カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第一回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

2017.6 文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

なぜ結婚式を挙げないと離婚率が高くなるのか?

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結婚して今年で5年になる。

結婚当初、ぼくは博士課程の学生で同い年の妻は会社員3年目だったが、お互いに田舎の長男長女だったこともあり「結婚式ぐらいは挙げとくか」ということになった。

ぼく個人としては結婚式なんてただ面倒くさいという印象しかなかったのが本音だ。
金もかかるし準備も大変、披露宴に誰を呼び二次会には誰を呼ぶとかで気疲れもする。それに我々の人生は見せもんじゃない。
が、結婚式をやってみるとこれはこれで良い思い出になった。大学時代の先輩が式場で泣きじゃくりながら親族にウザ絡みしたり、「あ、我々って意外と友だち多かったんだ!」という発見もあったし、恩師には英語が下手くそなことを公衆の面前でバラされたりするしで、なかなか忘れるのも難しい濃い1日になった。

さて、こんなことを思い出したのは、生湯葉シホさんのこんな記事を読んだからである。

 

p-dress.jp

 

この気持ちはけっきょく結婚式を挙げたぼくにもよくわかる。「結婚式を挙げない」はひねくれているとかそういう問題じゃなく、夫婦が下した1つの決断にすぎない。それを外野がどうこういうのは野暮だ。しかしこの選択自体がマイノリティであるがゆえに、記事内でもあるように「挙げるのが普通だから」という価値観のせいで生きづらさがどうしても生じてしまうのはやっぱり不憫だ。

この普通と言われる「結婚式を挙げたひと」が「結婚式を挙げないひと」に振りかざす暴力としてよくあるのが、

結婚式を挙げなかったカップルは離婚率が高い!

というやつだ。

これはよく知られた統計なのだけれども、「結婚式を挙げれば結婚生活はうまくいく」という主張に繋げられる(=「離婚しないためにも結婚式を挙げなよ!」というやつ)ことがよくある。というわけで、まずはデータを見てみよう。

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引用:http://www.mwed.co.jp/wp/wp-content/uploads/2013/10/20131029_kirikon.pdf

上図で「入籍のみ」をみると、離婚カップルの数値が3倍ほど高くなっている。

でもこれって、ぶっちゃけどうなのだろうか?

 

目次

  • 「因果関係」と「相関関係」をごっちゃにしてない?
  • 「結婚式を挙げる/挙げない」を選択するポイントは2つ
  • 結婚式問題は「夫婦で決断する」最初の問題
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【随時更新】noteで公開している小説のリストとあらすじ

まちゃひこです。

表題の通り、noteに持て余していた小説を公開しました。

大滝瓶太|note今後も書いた小説や翻訳は随時noteにて公開していきたいとおもいます!

というわけで、noteで公開している小説のあらすじをまとめてみました。
暇つぶしにどうぞ!

 

作品リスト

  • 皮を剥ぐにはうってつけの日
  • 暴君アヴァレンティヌス
  • ヒア・ゼア・エブリウェア
  • むらにつもるこえ
  • 干乾びた胎児
  • 現在noteでまとめた短編集はこちら

 

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ぼくらがセックスできなければ結婚していただろうか?──こだま『夫のちんぽが入らない』書評

※このエントリーにはこだま『夫のちんぽが入らない』のネタバレを含みます。

 

昨日の夜、ゴールデンウィークに登山に出かけて遭難してしまった親子が発見されたというニュースをみた。県警のヘリコプターが見つけたそのとき、親子は覆いかぶさるようにして山の斜面でうつ伏せになった状態だった。午後2時35分、ふたりの死亡が確認された。
こうしたニュースを聞くのが非常につらくなったのは、ぼく自身が父親になってからのことだった。もっとも息子が生まれた瞬間にじぶんのなかに父性が芽生えるなんてことはなくて、生後3ヶ月は妻の実家で育てていて会うのは週末だけで、義母に教えられながら恐る恐る抱く我が子がほんとうに我が子であるという実感がともなわない。やがて神戸の家に妻と子がやってきて一緒に暮らすなかで、ふとした瞬間に「息子が死ぬ」という想像が突然生じるようになった。台所に立って包丁を持つと息子がその刃に切り刻まれ、洗濯物を干そうとベランダに出ると息子が落下していく。そんな想像のせいで、ぼくは2階より高い場所にいるときに息子を抱きかかえることができない。いまもだ。

