あけましておめでとうございます、というにはすこしばかり遅くなってきて、いまさら正月の話をするのはことし一年の抱負とかそういう「これから」なかんじじゃなく、「これまでの2018年」に近い印象を持ってしまう。
新年とかクリスマスとか節分とかバレンタインデーとか、そういう節目節目の「とくべつ」はどうも苦手だ。
たぶん、こういった「とくべつ」を噛み締めたりクンニリングスしたりできる才能を「情緒」というのだろう、とふとおもったがそれはちがうとすぐにおもう。たぶん、いまあるとくべつよりも「とくべつじゃないものをとくべつと見なすこと」こそ、才能たる情緒だ。
小説でもブログでも日記でもなんでもいいのだけれど、言語表現としてなにかを書き留めておくというのはこの「とくべつ化」ともよべる情緒が必要になる。
情報エントロピーというものを大学生のときに本で読んだ。情報とはある種の不規則性というか、「それまでのパターンに回収されないもの」みたいに解釈できるらしく、まさに書き留めることが可能な「とくべつ」とはそんなものなのだろう。
ブログを書きはじめて、おそらくは6年くらいになる。
はじめこのブログはぼくが海外留学していたときに、日々起こる「とくべつ」を記録するためのものとしてつくった。
研究のこととか、小説のこととか、アメリカでみたものの写真とか、研究のパートナーだったインド人のアンキットのお家とか、そういう過去のすべて「とくべつ」で、いまなおそうだ。アンキットにしろ、三回ほど口を開けば一度は「ふぁ◯く!」と叫ぶ妻子持ちの大学院生だったジェイソンも、ちびまる子ちゃん好きの台湾の女の子のアイビーも、木の杖をひたすら作り続けてていったいなんの研究をしているのか最後までわからなかったキースも、いまなおフェイスブックの友だちではあるけれどまったく連絡をとっていないし、ぼくはフェイスブックでは英語を使わなくなった。
たぶんかれらに会うことはもうないだろう。この関係性はもう終状態になってこれ以上永遠に「とくべつ化」されないとおもうけれど、しかしそれは文章化するに値しないことだろうか、とふとおもう。いまのぼくにはとくべつがわからない。
「とくべつ」の見つけ方
いつかの情熱大陸で有名な音楽家が「とくべつ」を見つける方法を話していた。
なにがとくべつかわからなくなるから、毎日まったくおなじ生活をするようにしている、といっていた。
なるほどな、とおもった。
ともだち。
国文学者の友だちにあけおめメールを送った。
かれはこの13年間ほんとうに変わらない。
変わらないからこそ、かれの話はいつもおもしろい。
けが。
おととい、ロックマンXをしていた。座布団の上で正座するスタイルを1時間ほどキープしてから立ち上がると足の感覚がまったくなく、気がついたら派手に転んで、左足に激痛。
骨は折れてなかった(ほんとによかった…)けれど、靭帯を痛めたらしくすごく腫れて靴が履けない。ロックマンでテンション上がりすぎたひとみたいで、ひとりで恥ずかしかった。
はじめていった整形外科はおじいさんとおばあさんでいっぱいだった。
あけまして
おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。