしかった。

 

 

「名前があるひと」

「名前があるひと」として実作したり書評を書くことは、その名前の歴史をつくることで、ひとつの作品について語るわけじゃなく、その名前の文脈において読書して実作する。

それをきちんとつくれるよう、ひとつひとつ、いただいたお仕事をきっちりすることしかいまはできなくて、いつかぼくの名前がつくる文脈がだれかの安心やよろこびに繋がればうれしい、とおもった。