「子どもが生まれると、残酷な作品を作れなくなる」

ということについて、このときによく考えた。ぼくの結論をいえば、それは子どもがもたらす幸福のイメージによりそうなるのではない。むしろ、子どもが生まれたことによって、以前にもまして残酷な想像はよりリアルに立ち上がる。ただ、その想像というのは、子どもが刃物で身を切らないように、子どもが高いところから転落しないように、子どもを危機から守るために生じるもので、きっと親の──すくなくともぼくの──残虐性とか暴力の欲望とかを反映したものではない。子どもを守るために、父性が穿たれたぼくの身体は残酷な想像をする。それを主題にした原稿用紙100枚程度の小説を書いたのはだいたい1年半ほど前のことだ。

女性が生物学的に母になるのとは違い、「父になる」ということは男に身体的な変化をなにももたらさない。ただ、息子と生活するようになってから息子中心に組み立てられる習慣により、ぼく自身はといえば「身体的な変化」みたいなものをわりとはっきりかんじている。よく肩がこるようになったとか、日が変わる時間までとても起きていられなくなったとか、そういう些細なことばかりなのだけれども、こうした変化によってぼくが興味を持って考える対象や、結論は確実に変わってきた。この変化を実感すると、以前はまったくといっていいほど関心を持てなかった現実に起こったニュースや政治的なものについて、少しずつ興味を示すようになった。そして忌み嫌っていた「私小説」とよばれる小説たちについての関心を持てるようになってきた。

 

目次

 

真実性と私小説

 

 

2014年に文学フリマで話題となり、昨年に書籍化され話題となったこだまによる小説『夫のちんぽが入らない』は作者により「私小説」と銘打たれている。そのとおり内容は作者が体験した実話を元にした、「性器の大きさの不一致から物理的にパートナーとだけ性交できない」という他者から理解を得られるのが難しいと思しき不条理を中心に据えた夫婦の物語だ。夫と性交ができず、職場の学校では学級崩壊が起き、精神的に追い詰められインターネットを通じて知り合った不特定多数の男と行為に及び、後に自己免疫疾患を患い、妊活に失敗し、さらには高校教諭である夫がパニック障害を発症するなど次から次に困難が訪れる。
このあらすじと作者を完全に切り離して「文芸作品」として読むならば、わかりやすい不幸のオンパレードに辟易し、そこに真実性を見出すのはむずかしいとさえ感じる。このテクストの真実性は、あまりも「実話」や「私小説」という触れ込みに頼りすぎているのではないかとかんじ、「つらい話をつらいものとして提示した」という類の文章のあまり良い読者でないぼくにとって本作を「文芸作品として優れたもの」として受け入れることはむずかしい。 

インターネットと私小説

誰かと関わりたいわけではないと言いながらもメールアドレスは公開していた。誰もあてにしていないし、誰の話も聞きたくない、信用していない。でも聞いてほしい。メールでもいいので私の話を聞いてほしい。とても矛盾していた。

こだま『夫のちんぽが入らない』

ただ、この作品が作品としての一貫性を力強く支えていたのは、上に引用した一節だ。これは「私」がインターネットの日記でつらい心情を吐露し、不特定多数の男性と性的な関係を持っていた時期にでてくるものだが、特定の誰かではない誰かに向けてまるで海に便箋を流すように感情を吐き出す様は、変な言い方になるけれど「まさにインターネットのテクストそのもの」だ。特に、ゼロ年代のブログとか、ああいった雰囲気を強くかんじる。

