カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


弱い恋愛と絶対化されるアマチュアリズム──町屋良平『しき』(文藝2018年夏号)

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もうじきぼく自身が小説を書きはじめて10年くらい経ち、それでもまだたかだか10年程度でしかないとはいえ、いわゆる筆歴がながくなってくると「いつまで小説を書けるんだろう」みたいな疑問がふと脳裏をよぎる。
小説を書ける、というのは小説でまともなお金をつくれていない状況からすると実生活上の問題によるものがほとんどで、じっさいに小説を書くという共通点で仲良くなった友だちのいくらかはそうした事情で小説を書くことをやめてしまった。このことはけっこうつらい。ぼくが知っている小説を書くひとのほぼ全員は大なり小なり「文学賞」というものを視野に入れて実作に取り組んでいる。やめてしまうひとたちはその結果に翻弄されながら徐々に心身に疲労をためこんでいって、小説を嫌いにこそならないけれども、それぞれにそれぞれの絶望を確信していくし、そのことはぼくにとっても他人事ではない。「小説を書くために必要なもの」はすくないけれども「小説を書き続けるために必要なもの」は複雑で大きく、そして簡単に目の前には現れてはくれない。

しかし「いつまで小説を書けるんだろう」というぼくの疑問は、そういう次元のものではない。

それはもっと原理的なもので、まさにそのままの意味で、「小説そのものが根本的に書けなくなってしまう可能性」のことだ。特に雑多なトピックを扱っているライターなんてやっていると、小説のためのぼく本来の文体がいつ壊れてしまうかわからない。それがこわい。媒体のレギュレーションに合わせて改行を施したり漢字を開いたり閉じたりする行為でさえ生理的な気持ち悪さがつきまとい、この気持ち悪さの蓄積がいつかじぶんにとって取り返しのつかないものになってしまうのではないか、という恐怖。それをまいにち文章を書くたびに自覚するし、事実、複数名の作家をしている友人・知人・恩人にも指摘された。文体やらナラティブというものに「身体(性)」ということばが当てられる理由はおそらくこれで、「書く」という物理的な次元での故障を回避するための調整を自身で行っていく必要があって、一般にいわれる「書き続けることのむずかしさ」はこれに起因する。

こうした問題は小説に限らない。スポーツにしろ音楽にしろ、表現を継続し、結果を出し続けるための「努力」なるものはなににおいても必要になってくる。表現者自身が対価をもらっているか否かにかかわらず、継続に向けた精神のすべては「プロフェッショナリズム」に位置付けられるとぼくはおもう。小説をやめてしまったぼくの友だちはみんなこのプロフェッショナリズムに耐えられなかったのかもしれない。

町屋良平の中編小説「しき」は、ダンスを中心に据えた表現への自己言及的な小説だ。三人称で語られる主人公の「かれ」は16歳の高校生で、ダンスだけでなく友情、恋愛といった10代をとりまく不確かな魅力と恐怖の渦中に投げ出される。

 

町屋良平の描く「弱い恋愛」

町屋良平はこれまでに発表した『青が破れる』『水面』のふたつにおいても、思考を身体運動と接近させる試みを一貫しておこなってきていて、ボクシングや日記を書くという行為や、描かれる恋愛も性欲や情念を身体的な挙動として回収している。とりわけ成就するでも絶望的な破局を迎えるわけでもない淡い、というよりも「弱い」といったほうが適切なかれの物語の恋愛は『しき』でも物語上の重要なファクターとして描かれている。かれが描くものはいまのところすべて「恋愛小説」の様相を帯びているのだけれども、しかし「わたしとあなた」という一人称複数的な世界の描きかたは一切されず、その恋愛には「あなた」がいない。とりわけ『しき』では、高校生の男女それぞれのちいさなコミュニティで登場人物たちの「恋に恋する」という状況、あるいはそれ以前の「コミュニケーション上の便宜を図るための形式的な恋愛模様」を端的に描いている。

 

 

そして町屋良平作品におけるこの弱い恋愛の不穏さを色濃くしているのは、思弁的だが舌足らずな語りだ。『しき』においては、「かれ(=星崎)」に焦点を当てた三人称(それでいながら微妙にブレる)で構成されていて、星崎が属する男子グループとかれの想いびとが属する女子グループの恋愛構図が説明的に提示されるが、その語りは「恋愛のわからなさ」、「そもそもじぶんは恋愛をしているのか」という方向へと進んでいく。そして形式的な部分については分析的に語られるのにも関わらず、当人たちの心情になると「ふわっと(もやっと)した感覚」で核心は具体的には語られず、これがネット上などでの感想で「もしかして文章下手????」みたいなことを書かれがちな理由もここに由来しているかもしれない。

しかし、この「下手さ」は、語彙の選択や漢字のひらきかたなどにより確信犯的に誇張されたものに読める。ただ、そうした書きかたなんの意味があるのか、という問いはおそらく意味を持たない。それが町屋良平の文章の個性だ、というのはお粗末であるけれども、ロジックを超越した事象を描き出すために重要なのは「わからないことを“わからない”ということ」であり、そのわからなさを受け入れなければ次の文章というものを作家は書けない。文章を厳密につなげていく意志として、「なにかを明らかにしよう」とわからなさへ向かう必要性ばかりが意味の世界では求められるが、「わからなさ」そのものへの言及は説明や断定よりもはるかにむずかしく、複雑だ。町屋良平の個性的な文体は、この「わからなさ」──恋愛未満の身体で恋愛を行うミスマッチ──を端的にうつしだしている。そして今回採用された焦点が三人称のブレが、いっそうに文体の不可解さを強調している。

 

アマチュアリズムの身体

「あたまのなかのおれのほうが、ほんとのおれっていう感じする」
「うーん」
「練習しているときの、うまく動けてないおれのほうが、本来のおれじゃない、みたいな……」

町屋良平『しき』

『しき』はダンスや恋愛を通じて「表現する身体」を構築する小説だが、その大きな特徴は「徹底したアマチュアリズム」にある。「かれ」はダンスを黙々と続けているが、ダンスそのものへの関心こそあるけれども、それによる外的な評価を求めていないし、ダンスを続けていくのかなどの思考は一切行わない。それどころか、文面に書かれてこそいないが、いつか飽きてやめてしまうんだろうな、という感覚すら読み取れる。

「かれ」はダンスをすることで自身の表現を少しずつ獲得していく。ダンスを上手くなりたいともおもう。しかし、ダンスでどうこうしようという高次の目的は持ってなくて、その情熱はダンスをしている瞬間にだけ注がれていて、それは永続しない。それと同時に、高校生であるという時間も、定かではない恋心も、友人とのコミュニケーションの不具合も、すべてが究極的には一過的なものでしかないものとして描かれている。こうした普遍性・再現性をともなわない感情や思考は「プロフェッショナルと相反することのない対極」であることがこの小説の最大のおもしろさである、とぼくは読んだ。

何者でもない現在の瞬間的な感情の起伏は、何者かになってしまったあとでは決して繰り返せない快楽だ。ダンスにしろ小説にしろ、一生続けるという前提を持ってしまえばきっと瞬間瞬間にこのような快楽を見出すのはむずかしくなる。
だれのためでもなく、なんのためでもなく、わけのわからないあこがれと欲求により形成されるアマチュアリズムの身体に、ひとをしあわせにするような意味などないだろう。だが「何者でもない未熟なわたし」にしか獲得できなかった身体でしかひとは踊ることができない。「踊ること」が良いのか悪いのかは、それからの話でしかないのだ。