カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第一回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

2017.6 文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

遠藤周作がセンター試験で出題された思い出とその周辺の話

この一週間で2本、遠藤周作の作品の書評を寄稿した(『海と毒薬』『沈黙』)。

 

海と毒薬/遠藤周作:あらすじ&書評『<何が>彼らを殺したか』

沈黙/遠藤周作:あらすじ&書評「奇跡なきこの世界で我々が考えうること」

 

遠藤周作で記憶に残っていることといえば実はセンター試験で、ぼくが麗しの(?)受験生だった2005年の国語で、『肉親再会』が出題された。非常に短い小説で、たしか本文が全文掲載されたらしく、こういう出題をするのはなかなか粋だ、などと入学したあと塾講師をしている友だちがいっていた。

『肉親再会』は芸術家に憧れを抱いている「私」が、パリにいる妹を訪れるお話で、いろいろと貧しい生活をしながらも芸術に献身する妹の精神に、私は敗北する。その敗北を「コートが汚れる」というシーンに凝縮させることで小説全体が短いながらも重さを持つに至っている。

これをはじめて読んだとき、ぼくは試験中だったのもあり、そしていまほど小説というものに興味がなかったということもあり、特になにも思わず「ダルい文章だな」くらいの感想しか持たなかったはずだ。

ただ、先日『沈黙』を読み、そこで描かれる信仰のありようのことを考えると、やはりこれは遠藤周作的な、いや、遠藤周作ならではの作品だったんじゃないか、と思うに至った。「第三の新人の典型みたい」といわれればわからなくもないところがあるけれど、思慮深い遠藤周作ならではの「二重性」が、かれの作品に個性を与えている。

 

またしても「二つの身体」の話

二つの身体、という話を郡司ペギオ幸夫から考えるようになったわけだけれど、「主体的にわたしであろうとする身体」と「環境に要請されるわたしの身体」のふたつが、『沈黙』でも『海と毒薬』でも、そして『肉親再会』でも描かれている。

かれの物語には「わたし」たる自我を持つ存在がもちろん存在していて、その「わたし」は「信仰」、「戦争」、「芸術」などさまざまな外的要因にいつでも引き裂かれかねない危険にさらされている。『肉親再会』で、「私」はみずからの芸術を信じる妹が貧しい暮らしをしていることを不憫に思うが、こうした「不憫な私」という像を作り出してしまうことこそが「私」が敗北した最大の原因に他ならない。「夢を持つのが正しい」、「それを信じ抜くのが正しい」、とかそういう価値観をどこかで無意識的に絶対化してしまった時点で、「私」はもう決して芸術家にはなれない。

ちなみに『肉親再会』は『最後の殉教者(講談社文庫)』に収録されている。

 

 

センター試験とその後

ちなみにぼくのセンター試験の結果は悪かった。

国語はなかでも特に悪く、たしか140/200ぐらいしかなかった。当時、よくある理系らしく現代文が苦手だったのだが、驚いたことにこちらはそれなりに点を取れていた。ミスったのはそれまで転んだことのなかった漢文だった。13年たっても憶えている程度にはショックだった。

受験生当時は知り合いですらなかった遠藤周作の『肉親再会』の話をしたかれとは、その年の夏の初めごろに京都で会うことになるのだが、そのかれと先日神戸の風呂屋(≠ソープ)へ行ってきた。ついでに鍋も食べた。次は花見で会うらしい。