インターネット、とりわけブログ的な自己表現と私小説について、ぼくは以前にはあちゅう『通りすがりのあなた』の書評ですこし言及した。 

www.waka-macha.com

はあちゅうの小説はフィクションとしての加工がなされたものだけれども、はあちゅう個人の体験をベースとした体験記的なカラーが強い短編がほとんどで、『夫のちんぽが入らない』ほどではないけれども「はあちゅう」というキャラクターによって小説そのものが支えられている印象がある。こうした作品と作品外部にいる作者の距離の近さという点で共通のものをかんじるけれども、圧倒的に異なっているのが読者意識だ。結論からいえば、『通りすがりのあなた』は「10年代的ブログ」なのに対し、『夫のちんぽが入らない』は「ゼロ年代的ブログ」である。無論、こうした意識を作者が持っているとか持っていないとか、そういうのはここでは関係ない。
ぼくも一応長くブログをやっている人間なので、ブログの文章は近年特に大きく変化したことを実感している。その変化は『通りすがりのあなた』の書評で書いたのだけれども「ブログが金になる」という価値観の誕生によるものだ。PVやアフィリエイトの収益がブログの価値を示す明確な指標となり、この数字を伸ばすためのマーケティングが近年のブログ界では主流となっている。SEOへの配慮や、書き手のキャラクター化を行うなどの手法が確立され、しかし読者獲得のための個性作りが無個性さを強調させている。インターネット的な文章は「意味をすばやく消費する」ことにとりわけ特化していて、はあちゅうの文章はそうした意味を「伝える」ということに特化している。何かを伝えるためにフィクションが援用されていて、物語そのもののために小説があるわけではないとぼくは読んだ。こうした私小説性が援用された小説は、「事実は小説よりも奇なり」という思想を助長しかねない。ぼく自身、小説として表現される世界と現実の世界はそもそも厳密な比較対象として挙げられる適切さがないと考えている。小説が想像力を欠いた読まれかたにさらされてしまう危険性があるような気がしてならい。だからなんとない嫌悪感がある。

『夫のちんぽが入らない』にもそのような危険性がある。しかし、本作のようなゼロ年代のインターネットの文章は、利益を出そうとか読者を増やそうとかそういう意識が希薄だ。「誰もあてにしていないし、誰の話も聞きたくない、信用していない。でも聞いてほしい」という意識は、意味とか伝えるとか、そういうものから遠い位置にあって、それは「表現」という行為にちかい。散文を言語表現にするための技巧などはほぼ使われていない本作が、「表現」にちかい文章になっているということについてぼくは懐かしい気分になった。じゃあ「表現」とは何か、といわれてもうまく答えられないのだけれども、得体のしれないエネルギーが推進力となっている文章は、野蛮だけれども読んでいてすがすがしい。ほんらいなら、このような文章は不特定多数のだれかの目に触れる位置にありながらもだれにも読まれない、というケースが多い。しかしそれが発見されたということじたい、奇跡的で希望的なことだとおもう。

不条理と幸福

私たちは性交で繋がったり、子を産み育てたり、この世の中の夫婦がふつうにできていることが叶わない。けれど、その「産む」という道を選択しなかったことによって、「産む」ことに対して長いあいだ向き合わされている。果たしてこれでいいのか、間違っていないだろうかと、行ったり来たりしながら常に考えさせられている。皮肉なものだと思う。

こだま『夫のちんぽが入らない』

 本作は「夫のちんぽが入らない」という事象を「不条理」だと読むことで、さまざまな構造が浮かびあがってくる。物理的に性交できないという身体によって、性交や結婚が通常(=多くのひとによって共有されている)持ちうる意味が宙吊りにされ、解体されている様子が書かれているのが上記の引用だ。この構造が明確になることによって、書かれているエピソードのすべてが無秩序に生じる悲劇ではなく、起こるべくして起こった宿命的なものごととしての一貫性を獲得する。そしてそれは「もし夫と性交できたのであれば、身に降りかかったすべての悲劇は起こらなかったかもしれない」というありえなかった可能性を想起させる。
ただ、読み進めるにつれてこの小説で「私」は悲劇を吐露したいというわけではないとわかる。「私」は夫との結婚生活で世間一般の夫婦が築くであろう幸福が失われていて、それを得ようとするほど不可能性だけしか手元に残らない。しかし、「私」は夫との生活に確かな幸福を感じていて、それは「夫のちんぽが入らない」という不条理を超えて勝ち取られたものだ。小説として、この物語は世間一般の夫婦からすれば明らかな不幸といえる不条理と、共有されないオリジナルな幸福で構成されているため、悲劇的な印象はやはり拭えない。ただ、この物語を悲劇と読んでしまうのはおそらくそう読むじぶんの未熟さでもあり、しかしだからといって幸福の物語と読むのも未熟だ。混ざり合うようでいて決して混ざり合わない不幸と幸福が混在していて、その感情を命名することはぼくらに許されていない。

ぼくは息子が生まれてから、息子が生まれなかったときのことをときどき考える。息子が生まれたことによってこれまで自由にできていたことのほとんどができなくなったり、現実的な生活の問題がいっそうに切実になり、小説を読んだり書いたりすることはもうできないんじゃないかともおもった。けっきょく、ぼくは息子がいなくなった世界というのは考えてみてもうまく想像できない。ぼやっとあるさみしさだけが想起され、息子がいない世界を即座に否定する。そしてかわりに妻と結婚しなかったら、という実質的におなじだけどまた違うシチュエーションについて考える。
26歳のとき、ぼくは大学院生で妻は会社員だった。連休を使って留学先まで遊びに来た彼女をピッツバーグ国際空港で見送るとき、結婚についての話になったことはいまでも鮮明に憶えている。たぶん一生忘れない。それまでぼくは彼女と結婚することが当たり前だとおもっていたけれども、もうわかりきっていたじぶんの安定しない人生と真剣に向き合ってはじめて、ぼくの人生にこのひとを付き合わせても良いものか、という悩みが生じた。彼女は結婚して、子どもが欲っしていた。3人欲しいといった。きっとぼくらのあいだの子どもは面倒くさいオタクにしかならないよ、という話はそれまでに幾度となくしていたのだけれども、もしぼくらがセックスできない恋人同士だったなら、そういう会話は絶対にありえなかった。その会話を現実にすることがしあわせだとおもっていたぼくたちの人生に息子がいないのだったなら、あの日の空港で別れてから、ぼくらはもう大学時代のとおい友人として、先輩とか後輩とかの結婚式でたまに顔を合わせる程度でしかなかったかもしれない。いま、ぼくは世界のどこにいたのかもわからない。ちがう街で妻が知らないだれかに抱かれていることだけわかった。

弱い恋愛と絶対化されるアマチュアリズム──町屋良平『しき』(文藝2018年夏号)

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もうじきぼく自身が小説を書きはじめて10年くらい経ち、それでもまだたかだか10年程度でしかないとはいえ、いわゆる筆歴がながくなってくると「いつまで小説を書けるんだろう」みたいな疑問がふと脳裏をよぎる。
小説を書ける、というのは小説でまともなお金をつくれていない状況からすると実生活上の問題によるものがほとんどで、じっさいに小説を書くという共通点で仲良くなった友だちのいくらかはそうした事情で小説を書くことをやめてしまった。このことはけっこうつらい。ぼくが知っている小説を書くひとのほぼ全員は大なり小なり「文学賞」というものを視野に入れて実作に取り組んでいる。やめてしまうひとたちはその結果に翻弄されながら徐々に心身に疲労をためこんでいって、小説を嫌いにこそならないけれども、それぞれにそれぞれの絶望を確信していくし、そのことはぼくにとっても他人事ではない。「小説を書くために必要なもの」はすくないけれども「小説を書き続けるために必要なもの」は複雑で大きく、そして簡単に目の前には現れてはくれない。

しかし「いつまで小説を書けるんだろう」というぼくの疑問は、そういう次元のものではない。

それはもっと原理的なもので、まさにそのままの意味で、「小説そのものが根本的に書けなくなってしまう可能性」のことだ。特に雑多なトピックを扱っているライターなんてやっていると、小説のためのぼく本来の文体がいつ壊れてしまうかわからない。それがこわい。媒体のレギュレーションに合わせて改行を施したり漢字を開いたり閉じたりする行為でさえ生理的な気持ち悪さがつきまとい、この気持ち悪さの蓄積がいつかじぶんにとって取り返しのつかないものになってしまうのではないか、という恐怖。それをまいにち文章を書くたびに自覚するし、事実、複数名の作家をしている友人・知人・恩人にも指摘された。文体やらナラティブというものに「身体(性)」ということばが当てられる理由はおそらくこれで、「書く」という物理的な次元での故障を回避するための調整を自身で行っていく必要があって、一般にいわれる「書き続けることのむずかしさ」はこれに起因する。

こうした問題は小説に限らない。スポーツにしろ音楽にしろ、表現を継続し、結果を出し続けるための「努力」なるものはなににおいても必要になってくる。表現者自身が対価をもらっているか否かにかかわらず、継続に向けた精神のすべては「プロフェッショナリズム」に位置付けられるとぼくはおもう。小説をやめてしまったぼくの友だちはみんなこのプロフェッショナリズムに耐えられなかったのかもしれない。

町屋良平の中編小説「しき」は、ダンスを中心に据えた表現への自己言及的な小説だ。三人称で語られる主人公の「かれ」は16歳の高校生で、ダンスだけでなく友情、恋愛といった10代をとりまく不確かな魅力と恐怖の渦中に投げ出される。

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「エモい」という記号化された感情とWEBメディアの文章/『でも、ふりかえれば甘ったるく(PAPER PAPER)』

「これエモくないすか?」

ということをいわれ、

「なにそれ?」

と返したのは、たぶん2年か3年かまえのことだったとおもう。

ことばはいつも知らないうちに次々とどこかから生まれ、ある程度パッケージ化された状態で情弱のぼくの手元に届くわけだけれど、「草食系」とか「まじ卍」とか、それらがたくさんのひとに使われるなかで意味は固定されていく。特定の意味を指し示す記号としてこれは言語本来のありかたで、しかしこうした語彙の氾濫は認知や描写の粗雑化を招いているような心許なさを、わりと強めにぼくはかんじている。

はじめにいっておくと、「エモい」ということばの厳密な意味やら由来について、ぼくの興味は皆無だ。なにに興味があるかというと、後述するが「エモい」ということばの使われかたであり、このことばをとりまく構造だったりするものだ。だからぼくはある種の記号として、以下で「エモい」ということばを使うことにする。この点についてご容赦いただきたい。

いちおう簡単に調べてみると、「エモい」ということばは、

『感情が動かされた状態/感情が高まって強く訴えかけれる心の動き』

を指すようで、「emotional」を語源に持つという。あるいはロックの形態「emo」に由来するとかなんとかあるらしい。よう知らんけど。

この様は、感極まって適当なことばで言い表すことが不可能になった状況下で使用され、友人がいうに、「あわれ」ということばにちかいらしい。

もちろんぼくはそういう状態や感情じたいに否定的な立場を取る気はない。しかし、「ことばで言い表せない」という意味こそが悪い意味で「便利すぎる」ものであり、「ことばで言い表せない」とひとこと言いさえすれば、だいたいのことはだいたいのひとに伝わってしまうのが問題だとおもう。

これは「伝わることが悪い」という意味じゃない。

芽生えた感情を「言い表せない」と粗雑化することでその場をしのいでいるに過ぎず、「エモい」をはじめとするこうした便利言語の話者がそのことに無自覚であるきらいがあるということに、ぼくの問題意識がある。

さいきん、株式会社シネボーイによる出版レーベル「PAPER PAPER」から発行されたエッセイ集『でも、ふりかえれば甘ったるく(以下、でもふり)』を読んだ。

この本のタイトルはあからさまに「エモい」を想起させるが、読み終えてみるとこの「エモい」ということばについて自覚的なコンセプトをもった本だったとかんじた。

 

 

目次

  •  ネットの文章は「読者」によって書かれている
  • ことばの「氾濫」と「速さ」
  • 「わかりえない」という正義
  • 『でもふり』で自己言及的に扱われた感情の定型
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